大宅壮一 炎は流れる3 明治と昭和の谷間 目 次 [#小見出し] 使節の見た海外事情    太平洋・ジャワ・香港を目のあたりに見た日本人の実感 [#小見出し] 琉球出身者の忠誠心    戦後発生した�勝ち組�の多くは琉球出身者だった理由 [#小見出し] 両属性と琉球の悲運    二つの強国のあいだにあって振り子のように動く地理的条件 [#小見出し] 近代日本の百年戦争    開戦と終結のうけとり方でちがう百年戦争の歴史的意義 [#小見出し] 特異な産物・奇兵隊    実力本位に徹して戦争をスポーツ化した高杉晋作の奇略 [#小見出し] 日・韓併合の舞台裏    憎み合ってもわかれることのできない運命共同体の関係 [#小見出し] 朝鮮統治二つの世論    二つの世論にあらわれている日本の対韓政策失敗の原因 [#小見出し] 根強く残る対日敵意    伊藤博文の暗殺者がたちまち全朝鮮の偶像となった背景 [#小見出し] 間島ソビエト探訪記    朝鮮の北部にできた知られざる�ソビエト地区�の実態 [#小見出し] 二つの朝鮮の宿命    四十年も前からくすぶっていた朝鮮二分の悲しい必然性    あ と が き [#改ページ] [#中見出し]使節の見た海外事情   ——太平洋・ジャワ・香港を目のあたりに見た日本人の実感—— [#小見出し] 一人あたり二トンのみやげ  使節団の帰国は、パナマ経由でなくて、ニューヨークから北大西洋を西南にむかって進み、ベルデ岬諸島、ポルトガル領アフリカのロアンダを経て、喜望峰をまわり、インド洋に出て、ジャワ、香港を通ってかえることになった。  日本人としては、慶長十八年(一六一三年)支倉常長《はせくらつねなが》が伊達政宗《だてまさむね》の命をうけてローマに使いして以来の大航海である。  一行のために合衆国第一の軍艦「ナイアガラ号」が用意されていたが、この軍艦の名は、一行がブキャナン大統領官邸に招かれたとき、ホステスとして接待した大統領の姪レエンがつけたものだ。四千五百八十トンで、日本の船でいうと約三万三千石積みとなる。  ところが、ちょうどそのころ、ニューヨーク港には、最近できたばかりで、「宇内《うだい》にならびなき」大きな船がはいっていた。これは英国の商船「グレート・イースタン号」で、「ナイアガラ号」の倍以上もある。三千人の客をのせて、一日に二百五十カイリから三百三十カイリも走るので、ロンドンからここまで十一日しかかからなかった。それはいいが、船もこう大きくなると、浅いところにははいらないし、石炭の消費量が多い上に、貨物をじゅうぶんに積むと、相場に影響して、一時に売りさばくことができないから、はなはだ不便で、「無用のものなりと米人はそしりけるも、もっともなり」と村垣|範正《のりまさ》は書いている。 �天下の奇観�というこの巨船の内部を見に行かないかとすすめられたけれど、使節団のほうでことわった。というのは、イギリスにたいするアメリカ人の気持を察したものと思われる。  前に一行が、パナマ地峡をすぎて、アスピンワル(いまのコロン)で待ちうけていた「ロアノーク号」に迎えられたとき、たまたま同じ日に英国巡洋艦「エメラルド号」が入港したので、「ロアノーク号」で催された日本使節歓迎会に、英艦長以下を招待したところ、かれらはこれに応じなかった。そればかりか、当然放つべき日本使節にたいする礼砲も放たなかった。  これを見ても当時日本をめぐって、英米のあいだに微妙な対立感情、サヤ当てのようなものがあったことは明らかである。  六月三十日(旧暦五月十二日)午後一時、「ナイアガラ号」は、ニューヨーク港を出帆した。砲台では、日の丸をかかげて祝砲をうった。やがて、船は沖に出た。   あめりかの浦山遠くかえりみて        御国にむかう船出うれしき という村垣の歌は、一行の気持を代表したものである。  この航海は長いので、かねて食事なども�対食�(会食)はことわって、食事はすべて日本人の手でつくり、自由に食べることになっていた。しかし、日本食の材料をそんなに積みこむことができなかったというので、あいかわらず肉ばかり多く出た。しかし、船の生活にはなれてきた。  くる日もくる日も、水と雲を見てくらした。   海の名はあらたときけどあたらしき       見るめも波の船の上かな  アトランティック・オーシアン(大西洋)というから、なにか目あたらしいものでもあるのかと思ったら、目にうつるのは波だけだというシャレである。  この間に、佐野鼎《さのかなえ》は「ナイアガラ号」のことをあれこれときいて、たんねんにメモをとっている。乗組員の総数は五百十一名だが、かれらの給与は、船将(艦長)が年俸四千二百ドル、次官(副長)が二千二百五十ドル、勘定奉行(主計長)はこれより多くて二千九百ドル、一等医官二千六百ドル、僧官(牧師)は千九百ドル、一等機関士千二百五十ドル、水夫頭、大工頭、大砲方頭などそれぞれ千ドルで、これらオヒシイル(士官)の総数は三十六名である。  大工職、大砲掃除掛り、帆縫役、桶師、塗師、料理人など、技術者は年俸二百ドルから三百ドルといっているが、伶人《れいじん》(楽士)となると、頭一人だけが年俸で二百四十ドル、平楽士は月俸で十五ドルから十二ドルとなっている。  水夫は月俸で、十八ドルから九ドルまで、火夫は比較的高い。太鼓手は十一ドルである。  こういうことは木村摂津守《きむらせつつのかみ》や勝海舟《かつかいしゆう》などもよく調べてかえったはずで、のちに幕府や明治政府が海軍を創設する上に参考になったであろう。それよりも、佐野がとくに感心したのは、 「異国人は将官といえども、従者なく、かつ荷物も革箱一個くらいより多く持参せず」 という点である。この精神は日本の海軍でもうけつがれて、比較的よく守られたようであるが、陸軍ではそうはいかなくて、副官とか従卒とかいうものをつくり、やたらに私用にこきつかう習慣が発生した。  ところで、この船に日本人は七十六人のっていたが、その荷物は百五十トンで、一人あたり二トンの割りである。どうしてこんなに荷物がふえたのかというと、各地でもらったり、買いこんだりしたものが多かったからでもあるが、このなかには、アメリカ大統領から�大君�(将軍)におくった大砲、小銃、種々の機械類もはいっているのだ。  [#小見出し]石炭も尽き、むなしく漂流  ニューヨークを出て十五日目に、ベルデ諸島の一つビンセント島のポルト・グランデという港にはいった。  ここはポルトガル領で、アフリカ西海岸のフランス領セネガル(一九六〇年に独立)と相対している。わたくしが旅客機でモロッコからブラジルへとんだときには、セネガルの首都ダカールで給油のため着陸したが、大西洋を横断する船は、このポルト・グランデで石炭をつんだのである。  十五世紀にイタリア人がこの島を発見したときには、荒れはてた無人島であった。そのあとへポルトガル人がきて、アフリカから黒人を、本国から囚人をうつし、家畜などを入れて開発したのであるが、水が乏しく、一九二〇年には渇死者が三万人出たというところである。この港には井戸が二つしかなく、それも濁ったたまり水で、オケにいっぱいくむのに骨がおれるというふうなのだから、「ナイアガラ号」も水を補給することを断念しなければならなかった。こんなところへ寄港したのは、「船将の案内しらざるゆえなり」と、村垣は日記に書いている。  この港を出ると、海はそう荒れないけれど、波のうねりで筆をとることもできない。話のタネもつきたので、 「囲碁なんどよしといえども石もなし。人々考えて、パンの元なる麦粉を乞いて石となし、墨もてぬりければ碁石になり、さればとりどりあらそいて消光することとなりぬ」  日本の敗戦後、各地の捕虜収容所で、やはり碁石、将棋のこま、麻雀のパイなどをつくって暇をつぶしたというが、こういう場合にのぞんで日本人の考えることは、昔も今もかわりはない。  一方、食べものが不足してきた。 「わが国より貯えし味噌も醤油も、とくつきて、いささかずつ用いし酒さえもなし。日ごとにかつおぶしをけずり、忠順《ただまさ》(小栗)の用意せし切干しの大根に、いささかひめおきし醤油を点じて用ゆるまでなり。水も乏しくなれば、従者などは、茶さえ十分には用いかねたることなり。さればうちよりては食物の話になり、古郷にかえりての楽しみは、味噌汁と香物にて心地よく食せんことをいえり。かかる辛苦もあるに、都下に美食して物好きいうはつつしむべきことになんありける。湯あみも三十日せねば、それらは、うしとは思わずなりぬ」  水をのぞいては、戦時中の欠乏生活を思わせる。欠乏は人間に反省のチャンスを与えるものだ。  七月三十日(日記では六月十四日)に赤道を通過した。赤道直下では炎熱耐えがたいときいていたが、温度は八十度以上には昇らず、ひとえものをきて汗が出ることもない。  いよいよ水が足りなくなって、一人一日一ガロン(二升一合)だったのが、半ガロンにへらされた。水夫たちは一日にコップ一ぱいしか与えられず、使節たちが手を洗った水をもらってのんだ。 「風もなく、石炭もつきたるによりて、ただ洋上にむなしく漂泛するのみなり。これは船将らの見こみちがいにして、粗忽《そこつ》のことどもなり」 「元来大船には、海水をくみあげ、これを煮て真水となす機械の属しおるものなり。すでに先頃のりたりしロアノーク船にはこの機械ありたれども、おりあしくこの船には持参せざりしよしなり」 といった調子で、佐野鼎も船将を非難している。  この辺から海の色がかわってきた。コンゴ川が濁水を押し出してくるからだ。この川はアフリカの心臓を貫流する大川で、ベルギー王レオポルド二世の命名にかかる。リビングストンやスタンレーも、この川に沿って探検をおこなったのであるが、先年わたくしはこの川の岸辺に立って、その雄大な流れに見とれたものである。動乱をつづけているカタンガ地方は、この川の上流にあたる。  やがて、「ナイアガラ号」は、ロアンダの港にはいった。ロアンダはポルトガル領アンゴラの首都で、かつてはブラジルむけ黒人奴隷の輪出港として知られたところだ。ただし、アンゴラウサギの原産地はここではなくて、トルコのアンゴラである。 「ナイアガラ号」がイカリをおろすと、先住民たちが小さな丸木舟に魚や果物をのせて売りにきた。日本を出てはじめてタイを食べて、特別にうまいと思った。船の上からタイをつりあげたものもあった。  また先住民のもってきたサルは、尾が長く、顔がまっくろで、珍しかったから、新見と小栗が一匹ずつ買った。村垣は青インコのヒナを一羽手に入れた。  この港には、アメリカの別な船がはいっていたが、これは黒人を六百人ばかり仕入れたという。�奴隷解放�の南北戦争を前にして、黒人の買い付けをさかんにおこなっていたのだ。  [#小見出し]黒人は獣に近き人物なり  アメリカ船が、南北戦争を前にして、さかんに奴隷を仕入れていることを前にのべたが、ポルトガル人がはじめて日本にやってきたころには、九州辺の日本人を奴隷として買ってかえっている。のちに豊臣秀吉《とよとみひでよし》がこれを知ってかれらをなじったところ、売るものがあるから買ったまでだとうそぶいたという記録がのこっている。当時は世界的にこういう風習がおこなわれていて、これを怪しむことのほうが、むしろ異例と見られたのであろう。  カトリックも、奴隷が異教徒であるばあいに限り、この制度を認めていた。これにまっさきに反対したのは、クエーカー派の創始者ジョージ・フォックスで、『ロビンソン・クルーソー』の作者ダニエル・デフォー、十八世紀英文壇の大御所サミュエル・ジョンソン、『国富論』で知られたアダム・スミスなども、フォックスを支持したけれど、政府を動かすにいたらなかった。  アメリカの独立戦争やフランス革命にしたところで、白人相互が争い、白人だけの�自由��平等��博愛�を獲得したというにすぎない。ナポレオンも、そのあとに成立したルイ十八世の政府も、奴隷貿易を認めていた。  国家として、まっさきに奴隷廃止問題をとりあげて、これと真剣に取り組んだのはイギリスである。これは産業革命とともに発生した人権尊重の観念につながるものであるが、アフリカから黒人をうばい去ってその土地を荒廃させるよりは、かれらをその土地にしばりつけておいたほうが、原料の確保や消費市場の開発のため、より有利であるという考えから出ているのである。  ロシアにも、�農奴�と呼ばれている一種の奴隷制度が古くからあったけれど、アレクサンドル二世が詔勅によってこれを解放した。一八六一年二月十九日のことで、日本の使節団がアメリカから帰国して半年後だ。前にのべたクリミヤ戦争でロシアが敗れたのは、主として封建的な農奴制の弱点に基づいていることに気がついたからだといわれているが、�人道主義�の元祖のように見られているトルストイは、当時この解放に反対して、これは農民を土地から切りはなし、生活の根拠を失わしめる暴挙だといっている。この点でトルストイと英帝国主義者の見解に、一脈相通じるところがあったわけだ。  いずれにしても、この結果、農民は�自由�をえるとともにプロレタリアに転落し、これを背景にして�ナロードニキ�(人民派)と呼ばれる革命運動が活溌となり、アレクサンドル二世はこの一派が投げた爆弾によって殺された。ロシア革命はそれから三十六年後におこった。  アメリカでリンカーンが奴隷解放の宣言を発したのは一八六三年で、六五年に修正公布された合衆国憲法第十三条においてこれを明文化した。これよりずっとおくれてブラジルでも奴隷を廃止した。  狩りあつめた奴隷を船で送り出す前に収容した倉庫が、今もガーナにのこっているのをわたくしは見た。これは堅固なトリデの地下室につくられていて、その上が白人のための礼拝堂になっているのも皮肉である。ブラジルのレシフェという町には、船でついた奴隷に買い手がつくまで入れておく倉庫があった。  ところで、使節団の日本人たちは、アフリカの黒人を現地で見て、どのような印象をうけたか。 「土人は真の黒色にして男女もわからず、女は坊主にみえけるが、髪をそりたるにはあらじ。毛はちぢれて、少しものびず、仏頭のごとし。男女とも腰に風呂敷ようのものをまとい、頭より黒き木綿の大風呂敷ようのものをまといたるさま、描ける達磨《だるま》のごとし」 「小鳥、果物など売りにくるは、みな黒人なるが、獣に近き人物なり」   あふりかの波の入江にきてみれば        ましらに似たる蛋《あま》(蛮人のこと)のさえずり  黒人をケモノあつかいするばかりでなく、かれらの話すのをきいて、�さえずり�といっている。さらに、 「いま黒人のようすを見るに、インド、アフリカみな一種の土人にして、彼の釈氏(おシャカさま)や阿弥陀《あみだ》を壇上に祭りて拝するは愚かなることなり。毛ものびぬ頭を真似してみどりの黒髪をそり、風呂敷をまといたるを見て金襴の袈裟衣《けさころも》を着し、椰子を椀とせしを見て僧のてつ鉢を用いること、真に笑うにたえることどもなり」  このように仏教の信仰をあざわらっているのは村垣副使であるが、こんなのを読むと、当時、日本の上層階級のものはほとんど無神論者だとハリスが書いているのも、ウソではないという気がする。  現在、日本の女性の大部分が、なかには男までも、髪をちぢらせたり、赤く染めたりしているのを見たら、ハリスはなんというだろうか。  一方、アメリカやアフリカの黒人たちのあいだでは、近ごろ、頭の毛をまっすぐにのばすことが流行し、ちぢれをなおすクリームも売り出されている。  [#小見出し]日本をめぐる英米のサヤあて  ここで日本人が人食い人種として恐れられるという事件がおこった。 「土人四、五人食料を運びてわが船中にきたる。このときわが船のアメリカ人、かれらをたぶらかして、今この船にあるは日本人なり。腰にはなはだ鋭き両刀をおぶ。鉄壁をわるも梨実を裂くに似たり。かつ、かの輩に人肉を食うことを好むものあり。汝ら近づきて食わるることなかれ、といいしによりて、黒人深くこれを信じたりとみえ、わが輩を見ては逃避するの状あり。後に一、二のアメリカ人わが輩にいっていわく、わが党黒人をたぶらかしおきたり、試みにかれらを襲えよと。よりてかの黒人を逐《お》い見れば、面色を変じ、狼狽して帆柱にかけたる縄はしごにかけのぼる。その状さながら猿猴《えんこう》のごとし。少しのぼりては下のようすをうかがう体、真に愚鈍らしく、おのおの大笑絶倒せり」  黒人から人食い人種のあつかいをうけて、�大笑絶倒�しているのもどうかと思う。  この日、ここのポルトガル総督の異動があって、「古奉行馬車にのりて波止場へ出迎え、やがて新奉行上陸、馬車にて官舎に行くを見たり」この�奉行�の任期は五年で、俸給は一か年七千ドルという。  ポルトガルの士官が妻や娘をつれて「ナイアガラ号」へやってきた。これを見ると、 「頭髪は男女とも黒毛、面色日本人に近し」  たしかにポルトガル人は、頭の毛が黒く、からだもそう大きくなくて、ヨーロッパ人のなかでは、もっとも日本人に近い。  ポルトガルの官庁や官舎は、高台にあって港を見おろせるようになっている。西洋人の築いた植民地の町はどこでもそうで、白人は山手に、原住民は下町に住んでいる。ポルトガル人は原色が好きで、屋根は赤や青の瓦でふき、窓には色ガラスを用い、道の舗装に色瓦をつかっているところもある。ここはポルトガルの全盛時代に莫大な金をつかってつくった基地であるが、今はあちこちくずれて、植民地勢力の交代を物語っている。  ここも水が乏しく、三十里もはなれたところから船で運んできて、これをオケに入れ、黒人が頭にのせてあちこちに運ぶのである。 「土人の足には鉄鎖をつなぎ、前奴、後奴と相連接し、その遁逃をふせぎ、一員の白皙《はくせき》人これを護送し、駆役す」  また石炭のつみこみをしている黒人は、 「黒顔へ、額より鼻筋へかけ、太き入れ墨いたせしものどもあり。これはロアンダ人にはこれなく、ロアンダつづきリベリアのものの由」  リベリアは、アメリカで解放された奴隷が送られてきてつくった黒人共和国である。これができたのは一八四七年で、政体から通貨にいたるまでアメリカそっくり、いわば、アメリカの黒人版、8ミリ版だ。むろん、ここで働いているリベリア人は、日当をもらっている人夫であって奴隷ではない。顔の入れ墨は、種族のマークか、それとも家畜所有者が自分の家畜に焼き印をおすのと同じ目的から出たものか、はっきりしないけれど、スーダンの場合は、顔に大きな傷あとがある。この傷は、こどものときに親がつけたもので、その形によって属している種族がわかるようになっている。なかにはH、O、Pなど、ローマ字型の傷がついているものもある。スーダンの首都ハルツームでわたくしが会った大臣の顔にも、みごとな傷あとがあった。だが、こういう習慣はなくなりつつあるとみえて、青年には傷あとが少なく、少年にはほとんど見られなかった。  ところで、ロアンダでは、日本人に珍しい植物がつくられていた。 「当所産にて椎の実に似たるものあり。煎って食す。ヒーノットという。一名グロンド・ノットという。高さ二フィートばかりの草にして、実は地中に生ず。南北アメリカならびにアフリカに多く産す。合衆国と英仏二国への貿易品とす。またしぼって油を多く出す」  いうまでもなく、これはピーナツ、すなわちナンキンマメのことだ。 「ナイアガラ号」の停泊中、イギリスの艦長などが訪ねてきて、いっしょに食事をすることもあった。そういう場合、日本人がアメリカの話をすると、イギリス人は不愉快そうな顔をするので、話の途中でやめたと村垣は書いている。 「このたびわが国初めての使節を送迎するを米人はほこりて話しけるゆえ、外の国の人々は、西洋の国々へは使節は参らぬやと責めけるまま、いつもほどよくことわりおくことなり」  日本をめぐる英米のサヤあてが、こんなところでも演じられたのである。  [#小見出し]初めて信号旗を知る  ロアンダには八日間停泊、そのあいだに使節たちは上陸して、四十日ぶりで入浴することができた。  いよいよ出港ということになって、「ナイアガラ号」のアメリカ人コックが一人、買い物に上陸したまま、かえってこないことがわかった。こういうばあいは、軍船の規則で、おき去りにすることになっている。  ところが、船が港口を出かかったとき、港内にのこっていた別の米艦から、号砲が一発発射されるとともに、その軍艦のマストには数種の旗がかかげられた。  これを見て、「ナイアガラ号」は進行を停止し、しばらく待っていると、のりおくれたコックが小船にのせられてやってきた。のりおくれた理由がやむをえないと認められたので、待っていてくれたのである。  すべての船には、色とりどりの小旗が用意されていて、他の船への意思伝達は、その組み合わせによっておこなわれるのだ。 「通例の法は、万国相同じといえども、軍機の合図にいたりては、各国みな別にして、かつまた時々暗号の仕方をかうることとす」 と、佐野鼎は日記に書いている。日本海海戦のさい、旗艦「三笠」にかかげられた�Z旗�も、この信号の一種であるが、それより四十五年前に、日本人はこういう意思伝達法のあることを知ったのである。  三日めに南十字星がみえた。近ごろのように空の旅をするようになると、これを見る機会が少ないけれど、太平洋戦争がはじまったとき、わたくしは徴用されて輸送船にのせられ、仏印のカムラン湾を出てジャワにむかう途中、生まれてはじめて南十字星なるものを見たときの感激は忘れることができない。  四つの星をつなぐと十字架のような形になるけれど、そのなかの一つは三等星ではっきりしないから、はじめは見つけるのに骨がおれた。わたくしたちは、敵潜水艦にたいする恐怖のなかで、毎晩、船尾に腰かけて、すみきった熱帯の空に浮かぶこの星をながめ、行く手に待ちうけている南の島々と生命の危機を胸に浮かべながら、夜っぴて語りつづけたものである。そしてさいごはいつも、「ああ堂々の輸送船」にはじまって、「さらば祖国よ栄あれ」におわる歌の合唱となるのであった。  逆に、「ナイアガラ号」で故国にむかいつつあった日本人の一行は、長い異国の旅にうみつかれながらも、自分たちが日本をはなれてからの幕府のありかた、朝廷との関係、日本の運命などを考え、一刻も早く故国にかえりつきたいという気持を各自の胸にひめて、この星をながめたことであろう。  やがて、「ナイアガラ号」は、喜望峰の南方を通過した。喜望峰は、一四八六年ポルトガル人バーソロミュー・ディアズが、インド洋に出る途中、あらしにあってその蔭に避難したところで、はじめは�あらしの岬�といったのを、ポルトガル王によって�喜望峰�と改められたのである。今は金とダイヤモンドとアパルトヘイト(有色人種差別)の町ケープタウンからケープポイント(岬の突端)まで、ドライブ・ウェーができて、すばらしい観光地となっている。  世界で四番目の大きな島マダガスカル島をすぎると、まもなくモーリシャス島である。「ナイアガラ号」はこの島に寄港して水や食糧を補給することになっていたが、このまままっすぐにジャワへ直行すれば、日本につくのが一か月ばかり早くなると艦長がいったので、これにしたがうことにした。  モーリシャス島は、わたくしが南アフリカのヨハネスブルグからオーストラリアのシドニーにとぶ途中、給油のため着陸して、二十四時間滞在したところである。  これは香川県くらいの大きさの火山島だが、インド人、シナ人、フランス人、イギリス人などが仲よく雑居し、冠婚葬祭もいっしょにやっているという。まるで�世界連邦�の見本みたいな生活をいとなんでいるわけだ。一六〇五年にポルトガル人が発見し、のちにオランダ人が占領したが放棄し、フランス人がきて開発したのをイギリス人にとられ、英国の直轄植民地になったというのが、この島の歴史である。  この絶海の孤島のホテルについて驚いたことには、支配人らしい男から、いきなり日本語で話しかけられた。インド洋方面へマグロ漁に出ている日本の船がしじゅうやってくるからだということが、あとでわかった。  この島でいちばん大きな町をポート・ルイスといい、人口約六万、商店はほとんどシナ人の経営で、農夫や労働者はたいていインド人である。共通のことばとして、ナマリの強いフランス語が用いられている。原住民らしいものは目につかない。  大王ヤシや榕樹の並木は、実にみごとなものだが、わたくしの行ったときは大きな台風のあとで、老樹、巨木の多くが倒れたり、折られたり、根こそぎにされたりしていた。民家の周囲にめぐらされている生けガキは、黄色い幹の美しい細ダケで、奄美大島で見たのと同じである。薩摩では、この竹を�黄金竹�といって、これを焼き、火縄銃の火縄をつくる原料にしたという。  日本の使節一行がこの島に上陸したならば、きっと日本にかえったような気がしたにちがいない。  その後の航海状況は、村垣の日記によると、ざっとつぎのようであった。  海上には、巨大な白鳥が無数にとんでいる。  船医がみよしのほうでエサをたれて、この鳥を一羽つった。翼の長さが七尺くらいもあった。大きいのになると、一丈二、三尺もあるという。  風が強くて波が高く、船の動揺がはげしくて、ちっともすすまなくなった。これは台風の一種で、普通の台風だと、指紋の渦のような形で吹くから、通りぬけることができるけれど、この台風は雷の太鼓のようなかっこうで吹きまわるので、そのなかにはまりこむと、どの方向へも走ることができず、進退きわまるのである。このときの船の位置は、南は南氷洋、西から北はアフリカからインドへ二千里、東はオーストラリアまで二千里もへだたっているが、こんなところで船に故障でもおきたのでは、もうおしまいだと思うと、心細い限りである、といって、村垣はこういった台風の形を図にかいて説明している。  船はようやく台風圏内からぬけ出した。セント・ポール島、アムステルダム島、クリスマス島などの近くを通りすぎて、ジャワのバタビア湾にはいったのは八月十七日(洋暦九月三十日)の夜である。  折りからの月に、湾内は波がおだやかで池のようだ。あたりに小島が多く、仙台の松島によく似ている。  そこで村垣は一首詠んだ。   松島の小島の磯といわまほし      月さしのぼるジャワの入江は  [#小見出し]日本の商品が進出  昭和十七年三月一日の未明、わたくしたちをのせた輸送船「佐倉丸」がイカリをおろし、敵前上陸をはじめたときも、中空に満月がかかっていた。  バタビアは、古くから日本ではジャガタラの名で知られている親しみ深い土地で、長崎にむかう船も、多くはこの港から出たのである。バタビアというのは、かつてオランダの一部に住んでいたゲルマン人の呼び名で、十八世紀の末、オランダに「バタビア共和国」というのができたこともある。インドネシアの独立後、これを廃してジャカルタの旧名に復したことは、あらためていうまでもない。 「ナイアガラ号」が入港すると、港内に停泊していたオランダの艦船や砲台は、いっせいに日の丸をかかげ、祝砲を放って歓迎の意を表した。  翌日、使節一行は、オランダの騎兵、歩兵に前後を守られ、馬車にのって総督官邸にむかった。官邸は大理石づくりで、大広間の正面に総督、左右に高官がずらりとならび、威儀を正して使節を迎えた。総督はこの地域を支配する行政官であるとともに、陸海軍の総司令官で、王につぐ地位と権力をもっているといわれるだけあって、人物もけだかくみえた。酒を出してもてなしてくれたので、お礼に�御国産のチリメン�一反をおくった。自国の産物に�御�の字をつけているところがおもしろい。  このあと一行は、ホテル・デス・インデスに案内された。このホテルの経営者はフランス人だが、�ジャワ帝国ホテル�ともいうべきもので、「華麗なること言語につくすべからず」と、小栗忠順の従者|福島義言《ふくしまよしこと》が書いている。戦争中は日本軍に接収され、戦後はインドネシア人によって経営されているが、先年わたくしがジャカルタを訪問してここに泊まったときは、ひどく荒れて、かつての面影は見られなかった。個人の住宅でも、住む人によって美しくもきたなくもなるのだ。  使節たちは、何はさておいてもまず入浴を希望した。 「石もてつくりたる風呂に、にごりたる日向水にひとしき湯のいささかありけるが、見るうちにみなもりてなし。また湯をはこびしが、石の風呂の損じたるものなればせんかたなし。小さき桶にくみてゆあみのまねしておきぬ。その心地のあしきことはことばにつくしがたし。従者などは水をあびたり」 と、村垣は書いているが、ここで湯にはいろうというのがまちがいである。はじめて熱帯地方にきた日本人のだれもがする失敗を使節たちもやってのけたのだ。従者たちのように水を浴びたほうが、ずっと気持がよく、衛生的でもある。  このホテルには売店があるときいて行ってみると、 「多くわが国の漆器、陶器などのものにして、価このほうに十倍す。長崎などより買いきたるならん。同所より当港へは、海上彼の四千里なりという。およそ一か月にして達すべし」  これで見ても、当時すでに日本の商品が、南方諸地域に進出し、十倍もの値段で売られていたことがわかる。総督代理が「ナイアガラ号」にあいさつにきたときにも、蛇の目の日ガサをさし、日本のウチワをもっていたという。  それよりも、日本人たちを喜ばせたのは、ホテルの売店で日本のショウユを売っていたことである。 「一瓶の価一ギュルデン(ギルダー)なり。このほうの金(日本金)一分余にあたり、醤油二合余を入る。わが輩船中にありて醤油を用いざることすでに百余日におよびしがゆえに、価格を論ずべからず。すなわち船中の日本人これを買うこと二百瓶におよぶ。後、帰船してこれを用い、身体肥ゆるごとし」  料理にショウユをつかっただけで、からだが太ってきたような気がするというのだから、いかに�日本の味�に飢えていたかがわかる。ただし、ミソはなかったらしい。  [#小見出し]�本土人よりも慕わしくとて……�  明治、大正時代の作家、旅行家として知られた遅塚麗水《ちづかれいすい》の『南洋に遊びて』という書物に、こんなことが書いてある。  こんどできた�マレーシア連邦�に加わったボルネオのサラワクは、一八八八年イギリスの保護領になる前、ジェームス・ブルックというイギリス人が、白人唯一の�ラージャ�(王)として君臨していたところであるが、この地方には、かつて�日羅夏治�という小さな王国があった。これは�ジロキチ�と発音するのであって、�治郎吉�という日本人が、ここに流れついて、土地をひらき、町をつくり、ついに国をなして、そこの王におさまったのではあるまいかというのである。  現に、福岡藩の蘭学者|青木興勝《あおきおきかつ》の『南海記聞』によると、筑前の船主文八が、明和元年六月、「伊勢丸」という新造船に、孫太郎など二十余人の水夫をのせて函館に行ってかえる途中、塩屋崎の沖であらしにあい、七十余日も漂流したのち、ボルネオ近海の小さな島にはいあがり、先住民につかまって奴隷に売られた。孫太郎を買いとったのが、バンジェルマシンのシナ商人で、これに可愛がられた孫太郎は、オランダ船に托され、七年後の明和八年六月、長崎にかえりつくことができた。こういう例は、ほかにもまだたくさんあったにちがいない。  このほか、ボルネオ北部のトミニ湾と�富二�、この湾内にあるゴロンタロー港と�五郎太郎�、ポリネシア群島の一つタヒチ島と�多七�、セレベスのメナドと�港�といったような例をいくつもあげて、これらの地名はいずれも日本人と関係ありと�信じる�と麗水は書いている。 �信じる�のは勝手だが、ことばの類似だけで、特別の関係があると見るのは独断に近い。といって、どれもこれもみんな無関係だと断定する勇気も、わたくしにはない。とくにメナドの住民は、ジャワではミナハサ人と呼ばれているが、戦時中かれらの多くの人と会ってうけた印象からいうと、顔だち、性格ともに、日本人とよく似ている。少なくとも一般インドネシア人とはちがっている点が多い。  麗水はまた、ジャワと日本のつながりについて、こんなことも書いている。徳川時代の初期に、東海道筋に並木をうえ、一里塚をおいて、沿道の住民にこれを保護させたのは、正しくオランダ人から教えられたものである。とくに一里塚にエノキをうえたというのは、徳川譜代の臣で大老職につき、家康の落胤ともいわれた土井利勝が、晩年耳が遠くて、将軍から、「余の木(他の種類の木の意)をうえよ」といわれたのをききそこない、エノキをうえたのだと伝えられている。  これも麗水にいわせると、エノキは榕樹のことである。葉、幹、枝ぶりなどよく似ているし、南方諸地域には榕樹の並木が多いというわけだ。  この説は、前半は正しいけれど、後半はコジツケではないかと思う。街道筋に並木をうえるというのは、古い日本にはなかったことで、おそらくオランダ人あたりから教えられたのであろうが、当時の日本人の頭に、榕樹の概念があったとは思えない。それともオランダ人が、榕樹に似た木としてエノキをすすめたということも、考えられないことはないけれど、この点についてはわたくしに自信がないので、専門家の教えをうけるほかはない。  西洋人のひらいた植民地には、どこでもりっぱな並木道ができている。とくにジャワは、歴史が古いだけに、樹齢の高い見事な並木が多い。いわば並木は植民地の年輪のようなものだ。  ところで、この並木を使節団の日本人はどう見たか。 「道路に大木のみ多く繁茂し、寂々としてさらに港口のごとくならず」 と、福島義言は書いている。これは当時の日本人に、並木の美しさ、というよりもそういった概念そのものが欠けていたことを示すものである。  ジャカルタは、はじめ港に近いところに町ができていたのであるが、この辺は湿地帯で、しばしば悪疫が流行し、�白人の墓場�といわれるにいたったので、八キロばかりはなれたところに新市街をつくり、諸官庁や白人住宅をそのほうへうつし、ウェルテ・フレーデンと名づけた。オランダ語で�満悦�という意味だ。かくてオランダ人は、巧妙な原住民の搾取の上に、みち足りた生活をつづけているうちに、太平洋戦争がおこって、ほとんど無抵抗で日本軍に占領され、さらにインドネシアの独立によって、すべてを失ってしまったのである。  使節の日記によると、当時この町の人口は六万八百人で、そのうちヨーロッパ人は二千九百人、シナ人は一万七千二百人、原住民三万八千七百人、アラビア人五百人、黒人奴隷千五百人となっている。すでにシナ町ができていて、これが三、四町もつづいていた。  シナ人の代表が使節を訪ねてきて筆談をしたが、従者の一人がそのときのことをこんなふうに書いている。 「このたび使者万里の外に使いして、その無事なることを祝し、また日本人はその衣服、前朝明の風俗あるゆえに、本土人よりも慕わしくとて、涙を流せしという」  日本人は前の明朝時代と同じような服装をしているので、インドネシア人よりも慕わしいといって、涙を流したというのだ。  [#小見出し]日本の新聞発祥地  日本で「新聞」と名のつくものが出たのは、『官版バタビア新聞』が最初で、文久二年一月のことである。 「新聞」ということばは、シナでは古くからつかわれていて、すでに唐の時代(六一八年から九〇七年)、地方のできごとをあつめた読み物に『南楚新聞』という題がついていた。日本では文化四年(一八〇七年)に出た『西洋万代暦』のなかで、はじめてこのことばが用いられている。  今では「新聞」と「新聞紙」が混同されているが、幕末の日本では、「新聞」とはニュースのことで、これを掲載するニュース・ペーパーすなわち「新聞紙」とは、はっきり区別されていた。それまでは、遣米使節団の日記にも出ているように、ニュースのことを「風説」「評判」「うわさ」などといい、これをのせたものを「風説書」「評判記」「うわさがき」などと称していた。  ところで、鎖国後の幕府が、どういう方法で海外ニュースを入手していたかというと、長崎出島のオランダ商館主に命じ、船がはいるごとに、海外でおこった重要な出来事をひとまとめにして報告させていたのである。これを『和蘭風説書』といった。はじめは主としてキリスト教取りしまりの必要から出たもので、キリスト教とあまり関係のないオランダが、ポルトガルやスペインの動きを幕府に密告した、つまり、スパイ的役割りを果たしていたのである。現在の日本政府が、第三国を通じて、ソ連や中国の情報をとるのと同じような性質のものだ。  この「風説書」に目を通すことができるのは、幕府首脳部だけで、大老、老中、若年寄程度に限定されていた。今なら�極秘�の判をおして、閣僚もしくはせいぜい次官級にまわすところである。しかし、これによってペリーの来航も、前の年に幕府のほうでは知っていた。  ところで、この「風説書」の作成にあたったのは、バタビアのオランダ東印度総督府で、各部局に命じ、広東、香港、シンガポールなどで出ている新聞をあつめ、ヨーロッパ、インド、シナなどにかんする記事のなかから、日本むきのものをえらんでまとめ、船長にたくし、長崎の商館長にとどけさせたのである。ときには�別段風説書�すなわち号外のようなものも出していた。  その後、黒船がくるにおよんで、諸藩においても、海外知識の必要と要望が高まり、幕府の独占を許さなくなった。そこで、「蕃書調所」(のちに「洋書調所」)において「風説書」印刷の計画を立てていたところ、オランダ側では、「風説書」のかわりに、その資料になっていた新聞紙そのものを献上してきた。日本の開国後は、オランダとしても、他の国々の思惑を考えねばならず、スパイ的行動をつづけられなくなったのである。  この新聞は、『ヤバッシェ・クーラント』(ジャワ新聞)といって、バタビア政庁で出している週刊紙であるが、これを基にしてできたのが『官版バタビア新聞』で、翻訳、編集は、「洋書調所」の学者たちの手でなされた。のちに『官版海外新聞』と改題、発売のほうは出入りの洋書店|萬屋《よろずや》兵四郎《へいしろう》にまかせていた。  こういうふうに見てくると、バタビア(ジャカルタ)は、日本の新聞発祥地ということになる。  使節団の日本人も、バタビアにつくと、さっそくこの『ヤバッシェ・クーラント』を手に入れて読んでいる。 「バタビア府中にて版行せる蘭文の新聞紙あり。友人その千八百六十年第九月二十七日のものをとりて、これを抄訳す。すなわち清国天津辺にて、英吉利《イギリス》、法蘭西《フランス》の両軍進みて戦える事件なり。その文左のごとし」 と前おきして、�香港の風説�をくわしく書きとめている。これは一八五六年にはじまった�アロー戦争�、すなわち、英国旗をかかげた中国船「アロー号」が、広東の官憲によって臨検をうけたことを口実に、英仏がしかけた�第二アヘン戦争�のことで、ちょうどこのころ、英仏連合軍は上海から天津へかけて破竹の進撃をつづけていたが、その戦闘状況がくわしく報道されていた。  日本にかんする記事もいろいろ出ているが、とくに興味のあるのは、一八六〇年第六月二十六日�神奈川より風説�と題するものだ。 「英のコンシュル(領事)長崎より江戸にいたり、英のミンストル(公使)に用事あり、会わんといいて川崎六郷にいたり、川をわたらんとす。時に日本の渡守役人より、今日は大水ゆえ旅人はみな川どめなりといいてことわれば、コンシュル大いに怒りを発して、たちまち腰銃をとり、官人および楫夫(船頭)をうち殺さんとおどせり。その後コンシュル怒ってもせんなしと思いけん、川崎駅にかえりて、官舎を尋ねて、それより所々徘徊せしところに、役人見つけ退帰をすすむ。時にはまた酔客ありて、これを悪口せしによりて、また怒りを発し、はなはだ粗暴の体にて大いに日本役人をののしる。川崎の本陣にいたり、宿について女を買えり。しかるに、この女異人をきらい、その房内に入らざりき。また怒りをなし、杖《つえ》をもって打擲《ちようちやく》なす」  この領事は、こういうことを方々でやってのけたというから、アメリカ領事のハリスとはたいへんなちがいである。  [#小見出し]新聞の威力を知らされる  このイギリス領事のふるまいには、オールコック公使も見かねて意見をしたが、改めそうもないので、近くその職をとかれ、イギリスへ送りかえされるであろうという、もっぱらの評判だと、バタビアのオランダ新聞は書いている。  そのほか、この新聞は、「咸臨《かんりん》丸」が日本人だけで運転して、六月二十四日アメリカから無事帰国したこと、箱根からの�風説�として、ホルトスというイギリス人が盗賊におそわれ、首と腕に傷をうけたが、大勢の人間がかけつけて、賊の刃物をうばい、これを助けた、といったたぐいの、今なら社会面に出そうな記事も出している。また井伊大老が殺されたくわしい事情も、これによって知ることができた。  かように新聞というものがあるため、 「新説、奇談の世界につたわること矢のごとし」 と、佐野鼎は感心している。福島義言も、 「たとえば亜国(アメリカ)にあることは、たちまち英国に通じ、亜英にありしことはまた仏国に通ず。ゆえにそのこと大小となく、みな各国に知れざるはなしといえり」 と書いている。  とにかくこの一行は、行く先々で新聞記者にとりかこまれ、写真をとられ、取材の対象にされるとともに、文明社会における新聞のありかた、その役割りや威力をじゅうぶんに認識して帰国したことは明らかである。なかでも、小栗忠順のごときは、帰国するとさっそく、幕府が機関紙を発行することを建議している。幕議で否決されても、くりかえし強硬に主張したのだが、ついにその目的を達することができなかった。  幕府が倒れたのち、小栗は、 「往年わが説を採用して新聞局をもうけ、公武の秘密、官民の内情をことごとく露白して、公衆に示しえたらんには、上下内外の真情を疎通して、日本の進運を発展し、幕府の命脈もよってもって保護せられしならんに、ことのここにおよばざりしこそ、遺憾のきわみなれ」 と述懐している。三百年近くも秘密主義のカーテンのなかで国民を治めてきた幕府首脳部に、突然頭の切りかえをして、世論に重点をおく政治をおこなえといっても無理である。かりに頭の切りかえができたとしても、こういった�上からのマス・コミ�が、�尊皇攘夷�の旋風のなかで、うけいれられるとは考えられない。  新聞のことはさておいて、使節たちが総督と面会しているあいだ、従者の日本人たちが、総督官邸の庭前を歩いていると、 「土人の日本語を解するものに会う。余輩の言語を十に七、八は解するようなり」 というので驚いている。まさか�じゃがたらお春�の子孫が、日本語を忘れずにいたわけでもあるまいから、おそらくオランダ人のジョンゴス(召使い)として長崎にきて、日本語をいくらかおぼえてかえったのが、日本人がきたときいて、その辺をうろついていたのであろう。  インドネシア人は、外国語をおぼえるのが早い。三年にわたる日本の占領中に、日本語を話せるようになったものがたくさんいたけれど、十五年ぶりに行ってみると、ほとんど忘れている。今ものこっているのは、日本人が教えた歌であり、メロディーである。とくに広く普及したのは、「荒城の月」「支那の夜」「愛国行進曲」「真白き富士の嶺《ね》」などで、今も一部で愛唱されている。軍政下にあるジャカルタで、外国人の旅行証明書を出す役所へ出頭したところ、そこの主任である陸軍少佐が、わたくしを日本人と見て、だしぬけに、「真白き富士の嶺」をうたって踊り出したのには、こっちが面くらった。多分日本軍で訓練した�兵補�の出身であろう。歌詞は忘れられても、日本人がもちこんだメロディーのいくつかは、なんらかの形で、インドネシアのなかに、相当長くのこるのではあるまいか。  ここでも使節一行は、オランダの造船所を見学している。ちょうどロシアの船が修理のためドックにはいっていた。 「こはわが北地につづきしアンムル(アムール)辺へまわすという。暮がた帰らんとするうち、夕立はげしければ、コンマントル(所長)の家に休息せしが、ねんごろにもてなし、魯西亜《ロシア》の士官一名居留して物語りなどして、雨はれければ、ナイアガラ船にかえる」  ところが、小蒸汽船から本船にうつるさい、 「村垣殿は誤って水中におつること腰におよぶ。米人の水夫ら、ただちにたすけあげたり。はなはだ危かりし」 と、ほかのものは書いているが、村垣の日記はこの事件について少しもふれていない。  [#小見出し]悪疫と不満の島香港 「ナイアガラ号」はバタビアから十二日かかって香港についた。  ちょうど「第二アヘン戦争」の最中で、兵糧、武器、兵士などをつんだ英仏の船がさかんに出入りしていた。前線から送ってきた傷病兵をのせた病院船も停泊《ていはく》していた。  わたくしが香港で一か月ばかり滞在したのは、それから七十七年後の昭和十二年十一月で、日中戦争が上海に飛び火し、南京攻略戦の展開されているときだったが、当時の香港は、欧米諸国の援蒋基地として、「ナイアガラ号」の入港したころとよく似た様相を呈していた。街頭には抗日のポスターがペタペタとはられ、道行く人々に英国娘が中国軍救援金をつのっていた。  イギリスの中国侵略の基地となったのは、まず広東、つぎに香港、三番目に上海であるが、香港だけは今も英国人の手にのこって、ますます繁盛している。英帝国主義の不死鳥だ。  一八三四年、広東に駐留していたイギリスの初代シナ貿易監督官ネピヤー卿は外相への手紙のなかで、つぎのごとくのべている。 「わずかな武力で香港島を占領することは容易である。しかもこの島は、珠江の東の門戸をなしていて、すべての目的にかなっている」  だが、衛生条件は最悪で、温度、湿度ともに高く、マラリアのことを�香港熱�、水虫のことを�香港フート(足)�と呼んだ。香港の基地建設がはじまったころ、ロンドンでは、「わたしのためなら香港までも」という歌が流行したという。  もともと香港は、倭寇《わこう》のひらいたところだともいわれていて、その後もずっと海賊の根拠地になっていた。一八四二年、第一次アヘン戦争でイギリスがこれを手に入れたときの人口は七千余だった。それが「ナイアガラ号」の寄港した一八六〇年には約十万にふくれあがり、それから六年後には二百万近くになったというから、その発展のスピードがわかる。一八六〇年代の前半が香港建設の絶頂で、ここの代表的な銀行、商社、造船所、倉庫などは、ほとんどこの時期に完成するか、あるいはその基礎を築いたのである。まさに香港こそ、英帝国主義のモデル地区といえよう。たとえば香港最大の商社として有名なジャーディン・マディソン商会の創立者ウィリアム・ジャーディンは、東印度会社の船医だったのが、アヘンで巨利を博して、香港へのりこんだのである。のちに上海へ本拠をうつしたユダヤ財閥のサッスーンも、もとは同じ穴のムジナだった。  外国資本が中国経済を支配する過程に生まれた特殊なことばも、ほとんどこの時代の産物である。その代表的なものが�買弁�(Compradore)で、これはポルトガル語のコンプラ(Compra�買う�という意味)から出たものだ。  イギリス人の商人にはシナ語はもちろん、シナ人の商習慣や趣味がよくわからなかったから、シナ人と特殊契約を結んで、取り引きの面倒な部分をこれにまかせた。この方法は、少ない使用人と資金で取り引きの規模を大きくし、回転を速め、最大の利益をあげるのに好都合である。それとともに、シナ側にも買弁資本が蓄積されるけれど、外国資本のヒモがついているので、民族資本として独立することはむずかしい。明治にはいって日本の経済が比較的早く自立できたというのも、日本では�買弁�の根をはる余地がなかったからだ。 �買弁�にたいして、その相手役の外人事業主のことを�大班《タイパン》�(Taipan)といった。自国人民の犠牲において太った点で、�買弁�も�大班�も大してかわりがない。中国の独立や近代化が日本に比べてずっとおくれた原因の一つは、こういうところにある。  横浜や神戸で車夫などがつかった怪しげな英語のことを�ピジン・イングリッュ�というが、実はこれは�買弁�が�大班�を相手につかったことばから出ている。ピジン(Pidgin)とは、ビジネス(Business)の広東なまりだという。つまり、シナの取り引き用語が日本にきて車夫用語になったというわけだ。  いずれにしても、そのころの香港は、ロンドン・タイムズによれば、 「いつでも何かしら悪疫か、いかがわしい戦争か、恥ずべきもめごとに引っかかっている。したがって、この騒々しい、ケンカと不満だらけの小さな島の名は、上品な場合では口に出せぬものの例につかってもいいようなものである。総督は健康と静養のためだと称してどこかへしけこんでいるし、副総督はその召使に人民の膏血をしぼらせたといって訴えられている。新聞発行人はこのところみな、官吏を弾劾《だんがい》したというので、相手から告訴されて、監獄にはいったり、はいりかかったり、出かかったりしている」  こういうところへ、「ナイアガラ号」が日本使節団一行をのせて寄港したのである。  [#小見出し]アヘンとクーリー貿易  香港繁栄の基礎を築いたのは、アヘンの輸入と苦力《クーリー》の輸出である。  一八四〇年代に、アメリカでは西部の開発がはじまり、オーストラリアや南米方面でも、開発が進むにつれて、労働力に不足を生じた。アフリカの黒人にかわる�黄色い奴隷�として、シナ苦力の需要が急激に増大した。  さらに一八四八年にはじまったカリフォルニアのゴールド・ラッシュ、つづいて五〇年代にはいると、オーストラリアとニュージーランドで金鉱が発見され、この方面へも、シナ移民が大水のように流れ出た。清朝政府の腐敗と「長髪賊」の乱にともなうシナ民衆の生活窮乏が、この風潮に拍車をかけた。  この安くて豊富なシナの労働力は、ほとんど香港から輸出された。しかもその大部分は、誘拐《ゆうかい》同様の方法で香港につれてこられ、英国旗をかかげた船で、正当な手続きをふまずに送り出されたのである。  一八五一年度に、ここからアメリカの太平洋岸にむけて、シナ人をのせて出た船が四十四隻、その運賃が百五十万ドルに達したという。 �からゆきさん�の名で知られている日本女性の海外輸出も、主として香港を通じておこなわれた。むろん、これは明治以後のことで、その�販路�は、旧インドシナ、タイ、ビルマ、マレー半島、ジャワ、スマトラ、フィリピンその他南洋の島々から、遠くインド、アフリカにまでひろげられていた。先年、わたくしはタンガニーカのザンジバルで、�からゆきさん�の生きのこりがいるときいた。  彼女たちは、たいてい小さな漁船の底に入れられて、香港に送られてくる。むろん、旅券とか査証とかいうものとは無関係である。香港では、ひとまず大きな倉庫のような建物に収容され、そこでブローカーたちによって競売に付されるのであるが、この過程は黒人奴隷の場合とよく似ている。この目的のためにつかわれた建物は、ワンチャイと呼ばれる香港の下町に、戦前までのこっていた。  かように香港は、密輸、人身売買、殺人、トバク、売春、アヘン、その他ありとあらゆる悪徳の巣として栄えたところで、この基本的な性格はいまもたいしてかわっていない。  さて、この香港が、日本使節一行の目にどのように映ったか。 「この港内には土人多く、妻子とともに小舟中に住居するものあり。水草をおうて居所を転ず。わが国にも中国、四国の内海に多き家舟《えぶね》と号するもこの類なり」 といって、シナ人を�土人�あつかいしている。上陸して「英華書院」という学校を訪ねると、先生も生徒もシナのことばを無視して、英語ばかりつかっている。  船へも、物売りや、せんたくの注文とりにシナ人がくるが、女でもみな英語がわかる。そして外国人が金を支払うと、あとからニセ金をもってきて、前にもらったのはニセ金だったから、別な金をくれというものが多い。それに値段も、相手によってひどくちがっている。  市内には、英国の下級役人がムチをもって歩いていて、 「シナ人を駆逐使役すること、あたかも駑馬《どば》(のろい馬)のごとし。土人また間隙をうかがいて奸をなすあり」  その姿は、 「澆季《ぎようき》(末世のこと)の風習なるべしと思われてあさまし」 と嘆いている。  そのころ入港したアメリカの商船に、日本人が一人のっていることがわかった。これは亀五郎といって、芸州生まれの水夫で、前に書いた浜田彦蔵と同じ船で難破し、漂流中救われたものである。彦蔵はアメリカで教育をうけたけれど、亀五郎は�愚直の人物�で、英語を話すが、字はよめない。使節たちと同じ船で日本へつれてかえり、ハリス領事の手を経て日本政府に引きわたすことに話がきまった。  また、オランダの軍艦が入港して、これに長崎出島のオランダ商館長がのっているときき、使節は通訳をつかわして、日本の事情をきかせた。その報告によると、江戸は平穏無事だが、井伊大老が�病卒(病死)�したという。長崎の商館長ともあろうものが、大老の死の真相を知らぬことはあるまい。相手を幕府の高官と見て、わざと事実を伝えなかったのではあるまいか。  ところが、九月十七日(洋暦十月二十九日)付けの香港新聞には、 「日本にあるオールコック君(駐日英国公使)、戦争におよばんとす」 という記事が出ている。これを読んで、勘定方組頭森田岡太郎は、 「英国政府、日本と戦争するための設けあり。右政府の願いは、すべては戦争におよばんことをもってなせり。ここに速かに変革なきときは、当今のもようにては戦争まぬがれがたし」  これが香港の状況を目のあたりに見た日本人の実感である。英国艦隊が薩摩を襲撃したのは、これから三年後の文久三年七月だ。 [#改ページ] [#中見出し]琉球出身者の忠誠心   ——戦後発生した�勝ち組�の多くは琉球出身者だった理由——  [#小見出し]異常な琉球人の忠誠心  十月三十日(洋暦)に香港を出帆した「ナイアガラ号」は、二日後に台湾沖を通過した。 「台湾はややエゾ島(北海道)ほどもあるべし。季候よろしければ物産多し。シナ領にして県令をおきしが、今は土人のみ住みて無人島にひとし。よき港もあるよし。仏人もっぱら|窺※[#「穴/兪」、unicode7aac]《きゆ》(うかがいねらうこと)せしという。この島を開いて、シナの乱を避くるものをうつして、わが版図に入れなば、国力盛大になるべしと思う」 と、前に箱館奉行をしていた村垣が、台湾に食指を動かしている。漢民族が台湾に移住しはじめたのは、明の中期以後(十六世紀)のころで、その後、倭寇《わこう》やシナ海賊の根拠地になっていたところへ、西欧の勢力がのびてきて、一時的もしくは部分的に、かれらの領有にゆだねられていた。明治七年に日本の新政府が西郷従道《さいごうつぐみち》のひきいる台湾征討軍を送ったり、第二次大戦後、台湾独立派が�台湾人の台湾�のスローガンのもとに、蒋介石政府の台湾統治権を否定して、日本で�台湾共和国臨時政府�をつくったりする根拠も、幕末ごろにはシナの台湾の領土権がまだ確立していなかったという事実に基づいている。そこで村垣も、これを日本領にして開発すれば、国力が大いに増進するだろうというわけだ。さて、 「御国も近くなりければ、名残りの饗膳とて、船将の室に招けるまま行きけるが、日頃のうさをかたり、また謝辞をのべて、酒をすすめけるもうれし。江戸に行きて滞在中は、おのれをはじめ、妻子を誘引して船にきたれよというも、またわが国の風をしらねば、彼の俗にならいていうもむべなり。ほどよく答えおくもくるし」  鎖国日本のきびしさを知らない艦長から、家族をつれて船へ遊びにこいといわれても、おいそれと応ずることのできない心苦しさを語っている。  つぎは琉球だ。そのそばを通ったとき、村垣はつぎのような歌をよんでいる。   朝日さすうるまの島もきり晴れて       さやかにむかう秋のうなばら  この�うるまの島�というのは、日本海のなかでも朝鮮半島に近い鬱陵島《うつりようとう》のことで、そんなものが見えるはずはないから、明らかにまちがいである。それとも、まだ皇化に浴していない�遠い島�という意味にこのことばをつかったのかもしれない。すると、村垣のような当時の代表的知識人の頭にも、琉球のことがこの程度にしかはいっていなかったということにもなる。 �開国�という点では、日本よりも琉球のほうが早かった。というのは、無防備のこの小さな島は、日本よりもかんたんに、ほとんど無条件に、外国の圧力に屈服せざるをえなかったのだ。  これまでわたくしは、ハワイ、北米から南米にかけて、日本人の移民先をまわって歩き、外地における日本人のありかたについて多くの疑問を抱いた。とくに、わたくしにとってときがたいナゾとなったのは、戦後、各地に発生した�勝ち組�とその心理であるが、その�勝ち組�の多くは琉球出身者である。だれがなんといおうと、どのような事実をつきつけられても、日本の敗戦を信じないばかりでなく、�負け組�すなわち敗戦を認めた日本人を襲撃して、これを殺傷するといったような、異常な日本への愛国心、忠誠心を発揮するものが、本土出身者よりも琉球出身者のあいだから多く出たというのはどういうわけか。  先年わたくしは沖縄を訪ねたとき、この疑問を率直なことばで表現した。たまたまこの話をした場所が、琉球最大の霊地となっている�ひめゆりの塔�の前であったため、地元の新聞に大きく出て、琉球人に強いショックを与えたのだ。  それから三年たって、わたくしがふたたび琉球を訪れたのは、その後の反響、反応を知りたかったからである。わたくしの会った限りでは、前には�暴言�とも見られたわたくしの発言が、琉球の指導的立ち場にある人々に、一種の�ショック療法�ともいうべき結果を生み、かれら自身の問題としてこれをとりあげるチャンスを与えたらしく、わたくしの意見に共鳴しないまでも、少なくともわたくしの問題提出に賛意を表する人が多かった。  それよりも、わたくしにとっての大きな収穫は、琉球の歴史、とくにシナと日本との関係について、わたくしたち本土人のあいだでは、ほとんど知られていない多くの文献的資料を与えられたことだ。これは琉球人ばかりでなく、日本人一般の忠誠心のありかたにかんするわたくしの疑問をとくうえに重要なカギとなるものだ。  それについて語る前に、琉球とナポレオン一世との関係について、少しばかりふれておく必要がある。  一八一六年というと、ペリーが浦賀にきた三十七年前で、イギリスの船が琉球を訪れ、さらに翌年日本にもきて貿易を求めているが、この船の船長でバジル・ホールというイギリス人の日記によると、この船が帰途セントヘレナ島に寄港したさい、そこで幽閉されていたナポレオンと会い、琉球についておもしろい会話をしている。  [#小見出し]ナポレオンも驚く  ナポレオンがこのイギリスの船長から、琉球の話をいろいろきいたなかで、とくに興味を感じたのは、琉球には武器がないということである。コルシカ島の小地主の家に生まれて、フランス皇帝となり、一時はほとんど全欧州を支配するにいたったこの軍事的、政治的天才にとって、�武器をもたぬ種族�というものを考えることができなかったのだ。  ナポレオンはいった。 「君のいう武器というのは大砲のことで、小銃くらいはあるだろう」  ホールは答えた。 「いや、それもないのです」 「でも、投げヤリのようなものはあるだろう」 「それもありません」 「そんなバカなことがあるものか。弓矢とか、小刀くらいはあるにちがいない」 「それすらないのです」  ナポレオンは思わず、コブシを固め、大声を出して、 「武器がなくて、いったい、ぜんたい、なんで戦争するのだ」 「その戦争というものをしたことがないようです」 というホールのことばをきいて、オポレオンは冷笑を浮かべ、マユをひそめて、 「太陽の照らすところで、戦争をしたことのない種族などというものはありえない。君のいうことは信じられない」  琉球が国内からすべての武器を撤去したのは、尚真王《しようしんおう》の時代(一四七七年から一五二六年まで)といわれているから、日本が戦争放棄の�平和憲法�を制定したよりも、四世紀以上も前のことである。  もともと琉球は、耕地が少なく、資源が乏しく、おまけに台風の通路にあたっていて、産業らしいものはほとんど発達しなかったから、貿易にたよるほかはなかった。ジョージ・H・カーの『琉球の歴史』によれば、当時の那覇は、アジア各地に産する貴金属、珍木、香料、染料、高級織り物、陶磁器、象牙など、高価な物資の仲継ぎ港として栄えていた。現在の香港のような役割りを果たしていたのだ。朝鮮王にオウムやクジャクをおくったところ、その返礼に青銅のつり鐘をもらったという当時の記録がのこっている。  ここにはシナや朝鮮の居留地もできていた。珍しい衣服を身につけて、かわったことばを話す外国人が港や町にあふれていた。王の使節や船員として出ていったものは、その家族や友人たちに、各地の珍しいみやげ物をもってかえってきた。市場には、異国の香りのする品々や日用品が豊富に出まわった。ひとくちにいって、そのころの琉球は、文字通りの�平和国家�であった。  地理的条件、風俗、建築様式などからいって、琉球は日本における�竜宮�伝説のモデルと見られているが、すべての外来者をわけへだてなく歓迎し、心からうちとけて歓待するという琉球人のホスピタリティ(もてなし)は、すこぶる�竜宮�的である。見方によっては�島ぐるみ遊廓�のような印象を与えた時代もあったが、これはこの島の歴史や伝統から生まれた基本的性格とつながるものである。  こういった島で、武器の撤去がおこなわれたとしても、それほどふしぎではない。全島民が武器を携帯することはもちろん、家にもっていることも禁止され、諸侯の武器も引きわたすように命令された。没収された武器は、ことごとく首里の倉庫に納められ、政府の管理下におかれた。そのねらいは、島内の平和維持、貴族や人民の反抗、内乱の防止にあることはいうまでもない。 といって、王室までが軍備や戦争をすっかり放棄したわけではない。八重山島の領主たちのあいだにはげしい争いがおこったときには、尚真王が兵をおくってこれを鎮定しているし、さらにその子の尚清王《しようせいおう》の時代には、奄美大島を征伐している。  琉球から完全に武器が姿を消したのは、慶長十四年(一六〇九年)薩摩藩に征服されてからである。尚真王の武器撤去は、おもに対内政策としてなされたものであるが、島津の属領となってからは、琉球全島にたいして徹底的武装解除がなされたのだ。  こういう琉球の歴史を知らないイギリスの船長バジル・ホールは、人民がまったく武器をもたない珍しい島として、琉球をナポレオンに紹介し、彼を驚かせたのである。  このようにして、一切の武器をうばわれた琉球の民衆のあいだに普及し、発達したのが�空手《からて》�である。もとは�唐手�といって、シナから伝わったものだ。  現在、�空手�はスポーツの一種となっているが、道具は何一つつかわないし、�禁手�(攻撃制限のルール)もないという点で、これは武器をもたないものの自己防衛術である。ローマ帝政時代の奴隷のあいだにも、これに似た闘技があったというから、�空手�は�奴隷のスポーツ�ともいえよう。少なくとも、かつてはそうであった。  [#小見出し]ねらいは密貿易  琉球にはこれという資源はないけれど、東洋貿易の中継地、台風にあったときの避難港として、古くから各国にねらわれていた。  文正元年(一四六六年)というと、室町時代の末期で、「応仁の乱」のおこった前年だが、琉球王の使者が京都まできて、将軍|義政《よしまさ》に会い、大歓迎をうけて帰りがけに、�鉄砲�をぶっ放して日本人を驚かせた。しかし、これは音だけで、戦時には威圧、ふだんは礼砲につかった�石火矢《いしびや》�のようなものだったらしい。ほんものの鉄砲は、南蛮、シナ、琉球、種子島を経て、日本にはいってきたということになっている。  文明三年(一四七一年)に出た朝鮮の書物に、博多のことを「琉球南蛮商船所集の地」と書いているところを見ても、琉球と日本の経済的なつながりは、現代人の想像以上に古くて強かったことはたしかである。  尼子氏の遺臣で|亀井※[#「玄+玄」、unicode7386]矩《かめいしげのり》というのが、豊臣秀吉に仕えて手柄を立て、因幡半国を与えるといわれたとき、これをことわって琉球国をいただきたいといった。そこで、秀吉は手にもっていたウチワに「亀井琉球之助」と書いて与えた。秀吉を8ミリにしたような亀井は、さっそくこの�ウチワ辞令�をもって、琉球遠征にのり出したが、途中大暴風に会い、この計画は失敗におわった。「関ケ原の役」に敗れて薩摩にのがれた宇喜多秀家《うきたひでいえ》も、琉球を征服してその領主になろうとしたが、これまた途中で難船、のちに自首して八丈島に流された。  琉球が島津のナワバリのようになったのは足利義教《あしかがよしのり》のときからで、元亀元年琉球王から島津貴久《しまづたかひさ》への手紙に「永久に唇歯の交わりをつづけたい」といってきたのにたいし、島津のほうでは「貴国と兄弟の約あり」と答えている。 「征韓の役」がはじまると、秀吉は島津義久(貴久の子)に会い、琉球も参加させようとした。しかし、琉球人は久しく戦争をしていないので、弱くてつかいものにならぬ、それよりも兵糧を出させたほうがよいと島津から答申し、七千五百人十か月分の糧食を出させることにしたが、けっきょくなにも出さずじまいだった。これは琉球の乏しい資力を秀吉のために浪費させたくないという島津の謀略だったらしい。  このあと島津は、琉球に多くのスパイを送りこみ、国情、国力、防衛、明国との関係などを綿密に調べあげたうえ、慶長十四年(一六〇九年)、百余隻の船に三千の兵をのせて、琉球に送りこみ、これをかんたんに占領、尚寧王《しようねいおう》以下政府首脳部百余人を捕虜として、薩摩につれてきた。  その処分について、徳川幕府にうかがいを立てたところ、小さくても一国の王をとりこにしたのは、前例のないことだというので、幕府は大いに島津の功を賞した。そして、義久自ら琉球王をつれて、家康のいる駿府(静岡)や江戸にお目みえすることになった。  慶長十五年八月八日、尚寧王は家康と対面し、ドンス百反、ラシャ十二ヒロ、蕉布百巻などを献上した。家康のほうでも、その子|頼宣《よりのぶ》(紀州家の祖)、頼房《よりふさ》(水戸家の祖、光圀の父)に舞いを舞わして大いにもてなした。だが、琉球人たちは、このまま死ぬまで日本に軟禁されるのではないかと、気が気でなかったらしい。  とにかく、これが前例となって、将軍の代がかわるごとに、琉球から江戸へ慶賀使を派遣する習慣が生まれた。この慶賀使の行列は、きわめてハデで、しかも一種の演出をともなっていた。服装、習慣、言語など、琉球よりはシナに近いものに仕立て、明《ミン》の音楽を奏しながら、東海道五十三次を引きまわしたばかりでなく、その姿を版画などにして、日本中に普及させた。というのは、幕府は朝鮮からも貢物《みつぎもの》をうけていたが、日本の諸大名のなかで、�外国�に属領をもっているのは薩摩だけだということを、日本中に強く印象を持たせたかったからである。琉球には日本の古いことばがのこっているし、日本語の話せるものがいても、江戸で日本人に会ったときには、もっぱら筆談をさせられたという。  かくて、薩摩と琉球のつながりは、�兄弟�の関係から�主従�の関係にかわった。三年後の慶長十八年に伊達政宗が、支倉《はせくら》常長を遠くローマにまで派遣したのも、そのねらいは信仰にかこつけて、貿易の開発もしくは新領土の獲得のための海外視察だったといわれているが、島津は手近なところで、手っとり早く、その目的を達したのである。  琉球の全収入は、米に換算して九万四千石、�貢物�の形をとって薩摩に納める年貢は一万二千石足らずになっていて、日本国内の小名程度である。琉球の価値はそんなところにあるのではなく、貿易にある。それも主としてシナを相手に、琉球の名においておこなわれる密貿易にある。  そのため琉球は�独立�の体面を保ちながら、シナへの朝貢をつづけ、薩摩もこれを認めた。社長のかこいものになっているBGに、課長級がそれを承知の上で手出しをしたようなものだ。  [#小見出し]�複数従属の国�琉球  幕末の日本では、忠誠心の対象が、藩主、幕府、朝廷の三つに分裂していた。これらが互いに争い、ときには重なりあって、大きな渦をまいていた。国民の大多数が、好むと好まざるとにかかわらず、この渦のなかにまきこまれないわけにはいかなかった。  琉球列島は、地理的に台風の通路にあたり、年々大きな被害をうけてきたばかりでなく、歴史的、政治的、文化的にも、つねにこういった渦のなかにあった。しかもその渦は国際的なもので、領主にとっても人民にとっても、不可抗力に近いほど強大であった。これが琉球の宿命的性格で、今も琉球の大衆は、アメリカ、日本、琉球政府という三つの勢力から生まれる渦のなかで生活している。ひとくちにいって、琉球はいつも多元的主権に支配される国、�複数従属�の国である。  薩摩軍に捕えられた尚寧王は、三年間日本にとめおかれたが、つぎのような誓約書を入れて、やっと帰国を許された。 「わが君主島津家久、懲罰の兵をわれに派し、われら驚愕す。われ故国よりつれられて偉大なる国に囚われの身となる。さながら籠中の鳥にも似て、帰郷の望みとて抱くべくもあらず。ここにおいて、慈悲に富む公、情をたれたまい、故国を失いし主従に帰国を許し、自ら島々を治むることを許したまう。これ一に君が慈悲にして、われら謝するに辞なし。われら忠誠なる薩摩の臣となり、とこしえに命に服し、わが主にそむかざるものなり」  涙のにじみ出た文章である。完全な無条件降伏だ。それでいて琉球を薩摩の直轄領とせずに、形の上だけでも、王制をのこした理由はどこにあるか。  もとの支配者をそのままのこしてロボット化し、間接支配をおこなうのは、利巧な征服者がよくつかう手であるが、薩摩の琉球支配は、そんな単純なものではなかった。産業らしいもののないこの島をまるまる搾取したところで知れたものだ。琉球の最大の資源は貿易であるが、それもポルトガルがマラッカを手に入れてから、往年の繁栄は失われた。さいごにのこされたものは、�進貢�という名でおこなわれてきた対支貿易であるが、これは琉球王の独占の形になっているので、王制を廃してこれをつづけることはできない。日本国内でも、海外貿易は幕府の独占で、諸藩に許されていないから、薩摩にとっては、密貿易基地として、またこれをカムフラージュする上においても、琉球は藩の財政をまかなう�生命線�となっていたのである。  琉球がはじめてシナに朝貢したのは一三七二年、日本では南北朝時代で、後醍醐天皇の皇子、懐良親王《かねながしんのう》が、�征西将軍�として九州地方の宣撫工作をしていたとき、明に使いを派遣している。  琉球から貢物をつんでシナへ行く船を�進貢船�といった。また琉球王の即位式がおこなわれるごとに、�冠船�といって王冠をのせた船がシナからやってきた。これにはシナ皇帝の詔勅をたずさえた�冊封使�というのがのっていた。中世のヨーロッパで、各国の王さまがローマ法王から冠を頂くのと同じような形をとっていたのである。このためシナから正副使以下、従者、護衛兵など合わせて、三、四百名、多いときは七、八百名の一団が、威風堂々とのりこんできたのだ。  琉球の�進貢船�は、たいてい台湾の対岸にあたる福建につくことになっていたが、そこには�琉球館�すなわち琉球の出張所のようなものがあって、これにひとまずおちつき、それから北京にむかったのである。往復の費用はすべて先方もちで、いたるところ、たいへんな歓待をうけた。そればかりではなく、この取り引きは、�唐一倍《トーイジベイ》�といって、確実に十割以上の利益があった。ボロ船で出かけていって、新造船をもらってかえったこともあった。出入りの職人が旦那《だんな》のところへ進物をもっていって、しこたま祝儀にありつくようなものだ。琉球でシナとのつながりを�親子の道�だといっているのは、シナから搾取されないで、むしろ一方的に、恩恵をうけてきたからだ。  この関係は、琉球が薩摩に征服されてからも、そのままつづけられた。琉球はシナの�進貢国�となっていても、別になんの義務も負わされていないかわり、琉球が他国の侵略をうけても、シナが別にこれを助けねばならぬ責任もないのだ。  シナ学の権威|内藤湖南《ないとうこなん》博士は、シナとその属領の関係についてつぎのごとくのべている。 「シナはどの時代でも、異種族の土地をその版図とする場合、経済上の利益ということを考えない。不利益を初めから覚悟している。外国から貢物をもってくると、賞賜といって、必ずそれ以上のものを与える。そこで、蒙古人でもその他の人種でも、自国の�独立�という名誉心をすてても、永くこれに服属していたのだ」  明の封冊をうけて�日本国王、臣義満�と名のった足利義満にしても、琉球王の場合と大してかわりはないということになる。  [#小見出し]政権交代期の珍事件  そのころ、琉球はまた高麗の属領にもなっていた。といっても、その関係はシナの場合と同じで、�進貢船�をおくって貿易をするさい、その使者が�臣�といっただけである。近ごろ�消費者は王さま�というが、高く買ってくれるものに�臣�として仕えたまでのことだ。  薩摩の琉球侵略は、むろん、琉球からシナに伝えなかったし、シナのほうでも知らなかったといわれている。明朝の末期で、内外ともに多事だったから、気がついていても、なんの利益ももたらさない、このちっぽけな島のことなど、かまっておられず、知らないふりをしていたのであろう。  それでも、琉球のシナへの朝貢はつづけられた。そうでないと琉球のほうで困るからである。  当時は倭寇が猛威をたくましゅうし、これに便乗したシナ海賊の動きも活溌だった。これにそなえて薩摩藩では、琉球の�進貢船�に薩摩の大砲や鉄砲を貸してやった。�戦争放棄�の憲法をアメリカから�おしつけられた�といわれる日本に、アメリカが武器を貸与するようなものだ。  だが、琉球人は、武器を与えられても、これをもって戦うことを知らないので、薩摩人が琉球人にバケて琉球船にのりこむようになった。この貿易による利益の大きな部分は薩摩にはいるのだから、これを守る必要があったのだ。情婦が旦那のところへ行くのに、情夫が用心棒となり、変装してついて行くようなものである。  だが、一行が福建の「琉球館」にはいると、そこへシナの役人がさかんに出はいりするので、日本との関係がバレるおそれがある。琉球語と日本語の区別を多少知っているものもいるからだ。そのため、薩摩人の�進貢船�のりこみは、まもなく中止したという。  明朝のさかんなころには、琉球から一年に二、三回も船を出したが、明朝がおとろえて財政が苦しくなると、だんだんと制限され、しまいには十年に一回ということになり、それも大陸の兵乱で送れないこともあった。そうなると、琉球の経済がたちまちゆきづまり、同時に薩摩も困った。アメリカがクシャミをすれば、ヨーロッパがカゼをひき、日本が肺炎にかかるというのと同じである。  明朝がほろびて、清朝がこれにかわったのは一六六二年で、日本では四代将軍|徳川家綱《とくがわいえつな》のときである。当時、オランダ人の占拠する台湾を攻略し、これを足場に�大陸反攻�をねらっていた明の遺臣|鄭芝龍《ていしりゆう》の子|鄭成功《ていせいこう》が、この年に死んで、台湾は、はじめて清国の領土となった。成功は平戸の生まれで、母は日本人、�国姓爺《こくせんや》�の名で内外に知られていることはいうまでもない。  明朝が危うくなったとき、その使者がしばしば日本にやってきて援助を求めた。これについて三代将軍家光が、松平信綱、井伊直孝などの閣老や大名をあつめて評議したところ、徳川頼房のごときは、さっそく浪人をかきあつめて、自らこれをひきい、大陸にのり出そうとしたけれど、井伊などが強く反対して、思いとどまった。頼房の子の光圀《みつくに》が、明の亡命学者|朱舜水《しゆしゆんすい》を優遇したのは、この父の志をついだものである。  薩摩藩にも、周鶴之《しゆうかくし》というのが、やはり救いを求めてきて、島津氏と�父と子のチギリ�をしたという。周は海賊出身だというが、この時代には、海賊と正規軍の区別がつかなかったことは、東洋も西洋もかわりがない。  琉球にとっても薩摩にとっても、大陸の支配者が、明であろうと清であろうと同じであった。�進貢�という名の有利な貿易をつづけることができさえすればいいのであるが、清朝は明朝ほど寛大でなかったようである。  この政権の交代期には、いろいろと珍事件がおこった。明帝の即位式があるというので、琉球の使節が福建までいったところ、すでに明朝がほろびていることがわかった。そこで、さっそく�進貢�の相手を清国の愛新覚羅《あいしんかくら》氏にきりかえて、任務を果たした。これが日本に擁立されて満州国皇帝となった溥儀《ふぎ》の先祖である。  このときの琉球使節は、機転がきいたというので、帰国後大いにほめられた。それからはこういった場合にそなえて、シナへ出かける琉球の使節は、白紙に「琉球王之印」をおしたものをいつも二、三枚用意し、あて名は現地についてから、なんとでも記入できるようにしていた。この白紙のことを�空道《こうどう》�といい、琉球使節には欠くべからざるものになっていたという。  琉球王の即位する場合には、シナから戴冠式の冠をもってくる、これをのせてくる船を�冠船�ということは前にのべたが、こうして位につく�世子《せいし》�(あとつぎの王子)は、それまで薩摩で人質になっているのである。それでいて琉球は、形の上では�独立国�、しかも�守礼之国�というのだから、考えてみるとおかしなものである。  それよりも奇妙なのは、この�冠船�が琉球にきたときの薩摩の役人の態度である。  [#小見出し]過酷な十五条の布令  島津家久が琉球を征服したのちに出した布令は、十五条から成っているが、ずいぶん過酷なものである。そのなかから注目すべきものをひろってみると、  第一条 薩摩藩主より許可をえずして、いかなる物品をも中国より輸入することを禁ず  第四条 個人所有の奴隷は許されざること  第六条 商人は薩摩藩の許可状なくして、海外交易、また琉球よりの交易に従事することを禁ず  第七条 琉球島民は奴隷として日本に送らるることなし  第十一条 喧嘩および私的争闘を禁ず  第十三条 いかなる商船も、琉球より海外にむけて出帆するを禁ず  これで琉球の経済は、完全に薩摩藩ににぎられ、琉球人は手も足も出ないようになっている。奴隷にかんする条項がふたつもあることは、ここでも奴隷制度の存在していたことを物語るものだ。  この布令の主たるねらいは、対支貿易の利益を薩摩で独占することにあったのはいうまでもない。�進貢船�と薩摩の関係は前にのべたが、シナから�冠船�がはいってきたとき、琉球に駐在している薩摩の役人はどういう態度をとったか。  琉球はシナと薩摩に従属していたが、シナは花をとり、薩摩は実をとった。シナからは、即位式に冠をもってくるだけで、ふだんは琉球にシナ人はほとんどいないし、別にシナは琉球にたいしてなんの拘束もしなかった。これに反して薩摩は、在番奉行以下多くの役人を琉球に送りこみ、常駐させて、政治的、経済的に、水ももらさぬ支配体制をとっていた。  ところが、シナの�冠船�が琉球について、使節が滞在しているあいだ、それまでいばっていた薩摩の役人たちは、シナ人に見られては困るので、完全に姿を消してしまうのである。古くは今帰仁《なきじん》、のちには城間《ぐすくま》というところに、かくれていることになっていた。  もしもどこかで、シナ人と薩摩人がぶつかったら、たいへんなことになるのであるが、かつてそういう事件は一度もおこらなかったという。ちょっと考えられないことだが、シナ人のことだから、日本人くさいのが目についても、見ぬふりをしていたのであろう。  シナの使節たちは、数百人でやってきて、たいてい半年くらい滞在するのであるが、そのあいだ中、逆に�カゴの鳥�のような状態におかれた薩摩の役人たちは、ときどきカンシャクをおこして、琉球人にあたりちらすことも珍しくなかった。琉球のほうでは、ハレモノにさわるように、こどもをあやすようにして、かれらのごきげんをとったものだという。  日本人ばかりでなく、一般琉球人も、日本のことを口にするのは厳禁された。日本からきたもの、日本をおもわせるものは、いっさいがっさい、シナ人の目につかないところへかくしてしまった。通貨でさえも、日本からもってきたものは流通を禁止し、そのために特別につくったものをつかわせた。  |伊波普猷《いはふゆう》著『孤島苦の琉球史』によると、宝暦六年(一七五六年、清の乾隆二十一年)五月二十三日付けの古文書に、つぎのような令達が出たことを記している。 [#この宇1字下げ、折り返して2字下げ]一、大和年号、にほん衆の氏名、大和書物、器などにいたるまで、唐人見とがむべきもの、深くかくしおくべきこと  さらに、天保七年(一八三六年)の令達では、 [#この宇1字下げ、折り返して2字下げ]一、やまと歌、やまとことばつかまつるまじく候、もし唐人ども、やまとことばにて何か申しきき候わば、通ぜざる体《てい》つかまつるべく候 [#この宇1字下げ、折り返して2字下げ]一、やまとめき候風俗これなきよう相たしなむべく候  慶応二年(一八六六年)の令達にいたっては、 [#この宇1字下げ、折り返して2字下げ]一、男の儀、まわし仕り候ては、唐人批判いたすべく候、冠船ご滞在中、末々まで那覇へさしこし候節、袴着用いたすべく候、ととのえかね候わば、肌あらわれざるよう衣裳着用いたすべき旨、去年申しわたしおき候通り、堅く相守るべきこと。 �まわし�とはフンドシのことだが、こんなものをつけていると、シナ人から蛮人あつかいされるから、いなかから那覇へ出てくるものは、すべてハカマをはくこと、ハカマを調達できないものは、着物をきこんで、はだが見えないようにせよ、というのだ。  そこで、いなかの連中は、フンドシひとつで村を出て、那覇の見えるところまでくると、肩にかけてきたパンツをその上にはいたものだという。  [#小見出し]大きかった密輸利益  こんな話もある。  琉球王の戴冠式の日、薩摩の役人が裏門から式場へはいって、こっそりと簾《みす》を通して式のもようをながめていた。すると、シナの使節がこれを指さして、 「あすこに客がきているようだが」 といったので、琉球人たちは青くなったという。これでみても、薩摩と琉球の関係は、シナ側につつぬけになっていたにちがいない。わかっていて荒だてないところは、さすがに大国、というよりも、いかにもシナ的で、日本人にはできないことである。  こんなきわどい芸当を演じながらも、薩摩が琉球の名において、対支貿易をつづけていたというのは、それほどこれが薩摩の財政をうるおしていたということである。といっても、対支貿易そのものによる利益は、金額において知れたものだ。それよりは琉球という海外貿易の窓口をおさえているということは、薩摩にのみ許された大きな特権であった。この窓口を通じて、薩摩はなかば公然たる密輸をつづけることができたのであって、その収益は莫大《ばくだい》なものであった。  ジョージ・H・カーの『琉球の歴史』は、つぎのような事実を指摘している。 「薩摩の地位はあいまいなものであった。島津家は徳川幕府にたいし、なんらの愛着も、忠誠心ももちあわせていなかった。中国にある琉球の貿易館は、薩摩が日本に大がかりな密輸をおこなう原因となっていたのは、明白な事実であった。たとえば一八〇二年(享和二年、十一代将軍|家斉《いえなり》時代)、薩摩から京都にむけて送った貨物のなかに、ヨーロッパ製品が発見された」  当時、薩摩は琉球との貿易用に約十五隻の船を所有し、いずれも年に平均二回那覇とのあいだを往復したというが、琉球にそれほどの物資があるはずはなく、主としてシナ、南蛮物資の密輸に用いていたことは明らかである。長崎を通じての対支貿易は、幕府の独占になっていたが、薩摩はこれにも割りこむため、領内数か所に、シナ語学校やシナにかんする資料室をもうけた。  さらに薩摩は、長崎出島のオランダ商館長ヘムミジを抱きこみ、これと密約を結び、南蛮船を毎年一隻ずつ薩摩に送らせるというとりきめをかわしたという。  このため、藩主島津|重豪《しげひで》(一七四五年—一八三三年)自らシナ語やオランダ語を習得し、『南山俗語考』という著書まで出している。開国進取という点で、彼は当時の諸侯のなかで群をぬき、シーボルトを江戸邸に迎えて医書を編集させたり、藩士に毛織り物を習わせたりした。  重豪はまたハデ好みで、薩摩に京阪や江戸の風俗やことばをとり入れ、劇場や料亭をつくり、いたるところに管絃の音がきこえて、質朴剛健で知られた薩摩人のあいだに、華美遊蕩の悪風が発生した。これに要する費用は、ほとんど密輸からあがる利益でまかなわれたのであるが、それでも足りなくて、琉球貿易を抵当に、大阪商人から五百万両の借金をした。そこで、周囲のものが見るに見かねて、四十三歳で隠居をすすめ、むすこの斉宣《なりのぶ》があとをついだ。この密輸がいかに大じかけにおこなわれ、これによっていかに大きな利益をあげていたかが、これでわかる。  今でも薩摩は、日本でも指折りの貧しい地域である。そこの領主が、こういう豪華なことをやってのけたのだから、幕府がその財源について疑惑をいだくのは当然である。普通なら、まず警告を与え、それできかなければ、領土をとりあげられるところである。それがなかったのは、どういうわけか。  島津氏の始祖忠久は、源頼朝の庶子ということになっている。古くから九州に勢力をはっていて、関ケ原の役のあとには、安南、ルソン、シナなどとのあいだに、貿易をさかんにおこなっていた。そして豊臣、徳川の両家をはじめ、朝廷にも、シナや南蛮渡来の珍しい品々を献上して、ごきげんをとり結んだ。十八代目の家久が、琉球を征服した功により、いちやく従三位中納言に任じられたのも、こういったPRがきいたのである。  もともと島津氏は、近衛家の所領島津庄の地頭であった関係で、近衛家とは特別のコネがあった。重豪の第三女|於篤《おとく》を近衛家の養女とし、名を茂子と改めて十一代将軍家斉の正室に、また斉彬《なりあきら》の養女|篤子《あつこ》をこれまた近衛家の養女として十三代将軍家定の正室に送りこんだ。こういった工作によって、雄藩としての地位を確保し、琉球を通じての非合法貿易をつづけることができたのである。  維新の変革に、薩摩がもっとも強い原動力となりえたというのも、この経済的基盤と、琉球という秘密の窓口から手に入れた新しい知識、文化、武器がものをいったのだともいえる。  [#小見出し]日琉同祖論の動機  琉球では、すでに三百年も前から�日琉同祖論�というのが出ている。  これを唱えた|尚 象賢《しようじようけん》は、羽地《はねじ》|朝 秀《ちようしゆう》ともいって、琉球の王族で、宰相でもあった。彼が生まれたのは元和三年(一六一七年)というから、薩摩の琉球征服後八年たっている。その結論はこうだ。 「ひそかにおもえば、この国の人、生初は日本よりわたりたる儀、疑いござなく候、しかれば末世の今に、天地、山川、五形、五倫、鳥獣、草木の名にいたるまでみな通達(共通)せり。しかりといえども、ことばのあまり相異するは、遠国の上、久しく通融が絶えしゆえなり」  かつて柳田国男が沖縄の島々を踏査し、民俗学的な調査をおこなった結果、これらの南島の住民は、日本民族の核心となった部分の移動の道筋に、こぼれおちて定着したものだという結論に到達している。  また尚象賢の編集した『中山世鑑』では、�琉球の神武天皇�ともいうべき舜天王をば、 「鎮西八郎為朝の男子なり」 という断定をくだしている。  これは|源 《みなもとの》義経《よしつね》が生きのびてジンギスカンになったというのと同じようなものであるが、為朝の子が琉球王になったという伝説は、日本に古くからあり、『大日本史』にも出ていて、義経の場合に比べると、いくらか公算が大きい。  琉球のもっとも古い文献に『おもろさうし』というのがある。これは『古事記』と『万葉集』と『祝詞《のりと》』をいっしょにしたようなものであるが、そのなかには、為朝が琉球の運天港に上陸したときのことを歌ったと思われるものもある。  ところで、琉球では、飢饉のことをガシ(餓死)またはスティーツァーユー(蘇鉄の世)といっている。飢饉になると、餓死するか、蘇鉄の実でも食うほかないという意味だ。  この恐ろしい飢饉が、琉球にはしばしばやってきた。尚象賢が国政を担当したのは、とくに琉球の財政が窮乏の極に達したときであった。そういう時期に、彼は�日琉同祖論�を唱えたばかりでなく、自分の邸内に�大和《やまと》御神《んちやん》�をまつったという。  その動機はなんであったか。征服者であり、大和の代表でもあった薩摩におもねるためであったのか。  これについて、琉球政府立博物館の元館長で、現在琉球史料研究会会長の山里永吉氏はその著『壺中天地』のなかで、つぎのごとくのべている。 「日琉先祖を同じうすると考えることによって、敗戦の心理的劣等感を解放し、同時に薩摩の政治的圧迫から、わずかに救いの光明を求めようとしたのであろう。実際、薩摩を異民族と考えて、その異民族から征服されていると思うよりも、薩摩が先祖を同じうする同一民族だと考えたほうが、摩擦を少なくし、精神的苦悩があるていど、克服されるのである。羽地朝秀(尚象賢)の日琉同祖論は、けっして征服者たる薩摩に呼びかけたものではなく、国内のすべての同胞に納得させるためのものであった」  主人から奴隷に近いあつかいをうけているものが、もとをただせば自分も主人と同じ血を引いているのだと考えることによって、その苦痛が半減するというのである。だが、逆にこれによって苦痛が倍増し、抵抗意欲をそそる場合もありうる。  一般には、弱小民族が強大な民族に征服され、吸収された場合には、宣撫工作のひとつとして、征服者の側から同祖説が唱え出されるのが普通である。日本の神話のある部分は、征服者である天孫民族と、被征服者である出雲民族との同祖説を信じさせるためにつくられたものだともいわれているが、太平洋戦争中にも、日本軍の占領地域で、それに似たことが、かなり計画的におこなわれた。逆に被征服者の側から、そういうことをいい出すものが出ると、同じ民族のなかで�裏切り者�のあつかいをうけることが多い。ところが、琉球では、被征服者の苦痛緩和剤として同祖説が唱え出されたという。  それはさておいて、ある琉球の故老がわたくしに語ったところでは、天孫民族は琉球を通って日本列島に移動したのであって、琉球人は大和民族の正流であり、本家である。琉球に今ものこっている古いやまとことばは決して日本本土からきたものではない。現に石垣島には�天の岩戸�がある。これに反して現在の日本人は、日本列島の先住民族や天孫民族のあとにきた諸民族との混血であり、雑種だというわけだ。  ハワイや南米各地の�勝ち組�に琉球出身者の多いことは前にのべたが、これは琉球人こそ純粋の天孫民族だという強い信念とつながっている。そこで、終戦直後�米よこせ�のデモ隊が皇居におしよせたというニュースが伝えられたとき、琉球人のあいだには、江戸っ子はダラシがない、今こそ天皇を琉球に迎えるべきだと大まじめに唱え出したものもいたという。  [#小見出し]日本にたいする足がかり  東京は千島列島と琉球列島のちょうど中間に位している。かつての日本にとって、千島が�北の門�だったとすれば、琉球は�南の玄関�であった。今やどっちも、人手にわたってしまった。  琉球の�潜在主権�は今も日本にあるというが、日本人の入国はきびしい制限をうけている。しかもその制限の基準が、日本人の常識に反していて、入国を拒否された人々のなかに、蝋山政道氏、中野好夫氏などもあるときいてびっくりした。  わたくしがUSCAR(米国民政府)のさる高官に会って、その不可解、不合理について質問したところ、彼は答えた。 「それなら、現在、日本人は千島へ自由に行けますか」  この論法をもってすれば、日米関係も日ソ関係と大してかわりはないということになる。これまでアメリカがあの手、この手をつかってやってきた対日PRに水をぶっかけたようなもので、まさに百日の説法|屁《へ》ひとつだ。  アメリカの玄関にあたるのはキューバ島である。これにソ連の勢力がのびてきたときのアメリカのあわてかたは、だれもが知っている通りである。  今から約一世紀あまり前、堅くとざした日本の門をコジあけようとしてやってきた国々は、まず琉球に目をつけた。アメリカもそのひとつだ。  琉球は�守礼の国�、すなわち無抵抗の国である。国内資源のとぼしさを貿易でおぎなってきたこの国では、外国人はすべて�お客さま�で、これに最大限のサービスをすることが国是となっていた。  一六一四年、那覇駐在の英国代表リチャード・ウィッカムは、平戸の上司へつぎのように報告している。 「琉球の住民は、たいへん中国人と似ている。日本語を話してはいるが、日本人にはよく通じないらしい。頭髪は中国人のように、長い髪を頭の右側にゆいあげ、カンザシをさしている。彼らは温順で鄭重《ていちよう》な人々である」  一七九七年、日本の北方海岸の調査をおこなったイギリスの海軍船「プロビデンス号」は、帰途、琉球の宮古島で難破したが、島人に助けられ、手厚くもてなされたうえ、本国へ送りかえされた。このときの船長の報告によって、イギリス海軍が琉球に強い関心をもち出したという。  一八四〇年、�アヘン戦争�に参加していたイギリスの輸送船「インディアン・オーク号」が、琉球沖で難破したときも、「乗組員にたいする待遇は、なみはずれてよかった」と本国に報告している。  前にも引用したG・H・カーの『琉球の歴史』では、 「中国の皇帝をして�守礼の国�と呼ばしめた琉球人のおだやかで、鄭重な天賦の性格は、西洋のあらゆる階級の船員たちにも、何らかわることなく発揮された。琉球を訪問した際の公文書、個人の手になる日誌、あるいは出版物となり、大衆に親しまれた物語りなどは、琉球にたいする好意にみちている。こうした琉球人の態度は、中国の港で中国人の示した無礼な態度や、日本人のこの上なき冷淡な態度とはまったく対照的だ」 と、のべている。ただし、この書物は、第二次大戦後、琉球がアメリカの基地になってから、USCARの援助のもとに書かれたものであるということを頭に入れて読む必要がある。それだけに、日本の統治時代に出版された琉球にかんする書物には出ていない史実や見解を遠慮なくのせているので、すこぶる興味がある。  こういうわけで、琉球を訪れる西欧諸国の商船や軍艦の数が次第にふえてきた。当時西欧諸国では、海軍と外交が一体をなしていて、提督は大砲をかかえた外交官であり、外交官は剣をつけない提督であったが、「アヘン戦争」後、かれらの目は主として日本にむけられていた。江戸の幕府に外から圧力をかけるにはもってこいの足場と見られたのが琉球である。それに、日本の近海を航行する艦船の集合、修理のためにも、ここは絶好の地であった。  またこの時代に、貿易、侵略の尖兵となったのは宗教であるが、日本から完全にしめ出された伝道者たちは、琉球から九州を通じて、キリスト教の宣伝物を流しこもうと考えた。さらに、商人たちは、日本本土との貿易に、那覇、薩摩ルートを開拓する計画をたてた。  こういった動きは、オランダの通報で、幕府もよくわかっていたけれど、これにたいする幕府内部の意見は、ふたつにわかれてはげしく対立した。ひとつは琉球をはじめ全国の防備を固めて、西欧側をあくまでよせつけまいとするもので、ひとつは琉球の港を開放し、それで西欧側をある程度満足せしめ、本土への要求を緩和しようとするものである。前の意見を強く主張したのが水戸斉昭で、あとの立場を代表するものが、老中筆頭の阿部正弘である。阿部と組んで、この機会を利用し、海外貿易の完全なる合法性を獲得するにいたらないまでも、これを黙認させることに成功したのが島津斉彬だ。そのため弘化三年(一八四六年)五月二十七日、御前秘密会議が開かれ、フランスと琉球が貿易協定を結ぶことを幕府は認めた。  [#小見出し]ぬけめのない斉彬  近ごろ、明治維新は、実は幕府を支持するフランスと、薩長を援助するイギリスとの争い、すなわちスポンサー合戦だったという�新説�が出て話題になっているが、こういう見方は、なにも今にはじまったことではない。新興国もしくは植民地国家の内紛には、諸外国がなんらかの形で干渉して、事態をいっそう紛糾させることは、今も昔もかわりはない。問題はそのなかで、どの程度に主体性を守りぬくことができたかということにある。その点で維新の指導者たちは、幕府側も薩長側も、それほど大きなあやまちを犯さなかったということは、その後の日本が独立性を失わなかったことで証明される。  ところで、こういった事態は、日本で発生する前、まず琉球で発生した。ペリーが浦賀にくる十年ばかり前、フランスの軍艦が琉球にきて、イギリスは琉球を作戦基地として日本を攻撃しようとしているから、琉球はフランスの保護を求めるべきだと申し入れたが、琉球ではことわった。しかし、フランスは宣教師をむりやりに送りこみ、琉球語を学ばせて布教させたが、信者はひとりもできなかった。  同じころ、イギリスも、「琉球海軍伝道会」を設立し、宣教師を養成して送りこんだ。この伝道会は、前にナポレオンに会って琉球の話をしたバジル・ホール船長などが、帰国後につくったもので、日本の古典文学や謡曲の研究者として知られたバジル・ホール・チェンバレン(日本名・王堂)は、ホール船長の外孫にあたり、この伝道会に属して東洋にきたのである。ラフカジオ・ハーン(小泉八雲)を日本に紹介したのは彼で、彼の門下からは、上田万年《うえだかずとし》博士などが出ている。  この伝道会のねらいは、まず琉球の布教で成績を上げ、日本人のキリスト教にたいする不信、不安の念を緩和することにあったのだが、たまたま琉球にきたベッテルハイムというユダヤ出の宣教師が粗暴でおうへいだったため、島民にそっぽをむかれて、その目的を達することができなかった。しかし、彼は語学の天才で、さっそく琉球語、中国語、日本語をおぼえ、琉英辞典をつくったり、聖書の琉球訳に手をつけたりした。  かように、琉球における仏、英の伝道が失敗におわったのは、徳川幕府のキリスト教にたいするきびしい弾圧政策が、薩摩を通じて、琉球中に徹底していたからである。  そこで、琉球政府はベッテルハイムをもてあまし、一八五四年、ペリーのひきいるアメリカ艦隊が那覇に入港したとき、彼をつれて行ってくれとたのみこんだ。この通訳を自分でしなければならぬという妙な立場にベッテルハイムはおかれた。  琉球をめぐって、欧米諸国のあいだで、このような争いが展開されているとき、薩摩の島津斉彬は、幕府を相手に、前にのべたような秘密の取り引きをおこない、フランスと琉球との貿易協定を認めさせたのである。これは島津の責任においておこなわれるのであって、他の諸侯には知らさず、その結果、どのような事態が発生しようとも、幕府には一切めいわくをかけないということになっていた。しかし、フランスと琉球との貿易を認めるということは、事実上、フランスと薩摩との貿易を認めることである。  ペリーが神奈川で日米和親条約を結んだのは一八五四年(安政元年)であるが、それより八年も前に、幕府は開国のハラをきめたということになる。これがすぐ実現しなかったというのは、琉球政府で、幕府と薩摩とのあいだに、こういう話がすすんでいるとは知らず、フランス側の申し入れを拒否したからである。  これについてG・H・カーはつぎのごとくのべている。 「斉彬は、独特の陰険な方法で、時の政府の鎖国政策を利用せんとした。公《おおやけ》には鎖国政策の支持を声明、沿岸に強固な防備を築くことを主張しながら、福建にある琉球貿易弁事処を拡張、次第にこれを那覇にうつし、そこからおそらくは、九州の自分の領内にうつそうと考えていた。とくに彼は武器の製造に注目し、自分の領地で、重武器の製造を独占的に発展させようと試みた。国内に恐怖心をまきおこし、それによって武器の需要を確実に増そうとした。また那覇を中継地として武器を輸入し、利益をあげようと考えた。まったくぬけめのない人間であった」  少々うがちすぎた見方ではあるが、徹底した富国強兵策をとっていた斉彬としては、そう驚くほどのことはないともいえる。彼の曾祖父にあたる重豪《しげひで》が、領内に中国語学校をつくり、自分でも中国語やオランダ語を学んだことは前にのべた。斉彬も薩摩人を那覇に送って、ひそかにフランス語を習わせる計画を立てた。重豪や斉彬がこのようなきわどい芸当ができたというのも、琉球という手品のタネをにぎっていたからである。  かくて斉彬は、一八五四年には琉球とアメリカに、翌年は琉球とフランスに通商条約を結ばせた。このままで行くと、斉彬を原動力として維新の変革は数年早まわりしそうな形勢だったが、安政五年、彼はコレラで急死し、薩藩の形勢は一変した。 [#改ページ] [#中見出し]両属性と琉球の悲運   ——二つの強国のあいだにあって振り子のように動く地理的条件——  [#小見出し]百年前から�基地�の運命  文久二年(一八六二年)の「生麦事件」は、「薩英戦争」をひきおこし、それが薩摩とイギリスを結びつけるチャンスとなり、維新史上に大きな役割りを果たしているが、これより八年前の安政元年に、これに似た事件が琉球でもおこっている。  この前年、ペリーはアメリカの艦隊をひきいてやってきて、琉球を足場に、浦賀や上海を往復していたのであるが、その留守中、アメリカの水兵が那覇の町で乱暴をはたらいて、琉球の民衆に殺された。これを知ったペリーは、琉球政府に厳重な抗議をし、すぐ下手人を見つけて差し出さないと、首里城を占領するといった。 「生麦事件」の下手人は、奈良原喜左衛門《ならはらきざえもん》、海江田武次《かいえだたけじ》らだということが、薩摩側にはわかっていたけれど、岡野新助という架空の人物がやったことにして、イギリスの要求に応じなかったから、こじれて紛糾したのであるが、琉球の場合は、群衆のやったことで、ほんとに下手人の見当がつかなかった。明治のはじめに、鹿児島県吏として琉球の�処分�に参加し、さらに明治二十五年以後、長く沖縄県知事をつとめた奈良原|繁《しげる》は喜左衛門の実弟である。  それはさておいて、島津藩よりはずっと弱い立場にあった琉球政府が、この大事件をかかえて困りはてているところへ、田場武太《たばむた》という若者が、下手人だといって名のりでた。そしてアメリカ側の取り調べにたいして、自分の妻がその水兵に暴力で犯されたため、カッとなって殺したのだと申し立てたので、ペリーのほうでも、琉球の法律にしたがって処分せよといって、田場を琉球政府に引きわたした。  これで田場は釈放され、たちまち民族の英雄となった。この若者は、前にのべたベッテルハイムという宣教師につかわれていて、この申し立ても、実は宣教師の入れ知恵によるものだといわれている。当時田場は独身だった。  この事件のあったのは、一八五四年の五月十七日で、それから四十日後の六月二十七日、琉球とアメリカのあいだに、和親通商協定が結ばれたところを見ると、ペリーがこの事件を有効に利用したことは明らかである。琉球としては、これで独立主権国として、国際的に承認されたことになるのであるが、そのことよりも、琉球王やその周辺の要人たちは、このために日本またはシナから、あるいは両方から、きついおしかりをうけるのでないかとびくびくして、この協定をのばせるだけのばしてきたのである。�独立�はいいが、それによって日本、シナから経済的に孤立することを恐れたのだ。  この前の年、ペリーが浦賀にきて、幕府と交渉していたとき、貿易港に那覇を加えることを要求した。これにたいして幕府の役人は、琉球は「天皇の威光もとどきにくい遠隔の地」だということを理由にしてことわっている。これでは日本自ら琉球の領土権をなかば放棄したようなものだ。国内問題の処理に手を焼いていた幕府としては、琉球のことまでかまっておられなかったのであろう。  シナも、琉球については、日本以上に放任主義をとっていた。したがって、琉球としては、それほど日本やシナの顔色をうかがう必要もなかったのである。  だが、それだけに琉球は、一種の�真空地帯�をなしていたともいえる。これに目をつけたのがペリーで、このままでいくと、琉球は英、露、仏のいずれかにうばわれる恐れがあるから、かれらの勢力がのびてくる前に、この群島を占領することの必要を、ワシントンの海軍長官あての手紙で、彼は強く進言している。 「日本の忠実なる属領、琉球は目下政治的隷属と束縛のもとにあるので、われわれの政府のごときが手をさしのべ、保護を与え、活気をよみがえらせる価値ありと考えます。きたるべき将来において、アメリカ合衆国は、その領土権を西欧大陸のかなたに伸展させる必要にせまられるのは、明白なる事実であります。ゆえに、東洋における海上権を確実に保持する方策として、この地方に足場をつくる必要を、私の責任において主張する次第です」  日本の敗戦で沖縄がアメリカの軍事基地となる一世紀も前に、アメリカの一提督が、こういう意見をのべていることを日本人も沖縄人も知っておく必要がある。そればかりでなく、ペリーのこの文章は、�占領�ということばをつかわずに、まるでフルシチョフや周恩来が資本主義国の属領解放について語る場合と、同じような表現を用いていることを見のがすことはできない。  ペリーはさらにすすんで、 「私の行動が承認されるかされないか、政府からの決定があるまで、この帝国の一属領、大琉球を制圧しておくつもりであります」 といっている。つまり、彼が江戸にむけて出発する前に、この処置を講じておかないと、英、露、仏のいずれかにこの計画を見ぬかれ、先んじられる恐れがあるというのだ。  ところが海軍長官の返書では、 「大統領にその趣旨を説明したところ、この提案をなされたる愛国的な動機には深く感謝するが、大統領は遠隔の他の国家に属する一島を占領するのは、好まれぬところである」 と、きっぱり拒絶してきた。当時は若いアメリカの�良心�が、まだこのように健全であった。  ペリー提督はまた、小笠原群島の占領をアメリカの海軍長官に進言している。  この群島は、欧米の航海者のあいだで、�ボニン・アイランド�(Bonin Island)という名で知られていたものである。かれらが日本人に、あの島はなんというのかときいたところ、�無人島�だと答えたのが、なまって�ボニン�となったのだという。 �小笠原�という名前は、この群島を発見した小笠原貞頼から出ている。貞頼は�小笠原流�で知られた小笠原氏の出身で、信州深志の城主だったが、文禄二年(一五九三年)家康の命をうけて、伊豆の下田から太平洋にのり出し、航海をつづけているうちにこの群島を発見し、 「日本国天照皇大神宮地島長源家康公幕下小笠原四位少将民部大輔源貞頼朝臣」 と書いた標柱を二か所に立てて帰った。それから毎年この島に出かけたというが、長つづきしなかったらしい。その後、江戸初期の大貿易家末次平蔵が幕府の命をうけて、この島へ探査に出かけている。平蔵は、台湾にオランダが築いた城砦ゼーランジャにのりこみ、大活躍をした浜田弥兵衛《はまだやへえ》のスポンサーで、この遠征に要した船、船員、武器その他経費一切を彼が負担したのである。  [#小見出し]日本を祖父とせよ  その後、一八二七年(文政十年)に英艦「ブロッサム号」がやってきて、小笠原の英領を宣し、ついで一八三〇年(天保元年)にはサボリーというアメリカ人がハワイ人をつれてきて移住した。さらに一八五三年とその翌年にはペリーがきて、サボリーをこの群島の首長に任命し、貯炭所をつくった。ペリーがこの群島の領有を本国に進言したのはこのときであるがアメリカ大統領は、琉球の場合同様、これに賛成しなかった。  一方、幕府は文久二年(一八六二年)になって、やっと、これ以上すてておくわけにはいかないということに気がついて、外国奉行|水野忠徳《みずのただのり》を派遣し、八丈島の住民をうつして、管理と開拓に手をつけたものの、国内情勢が険悪化するとともに、立ち消えになってしまった。  日本政府がこの群島の領有権の確保に、積極的にのり出したのは明治八年で、アメリカをはじめ各国の承認をえて、明確に日本領ということになった。久しく日本から見放されていたこの群島が、無事に日本の手にかえったというのは、総面積わずか一〇二平方キロメートルで、しかも利用できる土地はその一一%にすぎず、これという資源もない上に、どこからも遠く離れているからである。  ところが、この遠く離れているということが、重要な戦略的価値をもつことになり、「太平洋戦争」では大きな役割りを果たした。そして戦後は琉球などとともに、アメリカにおさえられ、いつまた日本の手にかえってくるか、見当がつかない状態にある。  個人や民族の場合と同じように、それぞれの�島�にもそれぞれの運命というものがあるのであるが、とくにこのような�離島�の場合は、数奇をきわめたものが多い。琉球が幾人もの実父、実母、養父、養母、義父、義母などの手に転々とうつって育てられたようなものだとすれば、小笠原群島は文字通りに�太平洋のすて子�であり、孤児である。それが今、実父の不行跡から、他人の手にわたって、施設に収容されているようなものだ。  琉球と日本のつながりは、古くは�兄弟�の間柄であったのが、薩摩に征服されてから、�主従�の関係にかわったことは前にのべた。ところが、薩摩が琉球を攻略したとき、琉球にいた喜安《きあん》という日本人の日記に出ている琉球のありかたは、 「唐を祖母の思いをなし、日本を祖父とせよと古老はいえり」 となっている。これでみると、琉球は日本の孫ということになる。おばあちゃんは孫に甘いが、おじいちゃんはきびしいから気をつけろ、というのかもしれない。  喜安というのは、泉州堺出身の僧侶で、千利休の流れをくむ茶人でもあった。それが尚寧王《しようねいおう》の茶道師範兼侍従官として側近に侍していて、この戦争を目撃したのである。その日記は、日本人的な見方をしているというので、琉球人には不満な点もあるようだが、当時の記録としては唯一のものなので珍重されている。  それはさておいて、「遠隔の他の国家に属する一島を占領することを好まぬ」といって、ペリーの進言をしりぞけたのは、アメリカの第十四代大統領フランクリン・ピアースであったが、第三十五代のジョン・ケネディは、ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハワーのあとをうけて、世界中いたるところに�軍事基地�という名の領土的�庶子�もしくは�庶子�的領土をもうけている。それだけ、アメリカがかわったのか、それともアメリカをめぐる世界の情勢がかわったのか。  [#小見出し]琉球に武器を購入させる  米、仏と琉球の和親通商条約は、同じような条約が日本とのあいだに成立してからは、大して意義のないものになってしまった。しかし、仏琉条約をいちはやく利用して、自藩の強化を計ろうとしたのが島津斉彬である。  斉彬の望んだのは、この条約に基づいて、新式の汽船、軍艦、銃器などをフランスから大量に購入することと、薩摩人数名をフランスに留学させることである。明らかに�裏口留学�だ。仕入れた新式兵器は、幕府や他の諸藩にも売り、使いものにならなくなった旧式兵器は、�進貢船�に託してシナに売りこむつもりだった。  そこで、斉彬はまず腹心の市来正《いちきまさ》右衛門《えもん》にこの旨をふくめ、今のことばでいうと特務機関のような形で琉球の要人と結び、「北方の島からきた琉球人の医者」というふれこみで、服装も琉球風に改め、�伊知良親雲上《いちらしんうんじよう》�と琉球名を名のって、フランス人との交渉に立ち会った。�伊知良�は市来をもじったものと思うが、頭かくして尻かくさずとでもいうか、変名というものは、たいていどこかに本名の痕跡をとどめているものだという一つの例である。  自衛権をさえ放棄している琉球で、大量の武器を外国から仕入れるというのはおかしいし、第一に琉球にそんな金のないことは、フランス側にもよくわかっているはずだ。うしろで薩摩が糸を引いていることは承知の上で、この話にのってきたものにちがいない。  現品の引きわたしは、安政六年三月までということになっていた。ところが、その前年の七月に斉彬が急死し、彼と仲の悪い庶弟久光の長子|忠義《ただよし》が家督をついだ。といっても、実権は久光ににぎられていて、政策の面でも人事の面でも、斉彬の方針を根こそぎくつがえし、極端な攘夷主義をとったので、ついにお家騒動となり、西郷隆盛その他多くの犠牲者を出した。これがいわゆる�斉彬くずれ�だ。  市来のほうにも、フランスとの契約を一切撤回し、即刻帰国せよという命令がきた。しかし、それではフランス側が承知しそうもない。それにこの契約は琉球の名において結ばれたものだから、違約の責任は琉球政府で負わねばならぬことになる。  そのため、関係者一同があつまって知恵をしぼったあげく、トリックを考え出した。まず第一段階として、注文した品々は六か月以内に全部引きわたしてもらいたいとフランス側に申し入れた。これは、むろん不可能である。つぎに、取り引きの責任者である�伊知良親雲上�が落馬して急死したことをつげて、この契約の解除を求めるとともに、空《から》の棺で盛大な葬式をおこない、りっぱな墓石までつくった。しかし、それだけではおさまらなくて、一万両の違約金をフランスに払わせられた。  諸藩のなかで、植民地統治の経験をもっているのは島津藩だけである。維新の変革にさいし、同藩が幕府や長州を相手に、複雑で多元的に政治的手腕を発揮したのも、一つはこの点に基づいている。  その後、市来は薩摩にかえり、久光に仕えて重要な地位につき、藩の通貨を改鋳したり、広島藩と貿易したりしていたが、「薩英戦争」後は長崎に出て、イギリス人と親しくなり、軍艦や武器を仕入れる役目を担当した。維新のさいには、島津藩の箱館征討軍の隊長となり、鎮定後、薩摩にかえって「開物社」をつくり、地方産業の開発をはかった。  これは余談だが、「太平洋戦争」のはじまる直前、わたくしは多くの文化人とともに徴用になって、麻布三連隊にはいったところ、同じ徴用組のなかに、市来龍夫《いちきたつお》という男がいた。マレー語にかけてはインドネシア人以上だという評判だったが、目がギョロリとして、どこか普通の日本人とちがったところがあった。あとでわかったことだが、戦前から彼は、ジャカルタで発行されていた日本語新聞の記者とか、商社員とかにバケて、日本軍のジャワ作戦に必要な情報をあつめていたらしい。  それからまもなく、真珠湾攻撃がはじまり、今村均《いまむらひとし》大将を司令官とするわたくしたちの部隊の目的地はジャワだということを知らされて、オランダ人と原住民を離間するような宣伝物をつくれという命令をうけた。そこでまず市来君の案に基づき、山田耕筰《やまだこうさく》氏のはからいで、原住民がとくに愛好し、オランダ当局が禁止していた歌を日本人歌手にうたわせて、レコードに吹きこみ、現地へもって行った。これがのちにインドネシアの国歌となった「インドネシアン・ラヤ」である。  ジャワに上陸後、市来君はわたくしたちとともに宣伝活動に従事していたが、日本の敗戦と同時に、インドネシア独立軍に投じ、奮戦のうえ戦死した。彼の葬儀はインドネシアの中将の資格でおこなわれ、スカルノ大統領も列席したという。  市来君は薩摩の出身だときいているが、市来正右衛門とつながりがあるのかないのか、わたくしにはわからない。  [#小見出し]通訳の悲運な死  ペリーが琉球にきたとき、通訳の役目を買って出たのが牧志《まきし》|朝 忠《ちようちゆう》という男である。  終戦直後の日本でも、英語のできるものは、ひっぱりだこになり、大いに幅をきかせたものだが、そのころ琉球では全島を通じて、ペリーと話のできるものはほかにいなかったから、彼の独壇場となり、とんとんびょうしに出世した。歴史という大きなゲームで大穴をあてたようなものであるが、彼にとっては、けっきょくこれがわざわいのもととなった。  いったい、どこで彼が英語を習得したのか、よくわかっていないけれど、多分シナで手ほどきをうけ、帰国後、ベッテルハイムに師事して、仕上げをしたのだろうといわれている。  市来正右衛門が島津斉彬の命をうけて琉球にきて、いろいろと工作したことは前にのべたが、彼の片腕となって協力したのが牧志朝忠である。彼はもと板良敷里之子《いたらしきさとのし》といって、身分の低いものであったが、斉彬や市来に引き立てられて、琉球の牧志地方の地頭職に任ぜられ、�牧志親雲上�と名のった。別に大して学問、見識のあるわけではなく、彼の英語も通訳ができるという程度のものであったようであるが、それでも時代の要求にマッチして、希少価値が発生し、斉彬としては、これからも大いに彼を利用する必要があった。それが斉彬の急死で、薩摩藩も琉球政府も、形勢が一変した。  薩摩藩では、斉彬派と久光派がはげしく対立し、血で血を洗う争いをつづけたが、琉球でも、少年王|尚泰《しようたい》をめぐって、重臣が二派にわかれて争った、というよりも、市来を通じて斉彬につながっていたものは、それぞれデッチあげの罪名をおしつけられて、片っぱしから粛清された。いずれもひどい拷問にあって、無実の罪の自白を強いられた。牧志もその一人だったが、 「否定しても死、認めても死、同じ死ぬなら拷問の苦痛をまぬかれるに如《し》かず」 といって、あっさりと罪を認めた。その結果、久米島へ十年の流刑に処せられるはずであったが、それでは薩摩へ逃亡する恐れがあるというので、終身禁錮の判決をうけた。  ところが、二年めの文久二年に、突然、薩摩の役人が獄舎にやってきて、牧志に面会を求めた。上司に伺いを立てる暇も与えず、彼を引き出して、そのままカゴにのせて、那覇の�お仮屋《かりや》�(薩摩藩の事務所)へ拉致《らち》した。  正式に琉球政府へ牧志の引きわたしを請求したのでは、どこかへかくされてしまいそうだから、こういう非常手段に出たのである。文久二年というと、「生麦事件」のおこった年で、薩摩藩としては、切迫した情勢にそなえて、急に英語の通訳の必要が生じたのだ。  しかし、琉球政府としては、困ったことになった。面目まるつぶれということもあるが、それよりも恐ろしいのは、牧志の身柄が薩摩にわたると、これを背景にして、彼がどのような復讐《ふくしゆう》に出るかもしれないということである。彼なら、それをやりそうだし、またできる男だということをよく知っているからだ。  ところが、彼をのせた船が那覇の港を出て、伊平屋渡《いへやどう》を通過するころ、突然、彼の姿が見えなくなった。大騒ぎして、船内くまなくさがしたが見当たらない。けっきょく、すきをうかがって海中に身を投じたのだろうということになっている。  それにしても、わからないのは彼の自殺の動機である。彼は当時としては珍しい国際人で、若いころシナに行ったし、薩摩にも何回か往復している。まだ四十五歳で、どこへ行ってでも生活はできるという自信をもっているはずだ。それどころか、薩摩のほうでわざわざ救い出しにきてくれたくらいだから、向こうでは幸運が彼を待ちうけていることは明らかである。  それがどうして死ぬ気になったのか。  この事件をあつかった『琉球三寃録』という書物では、 「かねて神経錯乱の気味あり」 ということで、あっさりと片づけられている。  しかし、これはわたくしの�推理�だが、この船にのっていた琉球人が怪しいと思う。彼は一人の従僕をつれて乗船したというが、この男か、琉球人の水夫のいずれかが、琉球政府の命をうけて、牧志のすきに乗じて、彼を海につきおとしたのではあるまいか。日本人水夫のなかにも、琉球政府に買収されたものがなかったとはいえない。  発狂自殺説は、彼の輸送にあたった薩摩の役人の責任のがれから出たもので、のちに琉球側もこれに同調したのであろう。  歴史のジャングルのなかには、この種の�完全犯罪�がいたるところに、毒キノコのように、ころがっている。  [#小見出し]ついに独立をうしなう  周囲に二つ以上の強大国をもった小国の歴史は、多元化された国内勢力の対立の歴史だともいえる。  日本の敗戦後の琉球は、親米派、日本復帰派、独立派の三つにわかれているが、今のところ、これらの対立抗争は、それほど深刻ではない。  那覇の政府立博物館に、「万国津梁の鐘」というのが陳列されている。これは一四五八年(足利義政時代)につくられ、もとは首里城の正面にかかっていたもので、つぎのような銘がついている。 「琉球は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二つの中間にありて湧出する蓬莱島なり」  この美辞麗句の裏に、あるときはシナに傾き、あるときは日本になびかざるをえなかった哀《かな》しい運命がかくされていることを見のがすことはできない。  琉球に初の日本ブームがおこったのは、薩摩の征服後に国政を担当した尚象賢が「日琉同祖論」を唱えてからで、茶の湯、生け花が大いに流行した。おまけに、ときの政府は、一芸一能に秀でたものでないと、どんな名門出身のものでも官吏に採用しないという方針をとった。その�一芸一能�のなかに、茶の湯、生け花もはいっていたというから、これは明らかに薩摩の同化政策から出たものにちがいない。薩摩の風俗を�お国風�といって、これをまねるものも多くなった。そのうちに琉球人も、だんだんと�大和心�になっていったのである。これは敗戦後の日本におこったアメリカ・ブームを思わせる。  だが、ここでも行きすぎの現象があらわれたとみえて、のちには、琉球人で日本名をつけたり、日本式のマゲをゆったり、日本の服装を身につけたりしたものは処罰するという法令が出ている。  そこで、その反動としてこんどはシナに心酔する風潮が出てきた。すると、薩摩が不安を感じて、�お国もと�に疎遠になるものが多く出てきたのは、好ましからざる傾向だといって、警告を発している。  尚象賢のあとをうけて国政を担当した蔡温《さいおん》というのは、著書も多く、琉球の政治家のなかで、もっとも傑出したものの一人だということになっているが、これはシナ系である。かれは薩摩からにらまれないように、細心の注意を払いながら、シナの制度、文物をできるだけとり入れて、琉球のシナ化に大きな役割りを果たした。  蔡温は、ひそかに王にむかって、つぎのようなことをいったといわれている。 「シナのことは、そうむずかしくはございません。よし面倒なことがおきても、どうにかごまかしがつきます。しかし、日本とのことはそうは参りません。一片の紙きれでも、うっかりはできません」  現在の琉球人は、アメリカと日本を比べて、どっちが御《ぎよ》しやすいと思っているであろうか。また日本人自身にしても、アメリカとソ連、もしくは中国のいずれが、むずかしい相手だと考えているだろうか。  とにかく、琉球はこんなふうに、日本とシナのあいだで時計の振り子のように、ついたり、はなれたりしながら、明治まできたのである。  琉球が日本政府と直接正式の交渉をもつようになったのは明治五年のことであるが、それは同時に、その�独立�を名実ともに失うときでもあった。当時の鹿児島県参事|大山綱良《おおやまつなよし》のすすめにしたがって、というよりもその強制に近い形で、琉球はこれまで将軍が就任するごとに、幕府へ出していた慶賀使を朝廷に出すことになった。  正使は伊江王子尚健《いえおうじしようけん》、副使にはシナ派の亀川親方毛允良《きせんおえかたもういんりよう》が任命されることに内定していたが、老齢を口実に辞退したので、かわりに日本派の宜湾親方朝保《ぎわんおえかたちようほ》が選ばれた。  使節一行は随員百人ばかりをつれて東京につくと、国賓のあつかいをうけて、明治天皇に拝顔のうえ、吹上御苑の歌会にも列席する光栄に浴した。そのときの勅題は「水石契久」というのであったが、宜湾はさっそく、   動きなき御代を心の巌が根に    かけて絶えせぬ滝の白糸 と詠じて、なみいる人々を驚嘆させた。もともとかれは薩摩の歌人|八田知紀《はつたとものり》の高弟で、八田も点者としてその席にいたのである。  ところで、明治の新政府では、琉球をどうするかで意見がわかれていた。木戸孝允《きどたかよし》は、今は内治に全力をそそぐときだというので、琉球は当分これまで通りにしておくつもりであったが、薩藩出身で琉球の内情に通じている大久保利通《おおくぼとしみち》は、この機会に断乎�処分�すべきだと主張し、使節のかえりがけに、 「尚泰を琉球藩王となし、華族に列す」 という勅語、すなわち辞令をおしつけて、もたせてかえした。これで尚泰は琉球のさいごの王となった。  [#小見出し]行政機構も日本式に  むかし、シナで�琉球�という場合には、台湾をもふくんでいたという。奄美大島から沖縄を経て台湾にいたる島々を総称して、�琉球�と呼んでいたのだ。  明治四年、琉球人が台湾の南東端に漂着して生蕃に殺されたというので、日本に征台論がおこった。たまたま日清条約批准交換のため、北京に出かけていた副島種臣《そえじまたねおみ》、柳原前光《やなぎわらさきみつ》に、この問題について交渉させたところ、清国側は、「琉球漂民は清国と関係なく、生蕃は化外《かがい》(法律のとどかない)の民だから、わが政府では責任がおえない」 といってハネつけた。これは国内問題で、貴国が口を出すべきことではないといわれたら、日本としてはどうにもならなかったのであるが、相手がこんなふうに出てくれば、こちらの思うツボで、けっきょく、日本から台湾征討軍をくり出して、六十七万円の賠償金をとったのである。  日本でも、前にペリーが那覇の開港を求めたのにたいし、琉球は遠隔の地で、皇威のおよばぬところだと幕府でいったが、それなら琉球を占領しても文句はないかといわれたら、幕府でも困ったにちがいない。当時は辺境の地のことを考えるゆとりがなかったという点で、清国も日本も五十歩、百歩だったのだ。  そこで、明治政府は、台湾征討後、早急に琉球をなんとかしなければならぬということになって、明治八年松田道之を琉球に派遣し、松田は太政大臣三条実美の通達書を持参したが、これにはつぎのようなことが書いてあった。 「その藩の儀、従来隔年、朝貢ととのえ、清国へ使節を派遣し、あるいは清帝即位の節、慶賀使をつかわし候例規これあるおもむきに候えども、自今差止められ候こと」  卑俗なことばでいうと、ダンナを二人もっているのはよくないから、きっぱりと手を切れというのである。かつて島津藩でさかんに利用した福建の「琉球館」も、さっそく廃止させた。そのほかにも、  一、藩内一般、明治の年号を奉ずること  一、鎮台分営をおかせられること といったような指令が、いくつも箇条書になっていて、このさい、いっきょに琉球の日本化を断行しようとする明治政府の意図がはっきりあらわれている。  かくて明治十二年三月、琉球でも廃藩置県がおこなわれ、行政機構もすっかり日本式に改められた。首里城も日本側に明けわたされた。松田の�琉球処分�はこれでいちおう完了したのである。  松田は因幡の生まれで、広瀬淡窓《ひろせたんそう》の門に学んだ。元治元年「禁門の変」の直後、在京の諸藩士をあつめて、苦境におちいった長州を援助する決議をしたことがある。明治になって内務卿大久保利通の下で地租改正を担当してその手腕を認められたのであるが、これがすむと、東京府知事となり、明治十五年に死んだ。日本橋の大火のあとで、都心に防火路線をつくったのは、彼の功績である。  ところで�琉球処分�には、大きな仕事がまだ一つのこっていた。それは旧藩王尚泰の始末である。廃藩置県後まもなく、侍従|富小路敬直《とみのこうじたかなお》が尚泰をつれて上京するために琉球にやってきた。�謝恩として�上京すべしというのだ。  この富小路というのは、文久元年|和宮《かずのみや》降嫁問題がおこったとき、岩倉具視《いわくらともみ》、千種有文《ちぐさありふみ》、久我建通《こがたけみち》らとともに、幕府のためにあっせんして、勤皇派の志士たちから、�佐幕の奸物�としてねらわれた公卿の一人である。  これは琉球人にとって、何よりも大きなショックだった。明らかに人質で、しかも一度東京につれられて行ったがさいご、二度と琉球の土をふむことはあるまいと琉球人は考えた。藩士たちはこれを阻止しようとしてあの手、この手をつかった。  尚泰は心臓をわずらっていて、いま動かすのは危険だというと、それなら医者をつれてきて診察させるといわれて困った。とにかく三か月ばかり待ってもらいたいと願い出た。これが許されないと、では百日、八十日、五十日と小きざみにきざんで行った。  どうしてそういうことをしたのかというと、一日のばしにひきのばしておれば、そのうちにきっと、清国政府から救援の軍艦がくるものと思いこんでいたからだ。  [#小見出し]日本へのレジスタンス  尚泰の側近にあって、琉球王朝のさいごを見とどけた喜舎堺朝賢の『琉球見聞録』によると、 「士族は各学校に集合し、団体を締結して、もって清国の援兵を待つべきことを内命す。これをもって士族ら激昂、奮励し、日本の命令を奉じ、官禄をうくるものは、首をはねて赦すことなし。もしその害にあい義に死するものは、共有金をもって妻子を撫恤《ぶじゆつ》、救助すべきの誓約書を製し、人ごとに連署捺印せしむ」 とある。また宮古島の住民は、 「いかなる事情これありとも、決して大和に随身いたすべからず。もしその向きのものこれある節は、死罪に問い、一門|眷族《けんぞく》のものは所ばらい、欠所に処すべく、ここに血判相誓い候こと、よって件《くだん》のごとし」 としたためた血判宣誓書を首里にとどけてきたという。  宮古島では、この抗日誓約書を裏書きするようなリンチ事件がおこっている。  大勢はすでに日本への帰順に決したというので、島民の一人が、警視派出所の通訳兼使丁として雇われた。これを知った島民たちは、手に手にこん棒、櫂《かい》、木刀などをもってあつまり、口笛、法螺《ほら》などを吹きならし、派出所を包囲して、その使丁を引きわたせとせまった。所内に乱入して、天井裏にかくれている使丁を見つけ出し、頭髪や両手に荒縄をかけて、島内を引きずりまわし、ついにこれを惨殺した。  わたくしが琉球の古老から直接きいたところによると、彼は幼少のころ、日本のつくった小学校にはいらずに、これまで通り塾に通って漢学を学んだ。日本政府の命令で塾が解散させられてからも、シナ風のマゲをつけて小学校に通った。これは日本にたいするせめてものレジスタンスであった。こういった気風が、相当長期にわたって全琉球にみなぎっていたという。  それでいて、旧藩王が、人質のような形で東京につれて行かれるとき、見送りにきた琉球人たちのあいだで、泣いたり、悲しんだりしたものはほとんどなかった。というのは、 「人みな心にいえらく、旧藩王しばらく恥辱をしのび、尊躯を屈せらるれば、清国の援軍、不日にはせきたり、国家を中興すること疑いなしとなり」 というわけで、こういう事態に直面しても、自力による独立を考えないで、どこまでも外国にたよろうとするところ、非力な小国の悲しさというものをしみじみ感じさせる。  たまたま、そのころアメリカの前大統領グラント将軍が、東洋諸国をまわっていて、琉球問題の調停をシナからたのまれた。これで見ても、当時琉球からシナに使者を出して、救援を求めていたことは明らかである。しかし、清国としては、台湾事件のあとで、援軍を送るほど、琉球問題に深入りするつもりはなかったから、グラント将軍にまかせることになったのであろう。  日本側では、つぎのような誓約書をとり出して、グラント将軍に見せた。これは島津斉彬が死んで、その弟の久光が薩摩の政権をにぎったとき、琉球王尚泰は十四歳であったが、閣僚との連署で薩摩に提出したものである。 「このおごそかなる誓書を子孫の果てまで伝え、私が今お誓いしたことを末永く遵守いたさせます。そしてもしかりにも、子孫の誰かが邪念を抱き、法にそむきました場合には、ただちにご報告申しあげ、処罰いたします」  しかし、琉球では、恐らくこれに似たものをシナのほうにも、しばしば提出していたにちがいない。したがって、これは日本の領土権を裏づける証拠資料として、それほどの価値は認められなかったろう。  グラント将軍の意見は、アジアで独立国といえるのは日本と清国だけで、その両国が、琉球のような小さな島のために争うのはよくないというのである。そういった建て前から、彼の出した調停案なるものは、台湾に近い宮古、八重山の二島を清国にゆずって、手うちさせようというのであった。  これで話がまとまって、この妥協案に調印までしたのであるが、日本側は付帯条件をもち出した。それは明治四年に結ばれた清国との修好通商条約を改正し、日本に最恵国待遇を与えることを要求したのである。しかし清国がこれを拒否したので、ついに批准を見るにいたらなかった。これが結果においては、日本にとって有利となった。それというのも、その後日本は急速なテンポで近代化して行ったのに反し、清国はその弱体をバクロして、本土そのものが列強の蚕食《さんしよく》分割の対象となり、国際的な発言権を失ってしまったからである。  現在、中国政府は琉球列島にたいする領土権を主張している。その根拠の一つは、かつてイギリスの宣教師ベッテルハイムを琉球でもてあまし、外国船がくるごとに、この宣教師をどこかへつれて行ってくれとたのんだけれど、相手にされなかったので琉球政府は香港のイギリス政府代表にたいし、広東、広西両省の総督を通じて、「アヘン戦争」後に結ばれた「南京条約」ならびにその補助条約は、中国の属領における宣教師の活動を規定しないという立場を申しいれたというのだ。これで琉球はシナの�属領�だということを立証しようというのであるが、これも琉球から島津久光に出した誓約書と同じで、すでに時効にかかった古証文にすぎない。  琉球人がぜんたいとして日本人意識をもつようになったのは、日清戦争で日本が勝ってからのことだといわれているが、実は日清戦争の直後には、琉球人の多くが日本の勝利を信じなかった。南米やハワイの�勝ち組�のなかに沖縄出身者の多いことは前にのべたが、日清戦争後に沖縄本土にそれが発生したのである。しかもこの�勝ち組�は清国の勝利を信じて疑わなかったのだ。  [#小見出し]日本にたいする忠誠心  わたくしが直接会ってきた琉球の古老の思い出話によると、日清戦争がはじまったとき、琉球人の多くは、清国の勝利を祈願した。戦争が日本の勝利におわってからも、清国の黄色い軍艦が、自分たちを救いにきてくれるものと信じこんでいた。やがて、日本の勝利が確認されても、喜んだのは、県庁の役人と学生と、一部の開化党にすぎなかったという。  これはブラジルの�勝ち組�の場合とまったく同じである。かれらは日本の連合艦隊が近くブラジルにやってきて、日本が新しく占領したニューギニアへ日本移民を送りこんでくれるというので、ニューギニアの土地だとか、軍艦の乗船券とかを売り出すものがあらわれると、争ってこれを手に入れた。粒々辛苦して開発したブラジルの土地や家を売り払い、身のまわり品をもってサントスの港にやってきて、日本の連合艦隊がくるのをきょうかあすかと待ちうけたのである。  当時、ブラジルではまた、朝香宮《あさかのみや》のニセモノがあらわれて、日本の移民たちから献金を求めて歩いたが、これに似た事件が日清戦争後の琉球でも発生している。  その犯人は那覇の某小学校校長で、当時清国最大のヒーローだった李鴻章《りこうしよう》の密使と称し、琉球を救援するという密書を偽造して、琉球政府の役人から、運動資金として莫大な金を詐取したのである。これら二つのケースの背景になっている情勢と、関係者の心理的基盤に、いちじるしい共通点のあることが、これでよくわかる。  この小学校校長というのは、鹿児島県の出身で、琉球人の心理的盲点をよく心得ていたのである。それとともに、当時琉球人のあいだには、こういう詐欺の成功しそうなムードのあったことも、見のがすことはできない。  琉球人のすべてがこのような盲点をもっていたのではない。津波古親方東国興《つわのこおえかたひがしこつこう》というのは、北京に七年も留学し、シナの歴史やシナ人の民族性に精通していて、シナという国は、かつて外藩のために出兵したことがないという事実を指摘し、シナにたよりすぎてはならないと警告したけれど、琉球人はこれに耳をかたむけようとしなかった。  このような心理的状態にあった琉球人が、その後、驚くべき短期間にすっかり日本化するにいたったのは、いったい、どういうわけか。  それはいうまでもなく、明治日本の教育の成功を物語るものだ。また、これを裏うちしたものが、日本の軍事的、経済的、文化的発展のすさまじさということになるであろう。  廃藩置県後、琉球の上層階級は、これまでの特権をとりあげられて困ったのに反し、一般民衆は負担が軽くなって喜んだ。しかし、やがて琉球の経済が、本土からはいってきた商人のためにすっかり押えられる一方、明治三十六年には地租条例が施行されて、生活が苦しくなった。本土なみの自治権が認められて、県会が開設されたのは明治四十三年度で、翌年ここから衆議院議員も選出された。  歴代沖縄県知事のなかには、優越感をもってのぞみ、植民地的暴政をしいたものも少なくなかった。前にのべた奈良原繁がその代表で、今も琉球の民衆から恨まれている。彼は薩摩人だけに、琉球人にたいして頭の切りかえができなかったのであろう。これに反して大いに善政をしいて、今も琉球人からしたわれているのは池田成章《いけだなりあき》である。池田はのちに郷里山形にかえって、両羽銀行の頭取となったが、池田|成彬《なりあきら》はそのむすこ、池田|潔《きよし》は、その孫にあたる。  ところで、古い知事の一人西村捨三は、その著『南島記事』のなかで、つぎのごとく語っている。 「沖縄人は、和人が明人のかつらをかむりたるものにて、このかつらを一つ引きはがせば、精神、肉体、日常風俗、日本外に琉球あるを知らざるなり」  だが、これをシナ側から見れば、 「琉球人は和人のかつらをかむりたる中国人なり」 ということになるかもしれない。それでは、琉球人は果たしてどっちに属するのか。  明治八年、琉球藩王が松田道之に出した請願書には、 「まことに皇国、支那のご恩あげて申しつくしがたく、実にご両国は父母の国と、藩をあげて末々にいたり仰ぎ奉りまかりあり」 となっている。三百年前の『喜安日記』には、 「唐を祖母と思いなし、日本を祖父とせよ」 とあったのであるが、こんどは�父母�とかわったのだ。では、そのあいだに生まれた琉球というこどもは、果たして、�父�なる日本に属するのか、それとも�母�なるシナに属するのか。  これをテストする時期がついにやってきた。それは第二次大戦の末期、アメリカの大軍がこの小さな島に殺到してきたときである。  そのさい、琉球人は老若男女をあげて、驚嘆すべき勇猛心を発揮し、日本にたいして本土人以上の忠誠を示した。  [#小見出し]日本復帰を拒むものも 「むかしよりこの国は、弓矢という名をだにきかず、夢だにも知らざるゆえなり」  これが、琉球に薩摩軍が侵入してきたとき、ほとんど無抵抗で、無条件降伏した理由である。これを書いた喜安《きあん》という坊さんは、前にものべたように、日本人で琉球王に仕えていたものだが、さぞはがゆく思ったことだろう。それから三百年後の明治十二年、琉球に廃藩置県がおこなわれて、日本に吸収合併されたさいも、琉球人はきわめて消極的な抵抗しか示さなかった。  ところが、その後六十六年たって、圧倒的に優勢なアメリカ軍が沖縄に上陸してきたとき、沖縄の民衆は日本軍と完全に一体となり、日本軍以上の勇猛心を出してたたかったのである。この奇跡はどこから生まれたのであろうか。  ひとくちにいって、これは教育の勝利である。半世紀にわたって日本の教育をうけ、日本人に同調し、同化することによって、民族性の上で質的に大変化をおこしたのだとでも、見るほかない。いまさらに教育というものの威力を感じさせる一つの実例といえよう。  ブラジルやハワイで、わたくしの目に映った沖縄人の多くは、日本人以上の日本人である。だが、それは外地における沖縄人のことで、戦争が日本の敗北におわり、アメリカ軍の管理下におかれた沖縄人は、ずいぶんちがった様相を呈している。 「敗戦直後の沖縄人は、むしろ率先して、アメリカの行政に協力したようで、その点(廃藩置県のばあいと)まったくちがっており、それだけ人間が利口になった結果であろうが、とにかくその当時はアメリカの食糧配給で生きていたのだから、アメリカに協力しなければ、餓死するほかはなかったのである。もっとも、アメリカ軍の宣撫工作も、兵隊の親しみやすい開け放しの性格と相まって功を奏したにちがいないが、廃藩置県当時の日本の役人は、ただ威嚇するばかりであったために、琉球人からの信頼とか、親和という気持はまったくなかったようである」 と、琉球政府立博物館長をしていた山里永吉氏が書いている。この気持は、終戦直後の日本人のばあいとほとんどかわりはない。  それにしても、日本にたいして「信頼とか親和という気持はまったくなかった」琉球人が、戦争末期には、日本にたいして驚くべき忠誠心を発揮したのである。なん年かのちには、こんどはアメリカにたいして同じような強さの忠誠心を示すようになるであろうか。現にアメリカやハワイにおける日系の二世、三世はそうなっている。  アメリカの琉球統治の基本をなしているものは�分離政策�である。この列島を日本帝国主義の最大の犠牲に仕立てあげることによって、政治的、経済的、心理的に、日本から引きはなすことである。これは韓国や台湾で、李承晩や蒋介石を通じて、アメリカがおこなった政策と同じ線に沿ったものだ。琉球語の教科書をつくる指令を出したり、琉球の国旗を制定しようとしたのも、そのあらわれである。  琉球人の指導層のあいだにも、この線に沿うた動きを見せたものが少なくない。琉球史の権威で、「日琉同祖論」を言語、風俗などの上から実証する研究を長年にわたってつづけてきた|伊波普猷《いはふゆう》氏は、日本の敗戦とともに、心境に大変化を生じ、「沖縄人連盟」をつくって、第三国人的な動きを見せた。拓殖大学教授で『琉球人名考』『黎明期の海外交通史』などの著者として知られている東恩納寛惇《ひがしおんなかんじゆん》氏は、新しく生まれかわった戦後の沖縄の姿を見て、 「沖縄をだんじて日本にかえすものか」 といったという話もきいた。  その一方で、日本への復帰運動を精力的につづけている人も少なくない。元首里市長で「日本復帰期成会」の会長となった仲吉良光《ちゆうきつよしみつ》氏のように、裏切り者あつかいされて、沖縄を追われたものもある。日本本土においても、率先して日本への復帰をとなえたため、�超国家主義者�のレッテルを付けられて、GHQに告発されたという例もある。  しかし、今のところは、日本復帰派、独立派、親米派のあいだに、バランスが保たれていて、なかよく共存しているようである。アメリカの管理下に、いちおう生活が保障されているからであろう。  この点で、軍事的、経済的にアメリカから見はなされたため、全島をあげて日本復帰運動を展開し、ついにその目的を果たした奄美大島の場合とは、まったくちがっている。奄美大島の日本復帰が実現したさい、さっそくわたくしはこの島を訪ねたが、そのときの印象を卑俗な表現をもってすれば、 「抱いて寝もせず、いとまもくれず」 という状態に長くおかれていたという感じだった。  これに反して、現在の沖縄人の日本にたいする気持は、きわめて複雑である。里子に出されたこどもの実家にたいする劣等感、ヒガミ、抵抗精神に似た面もあるが、そんな単純なものではない。  [#小見出し]形を変えた両属性  琉球の歴史、民族性から現状まで、長々と書いたのはほかでもない。琉球は日本の8ミリ版ともいうべきで、琉球の問題の多くはそのまま日本の問題でもあり、日本民族の姿を鏡にうつして見せられたような面が多々あるからだ。  日本が琉球とちがっている点は、かつて他民族から征服された経験をもたないということである。琉球が薩摩に征服される三世紀以上も前の元寇に、もしも�神風�が吹かなくて、日本本土が蒙古に征服されていたとすれば、日本はいったいどうなっていたであろうか。 �両属性�と呼ばれている二元性が、琉球の基本的性格となっているのに反して、日本は対外的には終始一元性を守ってきた。しかし、これは民族性のちがいというよりは、主として地理的環境と幸運からきたもので、日本国内では、完全に一元化したが、時期はそう長くはなかった。徳川三百年の間、指導層の武士階級は、領主と幕府という二つの権威に、末期にはこれに朝廷が加わって、三つの権威に仕えた。したがって、国内ではつねに多元的な政治がなされてきたのである。  それはさておいて、アメリカの琉球統治が、韓国や台湾と同じように、日本からの分離政策の上にすすめられてきたことは前にのべた。  それだのに、琉球では日本への復帰ムードがもりあがってきたり、その他の点でも、韓国や台湾とはいちじるしくちがった様相を呈しているのはどういうわけか。  第一に、琉球と日本との歴史的、人種的、言語的、文化的つながりが、韓国や台湾に比べて、はるかに深く、強いこと。  第二に、琉球はアメリカの極東戦略の上で欠くことのできない重要な基地として、十億ドルをこえるといわれる施設投資がなされ、近い将来に撤退する可能性がほとんどないこと。  第三に、琉球は面積がせまく、資源が乏しく、独立して一国を形成するに足る条件を欠いていること。  第四に、李承晩や蒋介石のような強力な指導者がいなかったし、アメリカがそれをつくらなかったこと。  以上の理由に基づいて、現在の琉球が、アメリカにガッチリとおさえられている一方、琉球人の気持がアメリカと日本にはさまって、宙ぶらりんの状態におかれているのではあるまいか。その点で、かつての�両属性�が、別な形をとって再現されているのだともいえよう。  今になって考えると、琉球の最大の不幸は、薩摩に征服されたことではなくて、薩摩の琉球支配が、中途半端な形で三百年近くもつづけられたところに発していると見られないこともない。琉球が名実ともに薩摩領になっていたならば、琉球人は完全に日本化していたはずだ。それだのに薩摩は、琉球を密輸の窓口として利用することしか考えなかった。そのため薩摩は琉球の�両属性�を、黙認したばかりでなく、これを温存した。そしてそのままの形で明治政府に引きわたしたのである。  現在、日本への復帰をのぞんでいる沖縄人は、だいたい、つぎの三種類にわけることができるという。  一、日本が好きで、乞食になっても日本に復帰したいというもの  二、普通の日本人とはちがうという劣等感から一日も早くぬけ出したいと思っているもの  三、経済的理由からくるもの  つまり日本に復帰すれば、給与ベースが日本なみに引きあげられるし、年金、恩給、健康保険などの恩恵にも浴することができるというわけだ。こういった動きの中心になっているのが琉球の教員組合である。  現に八丈島、青島などの離島では、生活費が比較的安く、給与は東京都の職員なみになっているから、教員や吏員は、島内では一種の特権階級を形成している。  これに反して、琉球の経済人は、ほとんど日本への復帰をのぞんではいない。強力な日本経済の侵入を防いでいる壁が撤去されたならば、資本、技術、市場などの上で比べものにならない琉球企業の大部分は、これと太刀《たち》うちができないからである。そのため、アメリカも琉球政府も、ずいぶん無理をして�民族資本�育成の政策をとっている。  行政機構においても、本土人は完全にしめ出され、本土の官僚が琉球に出かけて行って�指導�することも禁じられている。つまり、琉球人は日本人になれるが、日本人は琉球人になれないということだ。かつて薩摩が琉球にたいしてとった政策が、こんどは逆に琉球側からうち出されていることになる。  日琉関係を象徴する人物を求めるならば、それは徳田球一であろう。彼の父も母も、鹿児島の商人と琉球の遊女のあいだにできたこどもで、球一が修学のため鹿児島に出て両親の縁者をたずねたとき、ひどい差別待遇をうけた。それが日本では珍しい筋金入りの反逆児徳田球一をつくったのだといわれている。 [#改ページ] [#中見出し]近代日本の百年戦争   ——開戦と終結のうけとり方でちがう百年戦争の歴史的意義——  [#小見出し]出張手当ての最高記録  琉球で、わたくしの筆は、道くさを食いすぎたが、遣米使節の一行は、日米条約批准交換の大任を果たし、九月二十八日、かれこれ十か月ぶりで日本にかえりついた。総里程は二万九千八百三十六海里である。 「東をさして地球一周すれば一日を増し、西をさして一周すれば一日を減ずとききしが、今日御国にかえりてきけば二十七日なり。されば一歳のうちに一日をえしは、一生のとくなり」 と村垣副使は日記に書いている。品川沖に停泊したのは午後三時ごろで、さっそく家からとどけられた日本食にありついた。 「いずれも美味なり。病後の渇のごとし」  その晩は船中で語りあかし、翌朝、「ナイアガラ号」の軍楽隊に送られて上陸、それぞれ家路についた。  アメリカ大統領の返書と条約批准書は、正使|新見正興《しんみまさおき》の家にもちこまれ、その晩は不寝番をつけて保管し、翌日江戸城に運ばれた。  そのあと、正興をはじめ、村垣範正《むらがきのりまさ》、小栗忠順《おぐりただまさ》の三人がそろって登城、老中|安藤信行《あんどうのぶゆき》(のちに信正)その他の閣老の前で、旅行中のできごと、アメリカの国情などを報告、将軍|家茂《いえもち》にもお目通りした。そして特別賞与として、現金や時服のほか、正興と範正は三百石、忠順には二百石の加増を賜わった。いまの金にして一石一万円としても、相当な額だし、それが一生涯もらえるとなると、出張手当てとしては、一つの記録ではなかろうか。  だが、その後、日本をめぐる内外の情勢が急転回し、七年後には幕府が倒れた。その前、万延から文久にかけて、テロ時代を現出し、佐幕派や外人のなかから、多くの犠牲者を出したことは前にのべたが、文久二年八月の「生麦事件」がキッカケとなって面倒な国際関係をひきおこし、ちょっとした�戦争�にまで発展した。�薩英戦争�とか、�馬関戦争�とか呼ばれているものがそれだ。これを「大東亜戦争」の緒戦と見る新説が、近ごろあらわれた。 『大東亜戦争肯定論』という論文のなかで、林房雄氏は、こんどの戦争は�百年戦争�ともいうべきもので、明治以前からはじまっているという意見をのべている。 �百年戦争説�そのものは、戦時中すでに一部軍人のあいだで唱えられていたことで、別に珍しい説ではない。日本の敗色が濃くなったとき、というよりも、決定的な勝利を得る見こみがなくなったとき、前線の将兵や銃後の国民を勇気づけるために、こういう説が唱え出されたものらしい。  戦後においても、わたくしはブラジルで同じような説をきいた。前にのべた�勝ち組�から招待をうけて、日系移民のあいだを講演して歩いていた日本の政治家が、 「日本は負けたのか、勝ったのか、ほんとうのことを知らせてください」 と問いつめられて、つぎのように答えたという。 「見方によっては、日本は勝ったともいえるし、負けたともいえる。こんどの戦争は�百年戦争�で、まだつづいているのだ。戦局が日本にとって有利なときもあれば、不利なときもある。そんなことで、いちいち心配したり、気をおとしたりしないがよい」  こんなことをいって、この政治家は、日本が負けたという�評判�をきいて夜もおちおち眠れないという善良な日系移民たちから、しこたま選挙費をかきあつめてかえったのである。  ところで、林氏の�百年戦争説�によると、この戦争は昭和二十年(一九四五年)八月十五日、日本の敗戦でおわったことをはっきりと認めている。これに反して他の�百年戦争説�は、昭和十六年(一九四一年)十二月八日にはじまった戦争が、まだおわっていないという建て前である。つまり、頭としっぽがちがっているのだ。  それでは、林氏のいう�百年戦争�なるものはいつはじまったのかというと、「�東漸する西力�に対する日本の反撃が開始された」ときで、だいたい弘化年間(一八四四—七年)となっている。おそらくこれは終戦の年の一九四五年から逆算したもので、�百年�という数字にとらわれすぎているきらいがある。  戦争準備期や冷戦時代まで戦争のなかにくり入れることになれば、くぎりがつかなくなる。どこかで軍事行動がはじまらないうちは、戦争とはいいにくい。逆に日華事変、朝鮮事変などのように、はげしい軍事行動がつづいているのに、宣戦布告がないために正式の戦争と認められない場合もあるが、一般的にいうと、戦争と軍事行動は切りはなせないものである。  そこで、仮に林氏のいう�百年戦争�が明治以前にはじまっていたとすれば、文久三年(一八六三年)七月、イギリス艦隊が薩摩を攻撃し、島津藩でもさっそく応戦しているから、このへんを�開戦�期と見るべきではなかろうか。また、「文久三年五月十日を期して攘夷を断行すべし」という詔勅は、一種の宣戦布告と見られないこともない。  これでは昭和二十年まで八十二年しかないから、�百年戦争�というには年数が少々足りないけれど、これくらいは大目に見ていいだろう。  [#小見出し]追いつめられて戦いへ  ところで、林房雄氏の『大東亜戦争肯定論』の�肯定�とはどういう意味か。この戦争の動機、目的、過程、結果のすべてを�肯定�するというのであろうか。それともその歴史的意義だけを認めるのであろうか。  かつてわたくしが、軍部の消息に精通しているといわれた人からきいたところによると、元軍務局長で戦後に戦犯として処刑された武藤章は、この戦争についてつぎのように語ったという。 「この戦争に勝算のないことははじめからわかっていた。しかし、このままで行くと、日本はだんだんと追いつめられて、もとの三等国にかえるほかはない。またこの戦争に負けてほろびてしまうような民族なら、ほろびるほかないが、この敗戦によって発奮し、奮起するということになれば、この戦争は有意義だったということになる」  こういう考えをいだいている人が、いまの日本に相当たくさんいるのではなかろうか。  日本は負けたが、その後アジアにはたくさんな独立国ができた。母親は健康をそこね、容色もおとろえたけれど、大勢のこどもがすこやかに育っているようなものだというわけだ。極東裁判におけるインドのパール博士の日本弁護論でも、これに似たようなことがいわれた。  また、こういう考えかたもある。敗戦というのは、家でいうと破産したようなものである。しかし、親が道楽もので、借金ばかりをのこして死んだあとには、かえって優秀なむすこが出て、家をもと以上に再興させる場合が多い。第二次大戦後におけるドイツ、イタリア、日本などの復興ぶりは、これに通じるものがある。  林氏の�肯定�論は、こういった要素もふくまれてはいるが、これらとちがった面もある。もともとこの戦争は、今から百年前に、�東漸する西力�からしかけられたもので、日本がこれに抵抗をつづけているうちに、日清、日露、日独、日華の諸戦争を経て、ついに「大東亜戦争」となり、けっきょく敗戦によって終結したが、世界的見地からいうと、決して無意義ではなかったということらしい。  いずれにしても日本ははじめからこういう計画のもとに進んできたわけではないから、これまた一種の結果論であることにかわりはない。むろん、幕末日本の指導者たちには、百年後はおろか、五年後のこともよくわからなかった。「大東亜戦争」にしても、戦後のアジアに多くの独立国が生まれたり、敗戦後二十年とたたないうちに、日本の首相が�大国論�をふりまわしても、そうおかしくないくらい日本が復興することまで、ちゃんとよみとって、真珠湾に攻撃を加えたわけではあるまい。  しかし、これだけ大きな犠牲を払った「大東亜戦争」を何らかの形で�肯定�したい気持が、現在多くの日本人の胸に芽ばえてきていることはうなずける。だからといって、さんざん道楽をして家を破産させ、家族を苦しめたほうが、こどもの教育上有意義であるということにはならない。  [#小見出し]世にも奇妙な戦争  ところで、�薩英戦争�というのは、世にも奇妙な戦争であった。「生麦事件」当時の薩摩藩は、攘夷論でわき立っていたように想像されるが、実はその二か月前に薩摩藩は、琉球を通じて手に入れた�唐物《とうぶつ》�を日本国内で売る許可を幕府に願い出ている。名目は�琉球援助�ということになっているが、実はこれで薩摩藩が大いにもうけようというのである。また輸入物資の�唐物�には、欧米品がふくまれていることはいうまでもない。幕府はこの願いを拒否したが、それから一か月後には、薩摩の代理人が、横浜のジャーディン・マディソン商会を訪れて、外人と直接取り引きをしたいという意思表示をしている。  それでも、「生麦事件」後は、英艦の来襲を予想し、海岸の防備を固めるとともに、藩主の家族や重要品はすべて安全地帯へ疎開させた。  イギリスの艦隊が鹿児島湾についたのは文久三年六月二十七日で、外交交渉が決裂して、交戦状態にはいったのは七月二日であるが、その日はちょうど鹿児島の諏訪神社の祭礼で、太鼓踊りがはじまっていた。この太鼓の音を開戦命令とまちがってはならぬという命令が出ていたほど、のんきなものであった。  それよりも奇怪なのは、当時薩摩藩の船奉行の地位にあった五代才助とその同僚松木弘安(のちの寺島宗則)の動きである。砲撃のはじまる前に、薩摩藩の船三隻が、英軍に見つかって焼かれてしまったのであるが、当時旗艦にのっていたイギリス士官の書いたものによると、五代と松木は、少しも抵抗せず、進んで捕虜となり、英艦にのせてもらって、神奈川まで行って釈放された。  五代は、前に高杉晋作らと上海に行っているし、松木は前の年の文久二年に訪欧使節の�翻訳方御雇�としてヨーロッパに行って、帰国したばかりである。二人とも外国事情にはよく通じていたので、はじめから英国を相手に戦争する意思はなく、捕虜を志願して、艦内で�取り引き�をしたにちがいない。  ある種の薩摩人に見られる、こういった多元的な性格は、多年にわたる琉球との接触によってつちかわれたものではあるまいか。  個人の場合でも、ケンカのあとで、その相手と親しくなるというのは、めずらしいことではない。国家や民族においても、その点にかわりはないのであるが、とくに日本の場合は、戦争して負かした相手とは、あまり親しくならないけれど、自分のほうで負けた相手とは、あきれるほど親善関係を結ぶことが多い。「大東亜戦争」直後の日米関係など、そのいい例である。 �大東亜戦争�にまでつづいている�百年戦争�の緒戦ともいうべき�薩英戦争�においても、やはりそうであった。戦争がおわるとすぐ、まだ�攘夷�を叫んだ舌の根もかわかぬうちに、薩摩はイギリスと完全に手をにぎりあった。その姿は、はじめからこの戦争は、八百長でおこなったのではないかと思われるくらいであった。少なくとも、結果においてはそうであった。薩摩人のなかでも、海外事情に通じていた五代や松木が、自ら進んで英軍の捕虜になったところを見ると、この戦争の結果をちゃんと見ぬいていたにちがいない。  英艦隊司令官のクーパー提督は、イギリスのシナ派遣艦隊司令官として、「長髪賊」の攻撃で活躍したのち、日本へまわってきたのであるが、イギリス代理公使のニールとあまりうまくいってなかった。ニールは陸軍出の外交官で、オールコック公使の賜暇帰国中、代理をつとめていたのであるが、軍事に口を出しすぎるきらいがあった。  薩摩側は、陸地で交渉に応じることにして、クーパーとニールを上陸させ、これを捕虜にするという計画を立てていたが、相手はこれにのってこなかった。つぎに、「生麦事件」の責任者である奈良原喜左衛門、海江田|信義《のぶよし》を中心に決死隊を編成し、商人にバケて英艦に突入し、幹部将校を倒して全艦を無傷でぶんどろうとしたが、これも成功しなかった。  しかし、英艦隊は日本の大砲をナメてかかり、台場近くに接近し、薩摩側の待ちかまえていた射程距離にはいったため、予想外の損害をこうむった。「パーシュス号」のごときは、あわてて錨《いかり》をきって逃げ出すという醜態を見せたし、「レースホース号」は、浅瀬にのりあげて、動けなくなり、僚艦に救いを求めねばならなかった。  けっきょく、英軍の損害は、死者十三名、負傷者五十名以上をこえたのに反し、薩摩側は死者五名、負傷者十余名にすぎなかった。しかも英軍の死傷者の大半は、旗艦「ユライヤラス号」の乗組員で、とくに艦長ジョスリング大佐、副長ウィルモット少佐を失ったことは、大きな痛手だった。  旗艦がこのような大打撃をうけたのも、「生麦事件」でイギリスが幕府からとりあげた十万ポンドの賠償金が弾薬庫の前につみあげてあって、これを片づけるのに手間どり、発砲がおくれたからである。  いずれにしても、一時は相当の激戦だった。『薩摩海軍史』によると、英艦はマストに白旗をかかげて、陸上砲台に休戦を求めたのであるが、薩摩側には、「万国海戦信号」に通じたものがなく、白旗の意味がわからなかったということになっている。  英軍がじゅうぶんに実力を発揮することができなかったのも、当日午後から天候が悪化してきたためである。すると、この戦争でも�神風�が吹いたことになる。  英軍としては、まず艦砲射撃によって薩摩の各砲台を沈黙させ、完全に戦意を失わしめた上で、陸戦隊を上陸させる、そして鹿児島市内を占領下において、談判を開始する、シナなどでつかって成功した手を日本でもつかうつもりであったが、注文通りにいかなかったのである。かりに薩摩軍が敗れたように見せかけて、あるいは実際負けて、英軍の上陸を許したとしても、陸上戦ともなれば、薩軍のほうが断然強く、英軍幹部は全滅、もしくは捕虜になっていたかもしれない。英軍内では、ニールがクーパーに、兵を上陸させて、�戦勝記念�に大砲を二、三門とってこさせよと強く主張したのにたいし、クーパーは極力反対して、一兵の上陸をも許さなかったと、通訳のアーネスト・サトウは書いている。シナ軍とちがって日本軍は手ごわいということを、クーパーはよく知っていたからであろう。  この戦争で、英軍のあげた戦果といえば、火箭《ひや》をとばして、鹿児島市内の一部を焼いたこともあるが、それよりは、アームストロング砲の威力を薩軍将兵にはっきりと認識させたことである。この新式の大砲は、すでにシナの戦争で用いられ、その実物は、五代才助も、長州の高杉晋作らとともに、前の年の四月、上海に行って見てきたものだが、海戦に用いたのは、英軍としても、これがはじめてであった。この大砲は回転式になっているから命中率が高く、長尖形砲弾の破壊力が大きかった。射程も、薩軍の大砲が一キロ以内だったのに対し、アームストロング砲は四キロをこえていた。  武器の精度という形であらわれた文化的落差を精神力で埋めることのむずかしさを悟ったことが、薩藩に百八十度の転向をもたらしたともいえよう。  [#小見出し]攘夷の不可能を知る �薩英戦争�のもう一つの奇妙な点は、勝敗がはっきりしなかったことである。どっちも心のなかでは、「やられた」という気持が強かった。というのは、自軍のうけた損害で相手の強さを知ることはできたが、相手に与えた打撃はよくわからなかったからだ。  英軍のほうでは、これほどの抵抗を予期していなかったので、石炭、糧食、弾薬が足りなくなり、七月四日には鹿児島を出て横浜へ引きあげた。その前に、ジョスリング大佐以下の戦死者を水葬にしたところ、その死体が軍服をつけたままで海岸に流れついた。これを見て、薩摩側は敵側に相当大物の犠牲者が出ていることを知ったのである。  この戦争で興味のある点は、薩軍で水雷を敷設《ふせつ》していたことである。これは安政年間に前藩主斉彬が藩士|宇宿彦《うじゆくひこ》右|衛門《えもん》に試作させたもので、大きさは幅三尺、高さ六尺、一寸五分のマツの板を用い、三百|斤《きん》の火薬が装填《そうてん》されていた。英艦が侵入してくるというので、大急ぎで三個敷設したのだが、敵艦がそのコースにはいってこなかったので功を奏さなかったけれど、日本の海戦で敷設水雷をつかったのは、これがはじめてである。  宇宿は薩藩における兵器産業の創始者で、汽船製造、反射炉、地雷、電信、写真術などに先鞭《せんべん》をつけた。そして新しい船ができると、処女航海はいつも自分で運転したが、この年の十二月、幕府から借り入れた「長崎丸」を大阪に回航中、馬関海峡で長藩の砲撃をうけ、船と運命をともにした。  また温泉地として知られている指宿《いぶすき》に在勤して、英艦の動静を見張っていたのは、元帥東郷平八郎の父吉左衛門で、英艦は夜にまぎれて姿を消してしまったという報告を郡奉行に出している。  ところで、この戦争にたいして、幕府がどういう態度をとっていたかというに、はじめはなんとかこれを阻止しようとして骨折ったことは事実である。しかしそれも、また面倒なことがおこって、そのしりぬぐいをさせられてはたまらんという、ことなかれ主義から出たもので、内心では、薩摩が英軍にこっぴどくたたかれることを希望する面もあった。  福地源一郎の『懐往事談』では、この間の消息をつぎのように伝えている。 「鹿児島が英艦のために砲撃せられて、砲台を破られたりという報の達したりしときには、幕吏の多数は、これを憂えはせで、かえって喜びの色をなせりといえり」  それはさておいて、英艦が退くと、薩藩では、高崎正風を特使として京都に派遣し、この戦争のてんまつを奏上した。すると、朝廷からはつぎのようなおほめのことばをたまわった。 「去る二日、英船渡来のところ、砲発血戦におよび候おもむき、叡聞に達し候。布告の御趣意を奉じ、二念なく攘斥候段、叡感ななめならず候。いよいよ勉励これあり、皇国の武威を海外に輝かすべきようごさた候こと」  実はこの戦争で、薩藩では�攘夷�が不可能であり、また不利でもあることをはっきりと悟ったのである。そこで、さっそくイギリスを相手に和平交渉にとりかかったのであるが、その第一回会談で、薩摩の代表から、 「薩摩も貿易の利益にあずかる権利がある。薩摩侯は、はじめから戦争には反対であった」 という声明を出しているのだ。  一方、イギリス側でも、もともとこの戦争は、攘夷派の大名をおどかすつもりではじめたのだから、いちおうその目的を果たした以上、これをつづける意思はなかった。  したがって、薩英間の交渉は、きわめて友好的な話し合いのうちにすすんで、十一月一日には正式に講和が成立した。その条件としては、「生麦事件」の犯人の処罰、償金の支払いなどというイギリスの要求を薩摩でのんだという形になっているけれど、それはイギリスのメンツを立てたにすぎない。イギリスのほうでも、薩摩で軍艦を購入するのにいろいろの便宜をはかることになった。それにはイギリスの�捕虜�となった五代や松木が、大いに活躍したことはいうまでもない。  当時のイギリス外相ジョン・ラッセルは、有名なイギリスの哲学者で日本にもきたことのあるバートランド・ラッセルの祖父にあたる。ジョン・ラッセルは、貴族出身で典型的な自由主義者であったが、ニールやクーパーのとった措置にたいしては、 「女皇陛下(ビクトリア)には、陛下の艦隊の勇敢なる行動をよみしたまうであろう」 といって、これを称賛している。  バートランド・ラッセルは、�薩英戦争�から九年後に生まれたが、徹底した平和主義者で、第一次大戦に反対してケンブリッジ大学の教職を追われた。近いところでは、九十歳の高齢で核実験反対のデモに参加して検束され、世界的な話題となった。  [#小見出し]百年戦争の火ぶた  戦後にできた�平和憲法�は、アメリカから�おしつけられた�ということになっているが、安政年間に結ばれた修好通商条約は、幕府がアメリカの圧力に屈して、やむをえず結んだものである。  ところが、その後、幕府首脳部のあいだで、外国の情勢がだんだんとわかってくるにつれて、この条約の意義を認めるようになり、あくまでこれに反対する朝廷や攘夷派にたいして、この条約を弁護する立場に立った。  しかし、和宮《かずのみや》降嫁の条件として、朝廷から�攘夷断行�をおしつけられ、これをうけた以上、幕府としては、横浜鎖港を唱えたり、生糸の輸出に制限を加えたりして、歴史を逆転させるような政策をとらざるをえなくなった。  これで困ったのは、日本の生糸仲買い人である。横浜の外国商館から資金を借り出して生糸を買いあさり、こっそりと横浜へ送りつけたのであるが、この密貿易にひと役買ったのが薩摩藩である。幕府の監視網をくぐるのに、�丸に十の宇�の紋章が、古い実績と権威と実力をもっているからだ。  かくして、�薩英戦争�の結果、幕府と薩藩の立場が逆転し、安政の条約を守るのが薩藩で、これを破るのが幕府だという形になった。これによって薩摩は自藩の強化をはかったのであるが、イギリスがこれを利用し、裏からあおり立てて、全面的な開国にもっていこうとしたことはいうまでもない。幕府にたいする薩英のアベック闘争は、このころすでにはじまっていたのである。  したがって、かつての攘夷論者を中心にして成立した明治の新政府が、幕府から政権を奪取すると同時に、手のひらをかえすように百八十度の転換をおこない、思いきった開国政策をとったのは、別にふしぎでもなんでもない。この転向はずっと前からなされていたのである。この場合は、転向というよりは、前にものべた薩摩の伝統的な二重性格のあらわれといったほうが正しい。  これに反して長州のほうは、尊皇、攘夷、討幕の正統派、本家本元をもって任じている。少なくとも、長藩の青年層は、そのつもりでいた。  それが「生麦事件」で、薩藩が横からとび出して攘夷の先鞭をつけたような形となった。長藩としてはくやしくてたまらず、チャンスをねらっていた。  そうなると、薩摩よりは長州のほうが地の利をえている。藩主の行列を横切ろうとした外人を切って�薩英戦争�のキッカケとなった生麦が、江戸の玄関先だとすれば、下関は日本の入り口である。瀬戸内海はヨーロッパでいうと地中海に相当するから、下関はさしあたり、ジブラルタル海峡ということにもなる。これをにぎっている長州は、攘夷をしようと思えばいつでもできる。  薩摩は本来開国派で、外国と戦争などしたくなかったのであるが、一部の激徒にひきずられ、つい深入りするようなハメにおちいったにすぎない。  そのころ、長崎に出張していた薩摩藩士の中原猶介《なかはらゆうすけ》は、藩への書信のなかで、久光が一日も早く上京して攘夷派をおさえてもらわないと困るといって、つぎのようにのべている。 「ヌカ公卿、畑水練の攘夷論家をおさえつけ候人は、(久光の)ほかにこれなしと、当地にても心あるものども、歎息仕りおり候」 �ヌカ公卿�とか�畑水練の攘夷�とかいうことばをつかって、国際情勢や、日本のおかれた地位、実力を知らずに、いきり立っている排外主義者をやっつけているが、これはかつての日教組や全学連にたいする保守党幹部の考えかたに通じるものがある。当時すでに長崎や横浜では、これが常識のようになっていたのであろう。  中原は島津斉彬の側近で、つとに蘭学に通じ、薩藩兵備の近代化につとめたが、維新の戦争に参加、越後に攻めこんで戦死した。こういう人物が、薩藩にはほかにもたくさんいたのである。  したがって、�大東亜戦争�で終結した近代日本の�百年戦争�の口火をきったのは、薩摩よりはむしろ長州だということになる。英仏米蘭の連合艦隊が下関を攻撃したのは元治元年(一八六四年)の八月五日で、�薩英戦争�から一年後のことであるが、長州が詔勅に基づいて、たまたま通りかかったアメリカ船「ペンブローク号」に大砲をうちこんだのは文久三年五月十日で、�薩英戦争�より約二か月早い。しかもこちらから、戦争をしかけたという点で、�百年戦争�の真珠湾攻撃と見られないこともない。  [#小見出し]馬関戦争の傑作・木製砲 �馬関戦争�の名物は、長軍のつかった木製砲である。  長藩では、攘夷にそなえて、寺のつり鐘はもちろん、仏像までつぶして大砲をつくった。のちには火バチ、ナベ、カマまで供出させた。�大東亜戦争�の末期とまったく同じである。こんなことをしても、そう大して資材がえられるわけではないが、軍首脳部のなかには、このときのことを思い出し、一つは�国家総動員�という意識を徹底させるための精神運動の一環として、こういう手をうったのかもしれない。  この戦争のはじまる文久三年五月、長藩の手もち砲はたった二十数門であったのが、それから一年ばかりのあいだに、百五十門近くにふえている。いかに死にもの狂いで、大砲の製造を急いだかがわかる。その工場は萩の沖原にあって、ここでは小銃もつくっていた。  大砲の材料は、唐金《からかね》すなわち青銅である。古くから日本では、鉄よりも銅のほうが多く出るし、鋳造も比較的容易だったからだ。  それでも、銅材が足りなくなって、思いついたのが、木製砲である。といっても、これは長藩の発明でもなんでもない。  もともと砲弾というのは、花火の一種みたいなもので、敵を殺傷するよりは、爆音と焼夷力によって、敵陣を攪乱することが主たる目的であった。それもはじめは、手投弾のように手で投げたもので、シナではこれを�火毬�とか�火妖�とかいった。つまり、火砲よりは火薬入りの弾丸、すなわち�火弾�のほうが先につくられたのである。  日本では、弘安の役のときに、元軍がつかったのが最初で、この�火弾�のことを�鉄砲�といった。『太平記』にも、 「太鼓をうって進んできて、両軍が接近したとき、鉄砲といって、マリのような弾丸が、坂をくだる車のような勢いでほとばしり、電光のような光を放つものを一度に二、三千も投げつけた」 と書いている。  硝石を主たる原料とする火薬が、シナ、またはインドで発明されたことは、これを西欧に伝えたアラビア人のあいだで、硝石のことを�シナの雪�または�インドの雪�と呼んでいるのを見てもわかる。この強力なエネルギー源を、はじめは弾丸に用い、のちにこれを発射する装置に用いた。そこから火砲が生まれた。火砲も、西欧よりはインドやシナで先に発達した。  初期の火砲は、花火の筒と同じように木製であった。一三四三年にイタリアの詩人が書いたもののなかに、 「火砲は木製にして、爆音と光を発し、金属性の弾丸をうち出せり」 と書かれている。  火砲がはじめて日本にはいったのは一五七七年で、ポルトガルの商人が豊後の大名|大友宗麟《おおともそうりん》に二門おくったところ、その威力に驚嘆し、�国くずし�と名づけて大いに珍重したという。  しかし、それより約二十年前の永禄年間に、河野通直《こうのみちなお》が大友義鑑《おおともよしかね》と結んで毛利勢を攻撃したとき、急に火砲が必要になって、マツの生木をくりぬいて砲身をつくったところ、はじめは失敗したけれど、そのあと、オケのタガのように鉄輪をはめることによって成功したという記録がのこっている。  織田信長《おだのぶなが》は、国友という江州の刀鍛冶に命じて、火砲二門をつくらせた。これが日本人の手になった最初の火砲である。  木製砲といえば、日露戦争のさいにも、日本軍で木製の迫撃砲みたいなものをつくって、相当の戦果をあげている。急ごしらえの間にあわせものだが、これが本式の迫撃砲の製作をうながした。 �馬関戦争�でも木製砲をもち出しているが、これについて英軍の通訳官アーネスト・サトウはつぎのように書いている。 「長さ約四フィート、砲径約八インチ、丸太をくりぬいたもので、根もとに一ポンド半くらいの火薬のはいる薬室がついている。砲身は砲尾から砲口へかけて竹のタガをまきつけ、その上をさらに板でまいているが、砲身になっている木の厚みは、たった三インチ半程度である。弾丸といっても、小石をつめた小さな袋を木製の円盤にくくりつけたもので、敵が上陸してきたときに、至近距離でこれを発射し、ブドー弾のような役目をさせようというわけだ。この奇妙な武器が、むぞうさに土塁の上においてあったが、一回以上使用に耐えるとは思えないシロモノである」  この長藩の木製砲は、火砲とともに、連合艦隊にとっては絶好の戦利品となった。昭和三年、パリのアンバリードにあるナポレオンの墓にお参りにいった文部省史料編纂官|大塚武松《おおつかたけまつ》は、そこに陳列されている火砲の一つに、毛利家の定紋と、 「嘉永七甲寅年九月於江戸葛飾邸鋳」 という銘がはいっているのを見て、感慨無量、去るに忍びなかったと書いている。  [#小見出し]軍艦の第一号完成   来て見れば聞くよりひくし不二の山        釈迦も孔子もかくやあるらん  この有名な歌は、それまで日本の知識人のあいだに深く根をおろしていた外国崇拝にたいする抵抗を示したものだということになっているが、もっと広い意味に解して、このなかには近代的なアイコノクラズム(偶像破壊)の精神がもられているといえないこともない。  この歌の作者はあまり知られていないが、実は長州の村田清風で、徳富蘇峰にいわせると、�吉田松陰の精神的父�にあたる人物である。横井小楠も、諸国をまわって歩いているうちに村田に会い、ほんとに偉いと思われる人物はこの男だけだといって、舌をまいたという。  村田は藩主|毛利斉房《もうりなりふさ》から敬親《たかちか》まで、五代、五十年間にわたって仕えたというから、まさに長藩の武内《たけのうち》宿禰《すくね》である。彼は自宅に「文武講習所」をもうけて、多くの人材を養成したが、洋風戦術を加味した�銃陣�は、彼の創案した陣形である。これは大砲を中心として、左右に小銃隊、そのうしろに剣槍隊をおき、まず大砲で遠くの敵を破り、近よってくれば、小銃で一斉射撃を加え、敵陣がくずれ出したところへ、剣槍隊が突撃するという仕組みである。  しかし、そのころの大砲は、大八車にのせてひいて歩き、小銃の発射には火ナワをつかっていて、雨のふる日は戦争ができなかったというから、こういう陣形を考えても、なかなか注文通りにはいかなかったろう。  海戦には�大砲小早�という方式をとった。これは小さくてスピードの出る船に大砲をのせ、敵船に近接してうとうというのだが、あまり大きな砲はのせられない。たまたまロシア艦が伊豆で津波にあって大破したのを再建するときに手伝った船大工をつれてきて、長州の小畑で、はじめてスクーナー型の洋式船をつくった。甲板に大砲をつんで発射できるようになっていたから、�軍艦�のハシリである。これが「丙辰丸《へいしんまる》」で、つづいて「庚申丸《こうしんまる》」「壬戌丸《じんじゆつまる》」「癸亥丸《きがいまる》」などができた。  さて、�攘夷断行�ということになって、最初に不意うちをくったアメリカの商船「ペンブローク号」は、あわてて逃げ出すし、つぎにやってきたフランスの軍艦「キンシャン号」も、どうしてうたれたのかわからず、これまたほうほうのていで退散した。三番目にきたオランダの軍艦「メデューサ号」とは、一時間ばかり交戦したが、どちらも大した損害はなかった。  これまでは、長藩が�大勝�を博したつもりで、大いに気をよくしていたが、四番目に米艦「ワイオミング号」を迎えて、相当の激戦となり、長藩はトラの子の「庚申丸」「壬戌丸」を沈められた。  このたたかいで、長州側の気がついたことは、砲台の位置が高すぎて、そのすぐ下に敵艦がせまってきたときには、砲弾がその上を通りこして、一つも命中しないということである。それどころか、この時代の大砲は、さきごめで、砲口から砲弾を入れ、ワラでセンをしたりしたものであるが、射角が低すぎる場合には、発射する前に砲弾がころがり出て、その前にあった民家の屋根にあたり、大穴をあけたこともあった。そこで、大砲をうつのはあきらめ、あわてて小銃から弓までもち出して、たたかったという。  それより興味のあることは、この米艦「ワイオミング号」に、三人の日本人がのりこんでいたことである。一人は太平洋で漂流中アメリカ船に救われ、アメリカの教育をうけて、日系アメリカ市民第一号となった浜田彦蔵で、米軍の通訳をつとめ、ほかに水先案内として、房州小湊村の庄蔵と讃州栗島の安蔵がのっていた。  当時、アメリカは「南北戦争」の最中で、北軍に属する「ワイオミング号」は、南軍の「アラバマ号」をつかまえるため、東洋へやってきたのであるが、「ペンブローク号」が襲撃されたというので、その報復のため、下関へ派遣されたのである。  彦蔵の『回想記』によると、「ワイオミング号」では、大砲をひっこめ、防水帆布をかぶせ、商船のように見せかけて、下関海峡に近づいて行ったが、いよいよ戦闘開始ということになったとき、「艦内では全員興奮にわきたった。なかには、まっさおになっているのもいた。それもそのはず、肉弾あいうつ白兵戦なくして敵船をとらえるのは、容易なわざではない。それに、きくところによると、乗組員の多くは、まだ実戦の経験はなかったのだ」  いずれにしても、これは日本人が外国の軍隊に加わって、祖国日本を相手にたたかった実例としては、もっとも早いもので、第二次大戦における日系二世部隊の先駆といえよう。彦蔵は長軍のことを平気で�敵�と書いている。もっとも、この時代の日本では、�国�といえば主として藩のことで、強い民族意識が広く深く浸透していなかったのだ。  [#小見出し]外敵はいずれも下関海峡へ  日本が強力な外敵の侵入をうけたのは、元寇以来二度目で、この間約六百年をへだてている。当時、この蒙古襲来を�異国合戦�ともいった。  この前、西暦四世紀後半には神功皇后の「三韓出兵」があり、十六世紀の末には豊臣秀吉の「朝鮮出兵」がおこなわれているが、これらはいずれも、こちらから攻めて行ったのである。建国以来徳川末期にいたる長い期間に、�異国�の襲撃をうけた例が二度しかないというのは、世界史上にも珍しいことだといわねばならぬ。ところが、二度とも下関海峡が侵されているということは、一般に知られていない。  十三世紀の中ごろ、朝鮮の高麗をしたがえ、南宋を完全に攻めほろぼした蒙古のフビライ・カン(世祖)は、勝ちに乗じて日本をも征服しようとしたのである。その前に、|趙 良弼《ちようりようひつ》を使節とし、偵察を兼ねて二度も日本に送っているが、彼の日本にかんする報告は、ざっとつぎのようなものだ。 「臣は日本に一年あまり滞在し、その国情をよく観察してまいりましたが、国民はオオカミのように勇敢で、人を殺すことが何よりも好き、親子の親しみもなく、上下の礼も心得ておりません。国土は山や川だらけで、耕地はごく少なく、人間を手に入れても、使いものにはなりません。したがって、こんな土地をとっても、なんのうるところもなく、それに、舟を出して海をわたるには、いつあらしがくるか知れず、うける禍害は測り知ることができません。大切な民力をこんなことに使わずに、ほかへまわせば、はるかに大きな利益がえられると思います」  趙良弼は、蒙古人ではなく、元にほろぼされた女真人《じよしんじん》(ツングース族)だが、ながくフビライに仕え、その信頼をえていた。日本への使節も、自分のほうから買って出たものである。  当時、フビライの側近としてマルコ・ポーロもいたが、ポーロがフビライと会ったのは一二七五年で、第一回日本攻撃(文永の役)の次の年である。ポーロが北京を去ったのは一二九〇年で、その間、一二八一年に第二回日本攻撃(弘安の役)がおこなわれたのだから、その結果も、日本の国情もよく知っているはずである。それでいて、『東方見聞録』で、日本を黄金ずくめの国のように書いたというのはうなずけない。元来、この書物は、彼の帰国後、ベニスとゼノアのあいだに、戦争がおこり、彼も出征して捕えられ、入獄中同檻の男に口述して筆記させたのが世に出たのである。この男はルスチチアノといって、職業的な物語り作家だっただけに、ポーロの話に尾ヒレをつけて、おもしろく潤色した面もあり、当時すでに、ポーロは気ちがいか、大ウソツキだという評判をとったくらいである。  ポーロの『東方見聞録』には、チパング(日本)という島は、かつて他国の支配をうけたことがないと書かれているが、フビライとしては、こういった日本の存在が目ざわりで、メンツの上からも、採算を無視して、大規模の第二回日本攻撃を計画し、実行したものと思われる。  蒙古軍の兵力は、第一回は蒙古人、女真人、漢人などの連合軍一万五千に、高麗軍八千を加えたもので、計二万三千であったが、二回目には、新たに征服された南宋人約十万を加えて、計十六、七万の大軍団を編成した。ただし、このなかで、戦争の経験に富んだ蒙古人はほんの一部分だったらしい。  それに、第一回の経験で、日本は相当手ごわい相手だということに気がついたとみえて、戦闘が長びくことを予想し、糧食も約六十二万石を用意してきた。これは、元寇研究の権威者、竹内栄喜《たけうちえいき》陸軍少将が、日露戦時の日本軍食糧に換算したところによると、五個師団の三か月分に相当するものである。また『八幡愚童記』には、元軍は屯田にそなえて、農作用具まで船につんできたと書いている。  二回目でも、戦力の中心となったのは、高麗で編成された連合軍であるが、これは弘安四年五月三日、朝鮮半島の南端合浦(馬山)を出発し、二十一日に対馬、二十六日に壱岐を侵した。対馬では、朝鮮の巨済島のちょうど向かい側にあたる小茂田浜に上陸したが、先年わたくしがここを訪れて、村長から直接きいたところによると、彼の先祖は、しまいには石まで投げつけて勇戦敢闘したけれど、ついに全滅し、蒙古軍は捕虜になった島人の手のひらに穴をあけて、綱を通し、これを船べりにぶら下げながら、壱岐のほうにうつって行った。また島の女は片っぱしから犯されたそうで、今でもこの付近には蒙古系の顔が見られるという。  一方、江南軍のほうは、六月十八日、中国の慶元(寧波《ニンポー》)を出て、下旬に平戸につき、七月二十七日に肥前鷹島で、前の軍団と集合し、上陸作戦にとりかかった。  ところで、戦略上注目すべき点は、太宰府の占領を目標にしている蒙古軍が、兵力の一部をさいて、下関海峡に送っていることだ。これは『勘仲記』という当時の公卿の日記に、太宰府からの報告として、「異国船三百艘長門につく」としるしているのを見ても明らかであるが、むろん、これは九州と日本本土とのつながりをたちきるためである。  [#小見出し]もしも神風が吹かなかったら  日本民族がいだいた�大東亜共栄圏�の夢は、むなしく破れ去ったが、約六百五十年前にこれを実現したのがフビライである。  最盛期に元朝の支配下におかれた地域は、満州、蒙古、全シナをはじめ、今のベトナム、カンボジア、タイ、ビルマから、ジャワ、スマトラにまでおよんだというから、かつての日本軍の占領地域とかさなっている部分が多い。さらに、元に朝貢したというインドの南部、アフリカの東部、マダガスカル島まで加えると、一層広大なものとなる。けっきょく、スエズ以東で、元の勢力のぜんぜんおよばなかったところは、日本とアラビアだけだともいわれている。  ジンギス・カンの流れをくむ蒙古族が、武器も輸送力も大して発達していなかった時代に、このような大偉業をなしとげることができたのは、もともと遊牧民族で、戦闘にのぞんでは勇敢で機動力に富んでいたこと、運送や財政の面では、隊商の経験をじゅうぶんに生かした点をあげることができよう。  蒙古族のもう一つの大きな長所は、人種偏見にとらわれずに、降伏したものはその才能に応じて重用したこと、他民族の宗教にたいしてきわめて寛大であったこと、すぐれた文化を吸収することに異常な熱意を示したことである。それというのも、蒙古民族固有の文化らしいものをもたなかったからであろう。  フビライと同じくジンギス・カンの流れをくむチムールが築いた大帝国の首都サマルカンドは、今はソ連邦の一部となっている「ウズベク共和国」のなかにあるが、その遺跡を訪れて驚いたことには、チムールの城跡や墓のほかに、王室直属の立派な天文研究所があった。  それはさておいて、アジアで、蒙古の大軍を撃退して独立を失わずにすんだほとんど唯一の地域は日本だといえるのであるが、もしあの際、�神風�が吹かなかったとすれば、どういうことになっていたであろうか。  当時、日本の人口は約千二百万、そのうち九州は約百五十万と推定されている。奈良朝時代の徴兵法に基づいて、およそ二十歳から六十歳までの男子六人につき一人を出すことになると、九州だけで約四万人くらいは動員できた。しかし、実際は�国難いたる�というので、十四歳で前線に出たり、八十四歳で出陣して負傷したなどという記録ものこっているから、まだまだ多くの戦闘員を送りこむことができたにちがいない。  それに、弘安の役には、四国、中国方面からも参加した。現に宇都宮貞綱のひきいる中国地方の軍隊が、救援のため筑前にむかっていたというから、日本軍の総兵力も十万をこえたであろう。これが敗れたとしても、あとにはまだ、日本六十余州に敵するといわれた�関八州�の精鋭分子がひかえているから、そうやすやすと、日本全土を蒙古軍の手にゆだねるようなことはなかったろう。  さて、蒙古軍の戦法は、 「太鼓をたたき、ドラをうちて、鬨《とき》をつくる。その声おびただしきに、日本の馬どもおどろき、進退ならず。蒙古が射る矢は短しといえども、矢の根に毒をぬりたれば、あたるほどのもの毒気に負けぬということなし、カブトは軽し、馬はよくのる、力は強し、命はたがわず、強勢勇猛自在きわまりなく、よくかけひきせり。大将は高きところにあがりて、引くべきには逃げ鼓をうち、駈《か》くべきには攻め鼓を鳴らし、それにしたがいてふるまえり。その引くとき、鉄砲とて鉄丸に火を包んではげしくとばす。あたりてわるるとき、四方に火炎ほとばしりて、煙をもってくらます。またその音高ければ、心をまどわし、きもをつぶし、目くらみ、耳ふさがりて、東西を知らずなる。日本の軍のごとく、相互に名のりあいて、高名不覚は一人ずつの勝負と思うところ、この合戦は、大勢一度によりあいて、足手のはたらくところに、われもわれもとりつきて、へし殺し生けどる」 といった調子で、この新しい集団戦術に面くらった日本軍の姿が目にみえるようである。これを伝えた『八幡愚童記』は、弘安の役直後のものだというから、この記述は比較的正確と見てよい。  かように、蒙古軍は、武器や戦術の点で、当時の日本軍よりははるかにすぐれていた。それでいて二回ともみじめな敗北をしたというのは、基本的な作戦に大きな誤算があったからである。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 第一、陸上戦には強いが、海上戦には経験が足りなかった。 第二、日本をめぐる気象的条件に無知で、わざわざ台風の季節をえらんだ。 第三、仮に上陸に成功したとしても、日本の地勢、とくに夏から秋にかけては、蒙古軍の得意とする騎馬戦に適せず、大陸の場合のように猛威をふるうことができなかったであろう。 [#ここで字下げ終わり]  ところで、蒙古と日本というと、すぐ�ジンギス・カンと源義経�ということになるが、この二人が同一人物であるという説の証拠としては、ジンギス・カンは�源義経《ゲンギケイ》�のなまりであるとか、二人の生年に四年の開きしかないとか、ジンギス・カンの幼名|鉄木耳《テムジン》は�天神�に通じるとか、ジンギス・カンの父也速該を�エゾカイ�とよみ、これは義経がエゾの海をわたってきた証拠だとかいったたぐいで、ほとんどコジツケにすぎない。  戦時中、日本の軍人が蒙古で、この義経説をもち出して、蒙古人の大反撃をくった例もある。  それよりも、蒙古の大陸支配は、日本とはもっと別な面で、つまり、明治の変革につながっているのだ。  [#小見出し]敗戦が生む忠臣思想 �大東亜共栄圏�の建設を目ざした�大東亜戦争�のあと、多くの新しい独立国が生まれたことは前にのべた。これより一まわりも二まわりも大きな大帝国を建設した元朝は、フビライの死後、半世紀あまりで明にほろぼされたけれど、東西文化の交流に、元は画期的な役割りを果たした。  その原因としては、元が膨脹して行く過程において、それまで欧亜のあいだに介在して、交通をさまたげていた小さな国々を片っぱしから攻めほろぼしたこと、元は外来文化の吸収に熱心で、他国の学者、文人、僧侶、技術家などを迎えて大いに優遇したことをあげることができる。  ただし、日本の場合は、元の侵略をうけたけれど、武器や文化の上で、蒙古的なものをほとんどのこしていなかった。対戦期間が短く、しかもいちおう日本側の勝利という形でおわったからであろう。  それよりも、日本に大きな影響をおよぼしたのは、元にほろぼされた宋の思想、文化である。とくに、日本における�忠誠心�の形成という点では、宋学の影響を見のがすことはできない。  幕末の日本で巨大な激流にまでなった�忠誠心�の源流をさぐって行くと、南朝の忠臣楠正成、北畠親房などにつきあたるのであるが、これらの大忠臣はいずれも、南北朝の対立において、負けたほうから発生したものである。ここで、勝った北朝と負けた南朝の正※[#「門+壬」、unicode95ae]、順逆の論がはじまっているが、この形は、高度の文化をほこっていた宋と、これを攻めほろぼした�野蛮�な蒙古の関係に似ている。後醍醐天皇は、天台僧|玄恵《げんけい》などを通じて、宋学の造詣が深かったというが、その周辺から多くの忠臣が出た。行動においてこれを最大限に発揮したのが正成で、『神皇正統記』などの著書で理論的にこれを完成したのが親房である。  徳川時代にはいって、宋学は�朱子学�となって完全に官学化してしまったけれど、これにたいするレジスタンスも、正成や親房の流れをくむ�忠誠心�という形をとって、一部日本人の心のなかに、火ダネのたえることなくもえつづけた。徳川光圀の『大日本史』は、『神皇正統記』の精神をうけついだものであり、正成を慕って�望楠軒�と名のった|浅見絅斎《あさみけいさい》の一派から、尊皇の先駆|竹内《たけのうち》式部《しきぶ》、山県大弐《やまがただいに》などが出たのも、決して偶然とはいえない。  その後、封建制度の矛盾が激化し、幕府の統制力がゆるむにつれて、勤皇の炎が各地にもえあがり、ついに王政復古を迎えるにいたったのであるが、外国人で、日本人の�忠誠心�を刺激し、鼓舞する上において、もっとも大きな役割を果たしたのは、岳飛《がくひ》と文天祥《ぶんてんしよう》で、いずれも宋朝の代表的忠臣である。岳飛は農民の子で、一兵卒からたたきあげて軍の最高指揮者となったのであるが、当時の軍人としては珍しく学問があった。文天祥は、二十歳で進士の試験に首席で合格したというインテリであるが、元軍が攻めこんできたとき、文官の身で勤皇の兵をあげた。いずれも、降伏はもちろん、一切の妥協を排し、徹底抗戦に終始した。  岳飛をまつった�岳王廟�は、有名な西湖のほとりにあって、日本の湊川神社のようなものとなっているが、人民共和国となってからも、岳飛は�民族の英雄�として、とくに高く評価されている。日本でも、浅見絅斎が、自分の愛刀に�赤心報国�と記したのは、岳飛の有名なことば�尽忠報国�にちなんだもので、�大東亜戦争�時代には、これが日本軍のスローガンとなったことは、改めてのべるまでもない。維新の志士橋本左内が�景岳�と号したのも、�岳飛を敬慕�する精神を表現したものだ。  文天祥が上書して元の使節を切ろうとしたという話は、北条時宗が元の使者を竜の口で切ったことを思わせる。それよりも、彼は幕末日本の勤皇派を鼓舞し、討幕のエンジンにアクセルをかけたような結果を招いたのであるが、それは主として彼のすばらしい表現力に基づいている。とくに彼が元軍に捕えられて、燕京(北京)の土室に幽囚されているときつくったという「正気の歌」が有名である。  これをまねて、水戸の藤田東湖、長州の吉田松陰が、それぞれ「正気の歌」をつくっているのを見ても、その影響力がいかに大きかったかがわかる。弘化元年、藩主斉昭が幕府から謹慎を命じられたとき、その最高ブレーンであった東湖も幽囚の身となって、これをつくったのであるが、松陰の場合は、安政六年、江戸に護送される途中、唐丸籠《とうまるかご》のなかでつくり、江戸についてから、同志に口づたえしたものである。いうまでもなく、東湖と松陰は、維新回天史上における二大アジテーターであり、精神的オクタン価のもっとも高い人物であったが、かれらはこういう形で、宋や元とつながっているのだ。  その一人である松陰の門から出た高杉晋作が「馬関戦争」に起用されて、長軍の指揮をとることになったのである。 [#改ページ] [#中見出し]特異な産物・奇兵隊   ——実力本位に徹して戦争をスポーツ化した高杉晋作の奇略——  [#小見出し]性格型の典型高杉晋作 �革命家�に三つの型がある。  第一は�道徳型�。ひと一倍正義感が強く、社会生活の不正、矛盾に敏感で、これを改廃しようとする意欲の強烈なもの。  第二は�性格型�。生まれつきスタミナが高く、行動がさかんで、いつでもそのハケ口を求めているもの。  第三は�野心型�。権力欲、支配欲が強く、現状に不満をいだく人々を組織し、これに便乗して、個人的野心をみたそうとするもの。  これらの三つの型のなかで、わたくしの経験によると、�革命家�としていちばんもろいのは、第一の�道徳型�で、味方の陣営のなかに、敵方と同じような不正、矛盾を見いだしたときには、あっさりと転向して陣列からはなれてしまうことが多い。  第三の�野心型�の場合も同じで、個人的野望をみたすのに、より有利な対象がみつかると、なんのみれんもなく、そのほうへのりかえる。  けっきょく、�革命家�として長つづきするのは、第二の�性格型�ということになる。性格そのものが�革命�的にできているから、そうかんたんに足を洗うことができないのだ。そのかわり、こういう人物がリーダーになってヘゲモニーをにぎると、その�革命�が妙な方向にまげられてスポーツ化したり、うちきる時期を誤って�革命至上主義�や�永久革命�論におちいる危険性が多分にある。  この�性格型�の典型ともいうべき�革命家�が高杉晋作である。彼の師匠の吉田松陰にも、これに似た面があったが、松陰には理論的、教育的な面が強かったのに反し、晋作のほうは、より実践的で、実戦の面でも天才的な能力を発揮した。それだけに、また、気分的、芸術家的で、ときには性格破綻者に近い面も露呈した。後年、井上馨や伊藤博文は、高杉を�偉人�あつかいすることを好まなかったというが、一つは晋作のこういう面をよく知っていたからであろう。  文久三年正月、品川御殿山の英公使館焼き打ち事件で謹慎の形になっていた晋作は、手もちぶさたで困っていた。そこで思いついたのが、松陰の遺骨改葬である。これはすでに長藩から朝廷に上奏してゆるしをうけ、世田谷若林村大夫山の毛利家別邸跡を整地していつでもそこへ埋葬できるようになっていた。  そこで、晋作は、桂小五郎を説いて藩から支度金を出させ、伊藤俊輔(のちに博文)、山尾庸三、白井小助、堀新五郎の四人をつれて、小塚原の刑場に出かけた。正月のことで、番人もいなかったから、ついでに頼三樹三郎、小林良典の遺骨も掘りおこし、つぼにおさめ、人夫にかつがせて、上野広小路にさしかかった。  大将気どりの晋作は、陣羽織をきて、ヤリを小わきにかいこみ、馬にまたがって、人ごみをへいげいしながら進んだ。この異様な行列に、通行人が目を見はっているなかで、上野東叡山にお参りする将軍のためにつくられ、将軍しかわたれないことになっていた�中の橋�を通れと命令した。橋役人が驚いてこれを制止しようとすると、 「天朝のために死んだ吉田松陰先生の遺骨をたずさえて通るのだ。無礼もの、さがれ! 勅命だ」 と叫んで、ゆうゆうと通りすぎたという。この話は、どこまでほんとうだかわからないが、いかにも河内《こうち》山宗俊《やまそうしゆん》的で、強大な権力に立ちむかう場合、より強大な権力の背景をにおわせるというのは、日本人のもっとも好きなレジスタンスの手である。  その後、この若林の別邸で「禁足謹慎」すなわち�軟禁�されていた長藩のあばれものたちのあいだで、「御楯組《みたてぐみ》」という一種の血盟団ができた。盟主は、むろん、晋作である。  こういった長州人の乱暴狼藉に手をやいて、幕府では�長州狩り�にのり出したが、かれらは神出鬼没で、現行犯をおさえることはむずかしかった。  それでも、晋作だけは平気で江戸市内をノシ歩き、 「おれを長州人と見てくれないから困る」 と冗談をいった。そして思いついたのが、 「長州浪人高杉晋作」 と書いた名札を刀の柄にブラさげて、日本橋、浅草、両国などの盛り場を歩くことである。しかし、通行人は彼を気ちがいあつかいしただけだった。  このまま彼を江戸にのこしておくと、何をしでかすかわからぬというので、長藩では公用を設けて彼の帰国を命じた。わざわざ迎えにきた井上|聞多《もんた》(のちに馨)と二人づれで江戸を立ち、箱根の関所にかかったとき、 「長州藩士高杉晋作、この天下の大道を通るのに、貴さまたちの無法な干渉を許さぬぞ!」 と大喝一声、関守たちがあっけにとられているすきに、さっさと通りぬけてしまったという。  こういうふうに、官権にケンカを売ることを最大の快事といったような�革命家�が、大正時代にもいた。  [#小見出し]酒と女に入りびたる  文久三年三月十一日、孝明天皇は攘夷祈願のため、賀茂神社に行幸された。  徳川幕府は、天皇を皇居の外に出さぬという方針をとっていたので、これは寛永三年後水尾天皇が二条城に行幸されて以来、二百数十年ぶりのことであった。京都市中はわきかえるような騒ぎで、前夜から沿道におしよせた群集は、四十万といわれた。  この行幸には、将軍家茂も、征夷大将軍の資格で加わったが、親王、関白、左右大臣以外は輿《こし》を許されなかった。  途中から雨が強くふり出した。十八歳の将軍が、ぬれねずみになって馬にのっている姿は痛々しかった。この知らせが江戸に伝わると、将軍は恥をかきに京都へ上ったようなものだといってくやしがった。  賀茂の川原にひざまずいて、山県狂介、堀新五郎などとともに、この行幸を拝観していた長州人の一人が、突然たちあがり、声をはりあげて、 「いよう、征夷大将軍!」 とわめいた。それは高杉晋作であった。  当時京都には、長藩の世子毛利定広がいて、この行幸にも前衛の役をつとめていたが、晋作には手こずった。公卿の学問所としてつくられた「学習院」が、そのころは勤皇派の集会所のようになっていて、晋作をそこの�御用掛り�に任命しようとしたり、萩へかえして「政治堂」の取りしまりにまつりこもうとしたりしたけれど、彼はどっちもことわった。そして定広から十年の暇をとってマゲをきり、�東行�と号した。これから東へ、つまり、江戸へ引きかえして、松陰の墓守りをしてくらそうというのである。  田中光顕《たなかみつあき》がはじめて晋作に会ったのは、ちょうどこのころで、場所は東山の料亭、大勢の芸者を前にしてであった。頭陀《ずだ》袋をかけた晋作の異様な姿を芸者たちが珍しそうにながめていると、晋作は   坊主頭をたたいてみれば   安い西瓜の音がする と歌いながら、踊り出したという。  情熱を失った晋作が、こうして連日連夜、花柳のちまたに入りびたっていると、入江九一、野村和作の兄弟が訪ねてきていった。 「国家多事多端のおりから、勤皇の同志たちが、不浄の場所にあつまって事を談ずるのは不謹慎きわまる。こんごは断然この悪風を改めることにした。これにそむいたものは、詰め腹を切らせる規約をもうけたが、君もぜひ加盟してもらいたい」  絶えず生命の危険に身をさらしながら、地下運動をつづけているものの生活は、刺激とスリルにみちている。これが長くつづくと、中毒的症状を呈するようになる。そして運動が思わしい発展を見せなくなると、刺激やスリルの供給源を他に求めざるをえなくなる。その場合、どこにでもあって、いちばん手っとり早く入手できる代替物は酒であり、女である。かつての非合法下の日本共産党員のなかでも、同じような現象が見られた。 「馬鹿野郎、詰め腹がこわくて攘夷討幕運動ができると思うか、おれは今からまた女郎屋へ行く。なんなら、貴さまたちもついてくるがいい」 といった調子で、晋作には手がつけられなかった。   �人は武士、気概は高山彦九郎、   京の三条の橋の上�   �三千世界のカラスを殺し、   主《ぬし》と朝寝がしてみたい�   �何をくよくよ川端柳、   水の流れを見てくらす�  などという有名な歌は、このころの彼の心境をうたったもので、志士の�気概�と、道楽者の�蕩心《とうしん》�が仲よく同居し、一体化しているのだ。これは日本人にもっとも喜ばれる境地であり、人柄である。  当時、京都では、賀茂行幸についで、四月にはいって石清水八幡宮への行幸がおこなわれ、その神前において将軍に征夷の節刀を授ける、つまり、攘夷断行を誓わせようというプログラムがすすめられていた。  その一方では、高杉晋作の一派が中山忠光を擁立し、石清水行幸の途中、鳳輦《ほうれん》をうばって、攘夷親征のキッカケをつくり、さらに幕府討伐の義兵をあげる密謀をめぐらしているというウワサが流れた。一橋慶喜は、このウワサを逆用して、中川宮を通じ、行幸中止にもって行くことを考えていた。  長藩においても、忠光や晋作の極左的な意見や陰謀に同調するものは少なかった。そこで、大阪の長州屋敷に潜伏していた忠光を長州へおとすとともに、晋作には堀新五郎をつけて、萩へ送還することにした。  晋作は、支給された旅費をたちまち酒と女でつかいはたし、あちこちで借金をかさねながら、四月の末にやっと萩の家へたどりついた。そこには�馬関戦争�が待ちうけていた。  [#小見出し]奇兵隊の編成へ  天才と狂人は紙一重だというが、狂人にも分裂症と躁鬱《そううつ》症とがある。  一種の天才であった高杉晋作の言動には、躁鬱症に似た兆候がしばしばあらわれている。ありったけの情熱をかたむけて体あたりしていけるような対象にぶつかったときには、天馬空を行くような行動を発揮するが、それが思う通りにいかなかった場合には、たちまち憂鬱になる。近ごろの流行語でいうと�挫折�感だ。 �躁�から�鬱�へのうつりかわりが早く、その振幅が大きくなりすぎると、精神病理学の対象になるのだが、これが�天才�につながっているともいえる。  将軍の行列を見て、 「いよう、征夷大将軍!」 とわめいたりしたあと、西行法師の向こうをはって�東行�と名のり、松陰の墓守りをしたいといい出す。郷里にかえることになっても、支給された旅費をたちまち酒や女でつかいはたし、道中無一文となる。義理にも�憂国の志士�などといえたものではなく、だだっ子かやくざのたぐいである。躁鬱症の見本的ケースだ。  やっと郷里萩にかえりついた晋作は、脱藩の罪はゆるされ、父小忠太の�育《はぐくみ》�(すなわち�お預け�)ということになった。小忠太はその名のごとく、謹直、忠実、小心で、晩年には世子定広の傅役《もりやく》をつとめた。ひとくちにいって、乃木希典《のぎまれすけ》の父希次と同じ型の人物であった。  晋作につきそって帰国した堀新五郎は、さっそく松陰なきあとの松下村塾にはいったが、晋作は終日家にとじこもって、外界との交渉を断った。そのころ下関では戦争がたけなわで、むろん、そのニュースは萩のほうにも続々伝わってきたが、晋作はわれ関せずの態度をとっていた。まだ�鬱�の状態がつづいていたのだ。  それが突如として起用されて、前線司令官を命じられると、有名な�奇兵隊�を編成して、軍事的天才を存分に発揮し、竜が雲にのったような大活躍をはじめるのである。  当時、下関の前線司令部には、白石正一郎という豪商の家があてられて、そこには世子定広がのりこみ、陣頭指揮をおこなっていた。  白石家は、家号を「小倉家」といった。一説によると、室町時代からつづいている旧家で、代代|回漕《かいそう》業をいとなみ、酒の醸造もおこなっていた。取り引きの対象となった主たる商品は藍玉《あいだま》で、備中の連島を中継地にして、さかんに薩摩と交易し、薩摩の御用商人のような形になっていた。こういった型の商人というのは、時代の動きに敏感で、各藩の内情にも通じていた。秘密の輸送、通信機関として�苫船《とまぶね》�などをつかっていたからだ。  万延元年三月三日、井伊直弼が桜田門外で暗殺されたというニュースを、下関でいちはやく知った白石は、三月十八日の日記に、つぎのように書いている。 「馬関風聞、江戸先日騒動これある由、すぐさま宮崎氏をみたらいやへつかわし、実否ききあわせ候ところ、井伊桜田にて殺害にあい候由、下手人は水戸藩士十七人と申すことなり。翌十九日、右の風聞さつまへ知らせ状数通仕出す。宮崎分も入組み、苫船中馬氏へ托《たく》す」 �宮崎�というのは、のちに生野銀山で勤皇の兵をあげて処刑された筑前藩士|平野国臣《ひらのくにおみ》の変名で、このときは白石家の世話になって、筑前物産の販路拡張に従事しながら、薩摩の勤皇派と通じて、薩筑連合の義挙を画策していた。 �みたらいや�というのは、下関の�状屋�(郵便所)で、そこで白石は桜田門外事件の実否を宮崎にたしかめさせた上、下関に入港していた薩摩の情報船の中馬に託し、このニュースを薩摩に急送したのであるが、このかんたんな日記に、各藩勤皇派の横の連絡、これにつながる商人の機敏な動きなどがよくあらわれている。  西郷隆盛も、僧月照とともに入水する前、京都から薩摩にむかう途中、白石家に泊まっているし、長州落ちをした�七卿�の一人|錦《にしき》小路《こうじ》頼徳《よりのり》は、白石家で病死している。  このように幕末の白石家は、本州と九州を結ぶ要地に店をかまえていて、ここを通過する�志士�たちの宿舎、連絡所、ときにはパトロンまたはスポンサーの役目を果たしていたのである。  清河八郎も、九州遊説のさい、白石家で一泊したが、そのあとで、こういっている。 「いろいろ議論などもあれど(白石は)ひっきょう町人根性にして大計に暗く、己れの利を計るのみにてとるに足らず。されどもあながちにすつるべきものにもあらず、時あり用をなすべきものなりける」  大正時代の有名なジャーナリストで、革命直後のロシアにはいったまま消息を断った大庭柯公《おおばかこう》は、白石正一郎の実弟大庭伝七の三男で、本名を景秋といった。  [#小見出し]撰鋒隊戦意なし  長藩が下関で攘夷を断行したときの陣容は、総奉行すなわち総司令官が毛利能登、手元役《てもとやく》すなわち参謀長格が来島又兵衛、砲台軍監が久坂義助(玄瑞《げんずい》)、艦隊司令が松島剛蔵といった顔ぶれだった。�艦隊�といっても、甲板に砲を三、四門のせた小型蒸汽船にすぎなかった。  戦闘力の中心になっていたのは、久坂をはじめ、赤根武人《あかねたけんど》、入江九一、山県狂介(有朋)、河上弥市、山田市之允《やまだいちのじよう》(顕義《あきよし》)など五十人、いずれも二十歳前後の身分の低い青年で、このうち明治まで生きのこって功成り名とげたのは山県と山田くらいのものだ。  このグループは、下関の光明寺で合宿していたので、�光明党�と呼ばれた。その多くは、京都であばれまわっていたのが、攘夷断行ときいてかけつけたもので、他藩から流れこんできたのもまじっていた。これが高杉の�奇兵隊�の母体となったのだ。  別に、毛利能登直轄の兵が千五百人ばかりいた。かれらは高禄者の子弟で、�撰鋒隊《せんぽうたい》�といった。  まず「ペンブローク号」、「キンシャン号」を撃退して、意気大いにあがった。しかし、実戦の経験のないものが、夏のさかりに甲冑《かつちゆう》や具足をつけて重い銃をかついだりすると、汗がたらたら流れ、皮がむれて悪臭を放ち、耐えられなくなり、のちには小袖袴の姿になったと、金子文輔《かねこぶんすけ》というのが、『馬関攘夷従軍筆記』に書いている。彼は慶応四年、北越の戦争に参加して長岡で戦死した。  世子定広は、白石邸にいて、昼間は各砲台を激励してまわり、夜は毎晩のように酒をふるまってねぎらった。  長崎から長藩に砲術指南として迎えられてきた中島名左衛門が暗殺されたのはこのころである。白石邸で、定広を前にして、下関防衛について協議したさい、中島の設計に成った砲台は、不完全、不じゅうぶんだから、もっと数を多くして強化すべきだという意見が出た。これにたいして中島は、ただ土嚢《どのう》をつんだようなものをどんなに多くつくっても、西洋の様式の大砲の前にはまったく無力で、そんなことに国費をついやすのはムダだといった。その晩、中島が宿舎にかえり、ひとふろ浴びて出てきたところを剌客におそわれたのである。  中島は高島秋帆《たかしましゆうはん》の門下で、オランダ人にも直接学んだだけに、長州人とのあいだに軍事的知識の開きがありすぎたことがわざわいしたのである。この暗殺をさしずしたのは松島剛蔵だといわれているが、松島も元治元年の「禁門の変」後、捕えられて切られた。  中島が殺されたのは五月二十九日で、六月一日にはアメリカの「ワイオミング号」、五日にはフランスの「セミラミス号」「タンクレード号」がやってきて、長軍は徹底的にやられたのであるが、もともと長軍としては、海上戦には自信がなかった。そこでなるべく敵が上陸してくるようにしむけ、これを迎えてみなごろしにし、軍艦をぶんどろうというのがねらいだった。  ところが、数の上で長藩の主力となっていた�撰鋒隊�には戦意がなく、敵艦のうち出す大砲の音をきいただけでふるえあがり、遠くの山林に逃げこむというふうだった。  六月一日、長州藩では、亀山八幡宮で、夷賊降伏の祈願祭をおこなったが、そのさい、弾丸除けのお守りを出したという。 「もって市中を慰するなり」 と、当時のことを記したもののなかに出ている。  昭和十二年、「シナ事変」が上海にとび火したころ、わたくしは香港にいて、中共軍でつくったニュース映画を見たが、そのなかで、日本兵の死体からとった成田山のお守りが、大きな室の壁面いっぱいにはり出されていたのを思い出した。  それはさておいて、五月二十日、京都で姉小路《あねのこうじ》公知《きんとも》が暗殺されたというニュースが下関にはいったのは、この祈願祭の前夜である。公知の親類で同志でもある中山忠光は、さっそく京都へ行きたいといい出した。定広としては、これをとめるわけにいかず、兵力の一部をさいて忠光に随行させることにした。  忠光を見送ったあと、定広は三田尻を経て山口へかえるため、「壬戌丸」にのりこんだ。そこへ「ワイオミング号」がやってきて、「壬戌丸」の甲板に、毛利家の定紋のついた紫の幕がはりめぐらされ、ノボリがなん本もたてられているのを見て、旗艦と思いこみ、これに攻撃を集中してきた。定広はすぐ小舟を出さして上陸したからよかったものの、危ういところだった。  当時の長藩は「真に器械敵せず、士卒精ならず、後来守禦の策出るところなし」、かんたんにいうと、手のつけようのない状態にあった。そこで、いよいよ高杉の起用となったのであるが、これを藩主父子に進言したのは周布政之助《すふまさのすけ》である。山県半蔵ら三人の使者が、定広の親書をもって、山口から萩の晋作の家に、早カゴでのりつけたのは六月四日である。  翌日、未明に萩を立って、山口の政庁で藩主父子に会い、下関防衛の命をうけた晋作は、これを引きうける前に、いろんな条件をもち出した。この対談中にも、フランス艦隊の下関襲撃、長軍大敗のニュースが伝えられた。  [#小見出し]実力本位ですべて平等  長藩の常備軍を�藩八隊�といった。幕府の�旗本八万騎�に相当するものである。これはそのままにしておいて、別に新しい性格の軍隊を編成し、これを手足のごとく動かそうというのが高杉晋作のねらいだ。これが�奇兵隊�で、�正規兵�にたいして�変則兵�を意味し、高杉の好きな逆説的表現である。会社の場合でいうと、係長級のものがいきなり専務にバッテキされたようなもので、こうでもしなければ、当面の危機をきりぬけることができないと見られたのだ。�藩八隊�が、旧来の身分制度によって序列づけられていたのに反し、�奇兵隊�は足軽、郷士などの下級武士を中心に、他藩の亡命者、農民、町人、職人などをも自由に参加させたもので、一切平等、実力本位に編成された。 「奇兵隊の儀は、有志のもの相集まり候儀につき、陪臣、雑卒、藩士を選ばず、同様に相交わり、もっぱら力量を貴び、堅固の隊、相ととのえ申すべくと存じ奉り候」  これが�奇兵隊�編成の基本原則である。むろん、�藩八隊�を脱して、このほうへ転向してくるものがあっても、これをこばむようなことはしない。  つぎは信賞必罰である。 「このさき、毎合戦、めいめい勇怯も相あらわれ申すべきにつき、日記つぶさに相ととのえおき、差出すべく候間、賞罰のごさた、陪臣、軽卒、藩士にかかわらず、すみやかに相おこなわれ候よう仕りたく存じ奉り候」  この点は、プロ野球などの場合と同じで、まったく記録本位、成績本位である。こうでないと強くならないのだ。  三番目は武器選択の自由である。 「隊法の儀は、和流、西洋流にかかわらず、おのおの得もの(得意のもの)をもって、接戦仕り候こと」  夏のさかりに、甲冑《かつちゆう》や具足をつけて戦争するようなバカなまねはしなかった。しかし、当時の青年たちには、刀をさげたり、銃をかついだりすることが、現在アマチュアの野球選手が背番号のついたユニホームをきて歩くのと同じように、大きな魅力だった。高杉はこの心理を巧みに利用し、この武士の特権を農民や町人にも与えることによって、かれらをひきつけたのである。苗字《みようじ》を名のることも許した。  それでいて、隊員の服装はまったく自由であった。土佐藩士でこれに加わっていた田中光顕が、家郷に出した手紙のなかで、奇兵隊風俗をつぎのように描いている。 「奇兵隊などは、つねに乱髪にて、あるいはワラをもってこれをつかね、組紐をもってこれを結ぶ。衣服もすこぶる醜悪、袴は膝より上に裾ありてはなはだ短く、その戦闘をするや、陣羽織、具足などは決して用いず、あるいは惣(宗)十郎頭巾をき、粗悪な油傘をさし、あるいは指木履《さしぼくり》(高ゲタ)をはきなどして、軍《いくさ》をなすこと戯れのごとし。隊中にも、だんだん笑うべきこと多し。暴激の輩は、早く戦争がなければ、隊を出るなどといいて怒る由なれども、幕兵きたらざるを如何せん。ただ一日も早く戦争を待つようすなり」  これは攘夷がいちおうおわって、幕府の長州征伐軍を待ち迎える�奇兵隊�の空気を書いたものであるが、いかにかれらがありあまるエネルギーをもてあましていたかがよくわかる。ここでは戦争が完全にスポーツ化されている。全学連の�基地闘争��安保闘争�にも通じるものだ。  かくて�奇兵隊�は、雪ダルマのようにふくれあがっていった。�奇兵隊�というのは総称で、いくつかの小さなグループにわかれ、それぞれ気に入った名前をつけた。いわば、ニック・ネームをもった�独立守備隊�である。  来島又兵衛と久坂玄瑞の組織した「遊撃軍」には、「御楯」「膺懲」「正導」「伝習」「郷勇」「市勇」「鍾秀」「地光」「維新」などの諸隊が参加した。こういう独自の名称をつける習慣が、�大東亜戦争�で復活したことは、あらためていうまでもない。戦闘部隊の名は、たいてい数字だけで示されているが、戦意をより高めるには、それにふさわしい名前をつけて、特別のムードをつくり出すことが効果的である。  このほか、出身や特殊技能に基づく別種の部隊も編成された。猟師をあつめてつくられた「狙撃隊」、力じまんの「力士隊」、屠殺業者ばかりの「屠勇隊」などがそれだ。 「力士隊」の隊長には、伊藤俊輔(のちに博文)がなった。僧侶ばかりの「金剛隊」、神主ばかりの「神威隊」もできた。「金剛隊」では清光寺内に、専用の訓練場をもうけた。�奇兵隊�の総数は、時期によってちがうが、だいたい千五百人、最高司令官は�総督�といって、初代総督には当時二十四歳の高杉晋作が就任、のちに河上弥一、滝弥太郎、赤根武人、山県狂介(有朋)などがかわった。各隊長は�総監�、副長を�軍監�といった。一隊の兵員は三十名前後にすぎないが、名称はいずれも大きい。名称インフレ、心理インフレで、それが闘争インフレにつながるのだ。  [#小見出し]ヒントは長髪賊  高杉が�奇兵隊�の編成を思いついた動機は、前々年(一八六一年)上海を視察して、「太平天国」軍が、優秀な装備をもった英仏軍とりっぱにたたかっている姿を目撃した結果だといわれている。 「太平天国」は「長髪賊」とも呼ばれているが、洪秀全《こうしゆうぜん》を�天主�とする新興宗教で、一種の武装革命軍として清朝に反旗をひるがえしたのである。主として貧農や都市の失業者によって構成された�人民軍�で、ロシアの赤色パルチザンや中国の「八路軍」の先駆をなすものだ。  一方、これを討伐するために、イギリス士官ゴルドンが編成して指揮をとり、�常勝軍�とうたわれた軍隊も、雇い兵を中心とする雑軍であった。  この戦争を見て、世襲的職業軍人の時代はすでに去った、指揮官さえしっかりしておれば、兵は庶民でじゅうぶんである、いや、かえってそのほうが強いということを高杉は知ったのだ。  しかし、�民兵�というのは、厳密にいうと、別に高杉の独創でもなんでもない。日本でも、武家時代にはいるまでは、農民が戦闘力の中心になっていたし、武家時代にはいってからも、新しい兵力は主として農民層から、供給、補充、徴発されてきた。そして戦争がおわれば、ふたたび�土着�することを奨励したものだ。失業軍人の存在が、社会不安の最大の原因となるからである。つとに熊沢蕃山《くまざわばんざん》、荻生徂徠《おぎゆうそらい》、太宰春台《だざいしゆんだい》なども、これに気がついて、「農民の昔にかえるべきこと」を説いている。  吉田松陰も、安政五年(一八五八年)に書いた『西洋歩兵論』のなかで、「本邦固有の短兵接戦」とともに、西洋的に訓練された歩兵の必要を力説しているが、その編成法は、 「大番士中、三十人をえらんで、大いに歩兵を精練させ、これを師長として、足軽以下農兵にいたるまで、一統教演せしむべし。農兵は百人中一人をとらば、御両国(周防・長門)のうち二千五百人を得べし。この輩に平日一人扶持を下しおかれ、教演行役などにのぞまば、さらに軍食一升ずつを賜うべし」 とのべている。「一人扶持」というのは、一日に玄米五合で、教練などに出たときは、別に一升つくのであるが、武士に比べれば、たいへん安あがりである。�非常時�にのぞんで、急激に軍事力を増強する必要が生じた場合には、どこでもこういう方法をとらざるをえない。  すでに水戸では天保十三年(一八四二年)、土佐藩では安政元年(一八五四年)、海岸防備のため、�農兵�もしくは�民兵�を徴用している。  ただし、高杉の�奇兵隊�は、単なる補充部隊ではなくて、むしろ、このほうに戦力の重点をおき、これを�常備軍�と見なしている。そこに彼の独創性が見られる。  それに、武器の重点も、刀剣から銃砲にうつってくると、刀剣を中心としたこれまでの武道が、それほどものをいわなくなる。�大東亜戦争�においても、�軍刀無用論�が出たが、廃止するにいたらなかったのは、斬りこみ用もしくは自決用として、どっちかというと、精神的な効用が強調された結果である。  等級や給与の差は、�奇兵隊�のなかでは少なかったらしい。隊長は将校で、たいてい士分から出ているが、もとの身分にはあまりこだわらなかった。高杉の下で�軍監�(参謀長)をつとめた山県の父は、蔵元付中間《くらもとづきちゆうげん》、すなわち藩の会計官につかわれていた男で、足軽よりも低い身分であった。のちに、�総監�にもなった赤根武人は、柱島という孤島の出身で、医者の家に生まれたということになっているが、実は貧農の子であったという。 �奇兵隊�には、女の隊員が一人いた。父親はどこかから下関に流れこんできた研屋《とぎや》だったが、年をとりすぎて、目がかすみ、生活が苦しく、のちにくびをくくって死んだ。その娘のお菊というのが、スガ目だったけれど、力じまんで、台場築きの土工の仲間になって働いていた。突貫作業中に雨がふり出したとき、彼女は尻をくるりとまくり、 「毛唐のやつばら、これでもくらえ……」 といって、監督の藩士や土工たちをわらわせた。  それがどうしても奇兵隊員になりたいというので、高杉のところに日参してたのみこんだ。高杉のほうでも根まけして、彼女の入隊をゆるし、朱鞘《しゆざや》の大小を与えた。彼女は大喜びで、これをたばさみ、ハカマをはき、髪をおろして奇兵隊マゲにゆいかえ、肩を怒らし、ひじをはって、大いばりで歩きまわった。そして高杉の�高�と、土地の富豪「橋本屋」の�橋�をとり、「高橋菊」と名のったのはいいが、しだいに増長して、押し借りをして歩くようになり、所ばらいの訴えをおこされて、どこへともなく姿を消してしまった。 �放浪作家�林芙美子は、下関のブリキ屋の二階で生まれた。平林たい子が大連へ流れていく前、愛人とともに住んだのも、この町である。  [#小見出し]ふるいたった女性軍  先年、わたくしが、山口県の萩市を訪れたとき、公民館でおもしろい催しがあるから、見ていかないかとすすめられた。  行って見ると、講堂の舞台で、タスキがけの女性数百人が、レコードにあわせて、剣舞のような踊りを習っていた。音頭をとっているのは市長夫人だときいた。  踊りそのものよりも、その歌の文句に、わたくしは少々驚いた。   男なら   お槍かついで   お仲間となって   ついて行きたや下関   尊皇攘夷ときくからは   女ながらも武士の妻   まさかのときにはしめだすき   神功皇后の三韓退治が   鏡じゃないか   オオ、シャリ シャリ  幕末、長州藩では、いよいよ攘夷断行ということになって、藩の政庁は、萩から山口にうつった。下関の戦闘を指揮するのに遠すぎるからでもあるが、一つは海からの砲撃にそなえて疎開したのである。  そのあと、ロシアの軍艦が萩の沖合いを通ったというので、全市がわきたった。といっても、男はほとんど召集されて、下関や山口のほうへ出はらっていたから、家老夫人以下全女性を総動員して、海岸にお台場をつくることになった。そのときにできたのが、「男なら」の歌である。  工事中は、能率をあげるために、服装の自由を許したので、なかには緋《ひ》ヂリメンの湯巻きにドンスの帯とか、大柄もようのカタビラとか、色とりどりの姿で出てきて、大いに士気を鼓舞したという。戦後はタブーのようになっていたのが、逆コースの波にのって、�郷土民謡�ということで、復活させることになったらしい。ただし「三韓退治」ということばは、印刷物では「雄々しき姿」と改訂されていた。レコードのほうは、戦前につくられたとみえて、そのままであった。  演歌師から代議士になった石田一松が、ラジオでこの替え歌をうたったことをおぼえている人もあろう。  幸いにして萩は、外艦の砲撃をまぬかれたから、せっかくつくったこの台場も役に立たなかった。砲撃されたとしても、つかいものにならなかったことは、下関の場合を見ても明らかである。  だが、イギリスの通訳官アーネスト・サトウの『回想記』によると、元治元年八月、英仏米蘭の連合艦隊が下関を攻撃したとき、イギリス公使パークスは、クーパー提督にたいして、ぜひとも萩を占領せよという命令を与えている。萩は長藩の中心だと考えられていたからだ。しかし提督は、「用心深い指揮官であるばかりでなく、文官から必要以上のさしずをうけることを快しとせず、けっきょく、手もちの兵力では、毛利領の一部を永久的に占領することは不可能だという結論に達し、(下関の)砲台を破壊し、海峡を開いたら、それで自分の任務は終了したものと考えた」のだ。  それよりも興味のあることは、当時、高杉のひきいる奇兵隊が、日本海の孤島で、豊臣秀吉の�朝鮮出兵�以後、領有権をめぐって日韓両国のあいだに紛争をつづけてきた竹島の占領を企てたことである。そのいきさつはこうだ。  長崎からかえってきた久坂玄瑞がいうには、国力の点では、西洋諸国に比べて長藩は問題にならない、攘夷の目的を貫徹するには、まず富国強兵策を講じなければならない、そのためにいろいろと研究し、各方面の意見をきいたところによると、このさい、朝鮮人が勝手に占拠している竹島をうばいかえし、その資源を開発することが、いちばん近道だというわけだ。  当時、長府には、長崎の代官で密貿易をおこない、巨富を築いて処刑された末次平蔵の一族で興膳昌蔵《おきつきまさぞう》というのが住みついて、長府藩のお抱え医師となっていた。彼は長崎時代に竹島へ行ったことがあるとかで、良質の木材その他資源の豊富なことを力説した。おそらくこの島は、海賊や密輸業者の中継基地になっていたのであろう。  高杉も竹島占領に賛成し、さっそく具体案をねったのであるが、その後長藩をめぐる内外の情勢が一変し、この計画はついに実現を見るにいたらなかった。  ただし、この竹島は、日本の敗戦後、韓国で領土権を主張し出した日本海の無人島のことではない。この島は、豊臣秀吉の�朝鮮出兵�以後、日本人の漁場になっていたのだが、元禄時代まで帰属がはっきりしなかった。これが明確に日本領ということになったのは明治三十八年、日露戦争に日本が勝ってからである。ところが、昭和二十七年になって、韓国がこの島の領土権を宣言し、日本側の抗議をうけつけないままで今日にいたっている。  高杉らがねらったのは、今の鬱陵島《うつりようとう》のことである。この島は、新羅《しらぎ》時代までは「干山国」といって独立国であった。古くは羽陵島、蔚陵島、武陵島、竹島などと呼ばれ、明治以後、天草や山陰方面からの渡航者や移住者が多かった。一九一四年(大正三年)以後、慶尚北道の管轄となっている。  もともと長州人は、半島や大陸にたいして強い関心をもっていた。吉田松陰が大陸雄飛の志を抱いていたことは前にものべたが、伊藤俊輔も、長州にいられなくなったときは、朝鮮に亡命しようと考えたことがある。朝鮮とは地理的に近いばかりでなく、合法、非合法の往来があったものと見るべきであろう。 [#改ページ] [#中見出し]日・韓合併の舞台裏   ——憎み合ってもわかれることのできない運命共同体の関係——  [#小見出し]根強い排日感情  最近、わたくしは韓国を訪れたが、韓国人の対日感情は、予想していたほど険悪ではないけれど、まだまだシコリがのこっている。ただし、戦後に教育された若い世代は、日本にたいする知識が間接的なので、古い世代のように、強い憎しみも親近感ももたず、�外国�の一つとして見ているものが多いようである。  それでも、新聞その他の印刷物を見ると、いまでも日本のことが�日帝�(日本帝国主義)ということばで表現されている。�反共排日�を国是としてすすんできた李承晩コースは、そうかんたんに改めることはむずかしいであろう。  ところで、わたくしは、秀吉の�朝鮮出兵�のあと、朝鮮人の対日感情、国交関係がどんなふうにかわっていったか、ということに興味をもって、少しばかり古い文献を調べてみた。とくに昭和三年、朝鮮総督府から出た松田甲《まつだこう》述『日鮮史話』に教えられるところが多かった。同書によると、 「かえりみるに、慶長十二年(一六〇七年)平和克復後第一回の�通信使�呂祐吉《ろゆうきち》らのきたりしより、寛永十三年(一六三六年)第四回の�通信使�任絖《にんこう》らのいたりしころまでは、朝鮮にありては�壬辰の役�(一五九二年の�朝鮮出兵�)の余怨いまだ容易に消滅せず、日本を目して�島夷�と呼び、�倭奴�とののしり、ただ武事のみをたっとびて、文筆にくらきものと見なし、使者の一行は、往々暴慢軽侮の言動をもってした。  しかし、日本はひたすら平和政策に基づき、かれらの言動を隠忍し、一方さかんにシナより書籍を輸入し、文教の隆興をはかりしをもって、鴻儒碩学《こうじゆせきがく》相つぎて出で、詞藻に富める俊才も、また諸方に出ずるにいたり、明暦元年(一六五五年)第六回の�通信使�趙衍《ちようえん》らのいたりしころは、三都はもちろん、沿道の学者は競うてかれらに応接し、経史を談論し、詞賦を唱酬して、感情の融和をはかると同時に、知識を海外に求むるにつとめた」 となっているが、慶長十二年というと、秀吉が死んで、日本軍が朝鮮から引き揚げてちょうど十年目である。これより前に、家康が朝鮮の捕虜を送りかえしたので、そのお礼に向こうから使いがやってきて、京都の本圀寺を宿坊とし、二条城で家康に会い、和議をととのえてかえっている。�通信使�というのは、韓国からやってきた親善使節のことであるが、これが日本にくるまでには、辛抱強い外交的折衝を必要としたにちがいない。  現在、韓国人が日本人に会ってすぐ口にするのは、�日韓併合以来三十六年�にわたり、日本がおこなったという虐政と搾取にたいする恨み、つらみである。当時、かれらのつかった�島夷�ということばは、いまの�日帝�にあたるわけだ。  これを緩和するのに、徳川政府は文化政策に重点をおいた。家康が学問奨励に力を入れたのも、一つはこういうところから出たのであろう。戦国時代のあとをうけて、文化的な面では、朝鮮とのあいだに、かなり大きな落差があったので、まず日本の文化的水準を高める必要があったのだ。  延享五年(一七四八年)、荒井筑後守というのが、朝鮮の使節について書いた随筆によると、 「(新井)白石先生、鮮客応対の節、中華新渡の書目録を出され、これらの書籍、朝鮮にもわたりたるやと問われしに、朝鮮人はまだ見ざる書多きよし申しけるとかや。按ずるに、日本は金銀多き国ゆえに、書も多く、中華の賈客もてくるならんかし」  このころになると、日本の文化的水準は、朝鮮に追いつき、追いこしていた、というよりも、金のあるにまかせて、シナから新刊本をどしどし買いこみ、朝鮮の使節に見せびらかしたらしい。  この随筆には、朝鮮の国情、習慣、産物をはじめ、�朝鮮出兵�中の逸話などを紹介しているが、そのなかにこういうのがある。  加藤清正の部下で野瀬伝五兵衛というのが、美しい朝鮮の女性を生けどりにして犯そうとしたところ、彼女は怒り、死んでも倭人には汚されないといって、かたわらの古井戸に身を投じた。また、こんな話もある。  福島正則の部下で山下左太夫という日本兵が、逃げる朝鮮兵を追っかけているうちに、道にまよい、一つの小屋にたどりついた。そこに三、四十人の朝鮮人がかくれていたので、金はいくらでも出すから、かえる道を教えてくれといった。すると、かれらは道を親切に教えてくれたが、金はなんといってもうけとらなかった。  このなかには、後世の日本に見られるような朝鮮人軽視の思想は、ほとんどあらわれていない。  それどころか、 「朝鮮はもと夷狄の国なれども、いにしえ周の武王のとき、すでに箕子を封ぜられ、それより代々相続して、風化おこなわれし国なれば、古賢の遺風ありと知るべし」  これに反して、 「わが国は、古来より武を重んずる風儀にて、武士は双刀を帯し、商農隠医までも一刀を横たえ、はなさず。明韓は、武官のほかは剣戟をおびることなく、ひっきょう剣刀を横たえるは、夷狄の遺風なるか」 といった調子で、日本のほうに、より多く蛮風がのこっていると見ている。  [#小見出し]長州と韓国の深い関係  朝鮮からの�通信使�は、慶長十二年(一六〇七年)から明和元年(一七六四年)まで、百五十七年のあいだに、十一回やってきた。  使節一行は、正使、副使以下、総勢約四、五百人から成っていて、往復にかれこれ二百七十日もかかった。江戸はもちろん、沿道の各藩で、往復ともたいへんなもてなしをうけ、ゆうゆうと旅をつづけたのである。しまいには、あまり金がかかりすぎるというので、文化元年(一八〇四年)に中止し、幕府から対馬に特使を派遣して、朝鮮の使節をうけることに改めた。  ところで、沿道諸藩のうち、朝鮮の使節をもっとも歓迎したのは、長州の毛利藩、筑前の黒田藩、江州の井伊藩であった。このことは使節たちが筆をそろえて、この三藩をたたえているのを見ても明らかである。  戦後の日本の政治家のなかで日韓関係の正常化に、もっとも強い関心を示しているのは、�特使�専門の大野伴睦は別として、石井光次郎、岸信介であるが、石井は福岡県人、岸は山口県人である。どっちも朝鮮近海に出漁する漁民の多い選挙区の利害とつながっているといってしまえばそれまでであるが、これらの地方と半島との歴史的、伝統的な関係を無視するわけにはいかない。  それなら、井伊の場合はどうか。  もともと近江は、新羅《しらぎ》の王子|天日《あまのひ》|槍 命《ほこのみこと》とその一族の土着したところで、大津には「新羅明神」、琵琶湖の北にある余呉湖には「白木明神」がある。その後も、朝鮮から日本にきた亡命者、商人、職人などの多くが、この地方に住んだので、朝鮮に関係のある地名、風俗、習慣が今もたくさんのこっている。琵琶湖の東岸には、�朝鮮人街道�と呼ばれているものがある。  天日槍の子孫である田道間守《たじまもり》の弟の娘が、開化天皇(第九代)の曾孫|息長宿禰王《おきながすくねみこ》の妃として迎えられ、そのあいだにできた息長足姫《おきながたらしひめ》が仲哀天皇の皇后となった。これが神功皇后だということになっている。皇后が�三韓退治�に異常な熱意をもったというのは、祖先の�失地回復�の意欲から出たというよりも、当時の日本は、今よりもはるかに密接に半島と結びついていたからだと見るべきであろう。  どっちにしても、この時代のことは、伝説に属していて、なんともいえないが、彦根藩主が朝鮮の使節をとくに歓待したというのは、近江との伝統的なつながりを考えた上でのことではあるまいか。  使節の属官|曹蘭谷《そうらんこく》の書いた『奉使日本時聞見録』によると、 「彦根の城界に入る。市肆《しし》人物の盛んなる大阪にゆずらず、しかして容状豪俊、服飾華鮮、童男童女、皎々として珠貝のごとし、館所はすなわち宗安寺、屏帳什物の侈麗なる陸路の過站に冠たり。中下官を接待するのさい、みな銀匙を用ゆ」  彦根の繁栄ぶりをほめちぎって、大阪に劣らないといっている。下っぱの接待にまで銀のサジをつかったというので目を丸くしているが、そのころの日本の消費ブームが想像される。  毛利藩の場合はどうか。同じ記録に、 「接待の節、他処に倍す。しかして錦褥の備待するもの、上中下官にいたるにおよぶ」 と出ているが、下官までニシキのフトンに寝かせたというのだ。  下関では、阿弥陀寺を迎賓館にあてた。この寺は安徳天皇の冥福を祈るためにつくられたもので、明治八年官幣中社「赤間宮」となった。下関ばかりでなく、中の関の田島、上の関の竈戸でも、大いに接待したらしい。上の関では、三斗の米でつくった大餅を出して、一行を驚かせている。  どこでも、土地の学者、文人が動員されて、酒食を共にしながら、筆談をしたり、詩を吟じたりして、日韓の文化交歓をつづけたのである。  萩出身の学者で医者でもあった滝鶴台《たきかくだい》は、 「わが藩有司に命ず、およそ使賓を待つ、家にかえるがごとくならしめよ」 と書いている。当時、鶴台は江戸にいて、太宰春台から�海西無双�といわれたほどの人気者であったが、朝鮮の使節がくるというので、わざわざ長州によびかえされ、接待役を仰せつかったのである。これをみても、毛利藩が使節の接待にいかに気をつかったかがわかる。  かように、朝鮮と長州のつながりは、古く、深く、強い。日清戦争後、日本の全権公使として韓国に駐在して、閔妃《びんぴ》殺害事件にも関係した三浦梧楼は高杉の�奇兵隊�出身である。また�日韓合併�の立役者伊藤博文のあとをうけて韓国統監となった曾禰荒助、合併後の初代朝鮮総督|寺内正毅《てらうちまさたけ》、その下で政務総監から朝鮮中枢院議長となった山県伊三郎(有朋のオイでその養子)など、日本の朝鮮関係者に、旧毛利藩士が多いということは、決して偶然ではない。  また�日韓合併�のさい、日本にもっとも協力したという趙重応《ちようじゆうおう》は、正徳元年(一七一一年、六代家宣時代)に韓国の正使として日本にきた趙泰億《ちようたいおく》の子孫である。  [#小見出し]昔も二つの朝鮮  毛利氏の前に、本州西部から九州北部を領していた大内氏の先祖は、朝鮮からきたということになっている。  推古天皇の十九年(西暦六一一年)、百済《くだら》国の琳聖太子《りんせいたいし》が、周防国多々良浜について、多々良姓を名のっていたが、これが大内氏の先祖である。足利時代、対朝鮮の外交、貿易は、主として大内氏を通じてなされていた。義満のときに、朝鮮から倭寇を取りしまってくれといってきたのにたいし、義満は大内義弘に命じて、その要求を果たすことを約束するとともに、そのかわりに『大蔵経』を求めている。  そのさい、使節としてきた申叔舟《しんしゆくしゆう》が書いた『海東諸国記』のなかで、大内氏について、 「系の百済より出でしをもって、もっともわれに親しむ」 と書いている。大内氏が百済の血をうけていることを自他ともに認めていたことが、これでよくわかる。これが家臣の陶晴賢《すえはるかた》にほろぼされ、晴賢は毛利元就《もうりもとなり》にほろぼされたのである。  ところで、秀吉の�朝鮮出兵�のさい、捕虜となって日本にきて、近世儒学の祖といわれる藤原惺窩《ふじわらせいか》の師となった姜睡隠《きようすいいん》というのが、朝鮮の宣祖王《せんそおう》(一五六七—一六〇七年)におくった『賊中見聞録』のなかで、毛利氏についてつぎのように書いている。 「輝元(元就の孫)の祖、代ってその地(大内氏の領土)をおそい、安芸州の広島に都し、物力の雄、倭京に擬す。その風俗を倭中に見るに、やや厚し。性すこぶる寛緩、多くはわが国人の気性ありという」  毛利の居城広島の�物力�は、京都をまねたものであるが、その風俗は、日本のなかではましなほうで、性質もゆったりとして、朝鮮人に似ている点が多いとほめられている。  朝鮮語の通訳として長く対馬藩に仕え、享保八年(一七二三年、八代将軍吉宗時代)毛利藩に転じた松原新右衛門というのは、なん年も朝鮮にいたことがあって、当時の朝鮮通であるが、これが朝鮮事情について語った珍しい文献が発見された。そのなかに書かれていることで、おもしろそうな点をひろってみると、 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一、釜山の「日本館」の敷地は、五百間に三百間(十五万坪)もあって、百間四方もある大饗応場ができている。 一、そこに日本人がいつも五百人くらい住んでいる。 一、「日本館」から、日本の里程で一里半ばかり先に石碑がたっていて、日本人はそこから先に行ってはならぬことになっている。 一、釜山の浜辺に、秀吉の�朝鮮出兵�のときに築いた城がまだのこっていて、朝鮮政府で管理している。 一、朝鮮ではシナの年号(当時は康煕《こうき》)を用いている。 一、朝鮮には砂糖がない。 一、釜山あたりにもトラが出る。トラの耳に切れ目が一つあれば、人間を一人、二つあれば二人食ったことになっているという。 一、シナの康煕帝には男の子がたくさんあって、そのうちの一人を朝鮮王にしようとしているが、そうなると今の朝鮮国王は�浪人�するほかないというもっぱらの評判である。 一、朝鮮ではいつも、臣下が二つの部族にわかれていて、一方を南方といい、一方を西方というが、今は南方が政権をにぎっている。日本の源氏、平氏と同じだ。(南北の対立は歴史的なもので、第二次大戦後にはじまったことではないのである) 一、朝鮮で、こどもがいたずらをすると、�倭奴来《ワヌオンダ》(日本人がきた)�という。日本人にたいする恐怖が、それほど深く頭にしみこんでいるというのだ。(日本でも、同じような場合に、�もうがきた�といったものだが、これは�蒙古がきた�という意味だということになっている) 一、九州の五島の先に済州島というのがある。この島の住人は、たいてい日本語を用い、日本の歌などをうたっている。今は朝鮮の領土になっているが、もともと日本からきたものが多く住んでいる。 [#ここで字下げ終わり]  このころは、�領海�という観念はほとんどなかったし、離島の支配権も確立していなかったから、長州の漁夫は南朝鮮の多島海方面にどしどし出漁したが、朝鮮の漁夫も、しばしば長州の海岸に流れついたりして、朝鮮と長州は特別のつながりをもっていたにちがいない。  済州島では、二百数十年前に日本語を話していたことがこれで証明されたのである。そこでわたくしは、韓国を訪れたついでに、この島に行ってみた。  現在、済州島の人口が約三十万で、日本人在留者が約十万というのも、これまた決して偶然の現象ではない。実をいうと、日本人が日本にきたというのだということにもなる。  [#小見出し]地からわいた神  済州島は、五島列島から約一五〇キロばかりはなれたところにある朝鮮第一の大きな島である。面積一八〇〇平方キロというから、香川県くらいだ。  古くは�耽羅《たんら》�といって独立国であった。斉明天皇の七年(西暦六六一年)に、この国の王子で阿波伎《あわき》というのが、日本に朝貢したことになっている。その後、新羅、高麗、蒙古、朝鮮などに征服されたが、蒙古はここを直轄領とし、牧馬場にしていた。今も全島いたるところに馬が放牧されているが、これは�朝鮮馬�と呼ばれるもので、首ばかり大きくて背が低い。蒙古馬ほどたくましくないのは、気候・風土のちがいで、退化したのかもしれない。  ここは富士山とその裾野ぜんたいを一つの島にしたようなもので、富士山に相当するものを漢拏山《はるらさん》といい、海抜約二〇〇〇メートル、その下に無数の小さな火山がイボのようにくっついている。  その頂上からは「南十字星」が見えるという。この星は香港より南でないと見えないものだ。  山のふもとに、�三姓穴�というのがある。この穴から、良、高、夫という三人の�神人�が�わいて出た�というのだ。  この三人が猟をしてくらしていると、ある日、東の海辺に、紫の泥で封をした大きな木箱が流れついた。これを開くと、石の箱がはいっていて、そのなかから紫の衣をきて紅の帯をしめた一人の老人と、三人の処女と、いろいろな家畜の子と、五穀のタネが出てきた。  その老人がいうには、「自分は日本の神の使いであるが、さきにこの国を開くため、神の子三人をおつかわしになったところ、配偶がなくて困っているときこしめされ、さらにこれら三人の女をおくって大業をなさしめようという思召《おぼしめし》である」といって雲のなかに姿を消してしまった。これが耽羅国の王室の祖となったというわけで、�天孫降臨�の済州版ということになる。  いずれにしても、支配者の祖先が天からおりてきたという伝説はどこにでもあるが、地中から�わいて出た�というのは珍しい。  この�三姓穴�には、わたくしも行って見たが、松林のなかに小さな穴があいていて、そのそばに、三人の�神人�をまつったお堂がある。年に一回、良、高、夫の姓を名のるものがここにあつまってお祭りをするという。  この近くにモダンな観光ホテルができていて、わたくしはそこに泊まったが、翌朝、すさまじいカラスの声に目をさました。窓を開いてみると、この�三姓穴�の森は、真っ黒なカラスの大群でおおわれていた。  離島というものは、歴史の縮図であるとともに、古い風俗、習慣、言語などを保存する博物館のような役割りをする。一度伝わったものは、容易にとけこんだり、変質したりしないのである。琉球に日本の古語がそのままのこっているのもそのためだ。  済州島では、日本語と同じように、語尾に「ます」や「か」をつける習慣が古くからあった。また縫いものをするのに、朝鮮ではハリをタテに動かすが、済州島では日本式にヨコに動かし、こどもを負うにも、細い帯をつかう。  ここにはまた、一夫多妻の風習があって、日本に併合されてから、戸籍を調べたところ、第七妻くらいまでいたのが珍しくなかったという。むろん今はちがう。  戦前、ここと大阪、釜山、木浦とのあいだに定期航路がひらかれていたが、戦後もここから日本行きの�定期便�が出ていた。もちろん非合法のものだが、船賃は一人三万円ていどで、これだけ出せば、確実に日本へ運んでくれたという。  日本と沖縄との距離は「三か月と三時間」だといわれている。飛行機にのりこんでしまえば、羽田から那覇まで三時間で行けるけれど、渡航手続きに三か月かかるという意味だ。韓国のばあいは、その手続きがもっと面倒らしい。  そこで、日本行きの急用ができたばあいには、こんな手が用いられている。臨時船員ということにして入りこみ、日本のどこかの港につくと、上陸して用事をはたしてくるのである。前にはそのままズラかるものも出たが、つかまるまでは船が帰航できないことになったので、用事がすむとすぐ船にかえるようになったという。  またここを出て、ある時間船を動かした上、韓国の無人島につけて、これが日本だといって客を上陸させ、置き去りにしたなどという例もあるが、軍事革命後は、密航、密輸の取りしまりをきびしくし、悪質なものは、極刑にしたので、日本行きの�定期便�は、ここのところずっと欠航になっているらしい。  ときどき日本の巡視船が、済州島の沖合い六マイル、よく晴れた日には、肉眼でみえるところまでやってくるという。すると、さっそく韓国の巡視船が出動するが、スピードがおそいのでつかまらない。それに、韓国人にいわせると、日本の漁船は、「海のなかの魚までひきつれてかえって行く」、というのは、集魚灯をつかって漁をすることをいっているのだ。  しかし、島民の対日感情は、わたくしのうけた印象では、決して悪くない。日本とのつながりが強いからだ。�小包み貿易�は今もさかんにおこなわれている。大阪の鶴橋にある「国際マーケット」の韓国人は、ほとんど済州島出身で、東京・大阪に「済州島人協会」をつくり、この島の観光開発に出資したり、�ミス・済州�をえらんで、福岡に送ったりしている。歌手の小畑実、フランク永井、拳闘の高山一夫は済州島系で、テレビもラジオも、日本の放送がそのままはいる、というよりも、ほとんど日本の放送しかはいらないという。  [#小見出し]最大の名物は女  神功皇后の大叔父にあたる田道間守《たじまもり》というのが、垂仁天皇の九十年(西暦六一年にあたるが、この天皇の在位は九十九年におよんでいる)、命を奉じて、�常世国《とこよのくに》�に行き、�非時《ときじく》の|香 菓《かぐのこのみ》�を求めてかえってきたところ、天皇はすでになくなっていたので、悲しみのあまり死んでしまったということになっている。  この「非時の香菓」はミカンの一種で、常世国は済州島だろうといわれている。朝鮮半島の近くでミカンのとれるのは、この島しかないからだ。  なるほど、済州島の南端に行くと、伊豆半島のような感じで、ミカン畑があるし、ハマユウやサボテンもちゃんと育っている。風が強いので、ミカンの木は谷間にうえてあるが、出来はあまりよくない。それでも珍しいとみえて、半島からこれを見物におしかけている。  それよりも、この島の名物は�女と石と風�ということになっている。なかでも最大の名物は女で、荒れ狂う波をくぐって海の幸《さち》をとる女たちのたくましさは�女力道山�といった感じだ。とくに肺活量の大きさは、日本のアマの比ではない。そのため、古来�女護の島�と呼ばれ、女尊男卑の風が強く、女子は早くから海に出るので、就学率が低いときいていたが、今は男女の通学姿が島中で多く目についた。いずれもさっぱりした制服を身につけている。女が頭にものをのせて歩く風習もない。  明治二十二年、日本の漁師が済州島民と争って何人か殺したという事件がおこった。その解決にやってきたのが、当時仁川の領事だった林権助(後に男爵、枢密顧問官)で、軍艦でのりつけた。そのときの乗組員の一人が、終戦当時の首相鈴木貫太郎海軍大将で、当時は中尉だった。そのさい、朝鮮の役人は、人夫を無賃でいくらつかってもいいという証明書をくれたという。漁業権をめぐる日韓の争いは、そのころからすでにあったわけだ。  一般に、済州島民は精力的、進取的で、反抗心が強く、しばしば反乱をおこし、統治しにくいところだといわれているが、一九四八年四月にも大規模の反乱をおこしている。これは終戦後のことで、日本の新聞にはあまり出なかったけれど、当時全島の人口約二十五万のなかから、約五万の犠牲者を出したというから、いかにはげしかったかがわかる。  この反乱は、韓国軍の左翼分子と島民の一部が合流しておこしたもので、島の部落の多くが、昼は政府軍に、夜は反乱軍に占領されて、南ベトナムと同じような様相を呈したのだ。道路に面して、討伐軍勇士のためにたてられた忠霊碑が多く目につく。  戦争末期、日本軍約二十万がこの島にいて、いたるところに、クモの巣のように壕《ごう》を築いていた。これがのこして行った武器を反乱軍が手に入れたのだ。かれらは足あとをごまかすため、夜間、大きなクツを逆にはいて歩いたという。  最近、島を横断する舗装道路が完成した。大統領と国会の選挙を前にして、突貫工事をおこなったのである。漢拏山《はるらさん》の中腹以上は、韓国には珍しい密林になっているが、道をつくるため、その一部を払いさげ、その金でサクラの並木をつくる計画をたて、すでに苗木を日本に注文したという。やがてここに、サクラの名所ができるわけだ。  裾野《すその》は見わたす限りススキの原である。以前はここに�火田民�が住んでいて、十年に一耕か二耕の割りで、ヒエ、大豆などを栽培していたが、今は主として放牧とカヤの採取につかわれている。ときどき、沖縄のアメリカ人が、わざわざここまでキジ撃ちにきて、一日になん十羽もとってかえるのはいいが、猟犬がわりに島の少年を雇い、誤ってこれを撃ち殺したというので、大いに物議をかもした。  牧場、畑、墓、家屋の境界に、石をたんねんにつみあげているところは、沖縄と同じである。沖縄は白いサンゴショウだが、こちらは真っ黒な熔岩だ。  島には、寺がほとんどなく、そのかわりに教会が多い。熔岩の原っぱに、こどもの絵本に出ているようなペンキぬりの小さな教会がたっている風景は、アイスランドを思わせる。  済州島のもう一つの名物はノロシである。昔は�煙台�すなわちノロシをあげる施設が、全島に六十数か所もあって、その跡が今も少しはのこっている。  ノロシは、無線電信の代用品、煙や火による非常信号で、こういう離島では、外敵の侵入を少しでも早く、全島民や島外に知らせるために、これを必要としたのである。ノロシのことを�烽燧�と書くが、�烽�は夜間火をもやすことで、�燧�は日中煙をあげることである。  ノロシの始まりは『史記』によると、周の幽王の妃|褒似《ほうじ》が、なんとしてもえがおを見せないので、王はなんとかして笑わせたいと思い、ノロシをあげさせたところ、百官ことごとく、あわてふためいてやってきた。これが王のイタズラだとわかったときのかれらの顔を見て、妃ははじめて大いに笑ったというのだ。  日本では、『日本書紀』によると、天智天皇の三年(西暦六六四年)に、 「この年、対馬島・壱岐島・筑紫国などに、防と烽をおく」 と出ている。�防�は塹壕《ざんごう》で、ともに朝鮮の帰化人を使役してつくったものである。  ノロシのことを�狼煙�とも書くが、『和漢三才図会』では、その理由をつぎのように説明している。 「けだし、狼糞《ろうふん》は煙気直上し、烈風ありといえども、ななめならず」  オオカミのクソがそういうあらたかなものとは信じられないし、イヌのクソでもかわりはないと思うが、それよりも考えさせられるのは、こういった離島のありかた、その防衛、離島人気質というものである。  [#小見出し]ロマン・キムの数奇な運命  日韓併合をいちはやく献策したのは山県有朋だということになっているが、当時日本の軍部や政界の首脳部、特に長州系人物の頭には、日本の防衛、さらに大陸への発展の足がかりとして、朝鮮問題の解決が、最大の関心事となっていたことはいうまでもない。ただし、文官の伊藤博文を統監に任じて、�元帥待遇�とし、朝鮮における兵馬の権を与えることに、山県は絶対反対であった。そのため、明治天皇のご前で二人は組うちまで演じたというが、けっきょく、天皇の軍配は伊藤のほうにあがった。  そこで、伊藤は身を挺してこの仕事にとりくみ、日韓併合を前にして、ハルビン駅頭で、朝鮮人|安重根《あんじゆうこん》のために殺されたのであるが、安重根は応七ともいって、黄海道の出身である。北朝鮮の人は昔から気性が荒い。彼はウラジオストクで反日運動をつづけているうちに、博文の暗殺を思いたったのである。これが成功したあと、その同志で逮捕をまぬかれたものは、たいていロシアに亡命した。  現在、ソ連の文壇で、唯一の推理小説作家として人気を博しているロマン・キムというのは、そういった反日朝鮮人の二世で、慶応普通部の出身だが、そのころの学友に志賀直哉の弟直三がいたことは、前にもふれたが、直三が先年出した『阿呆伝』のなかに、つぎの記述がある。 「リンゴならぬタバコという禁断の実を、わたしにつまませた奴は金基劉《きんきりゆう》だった。  金基劉の父は、朝鮮の志士で、事情あってロシアに亡命しているという話だった。母親はロシア人だといっていたが、彼はあまり混血児《あいのこ》らしい顔はしていなかった。  金基劉は、わたしたちよりませたところがあり、普通部二、三年の頃すでに片想いの恋をしていた。相手がこともあろうに、杉浦重剛《すぎうらしげたけ》の娘さんで、第一娘さんの方は何も知らないらしく、まあ、子供らしい無邪気な話のわけだが、わたしたち友だちは片想いの悲しい思いのたけをきかせる彼を、少なくともわたしは羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》とがこんがらかったような気持で耳をかたむけたものだ。  彼は妙に江戸趣味をふりまわし、すしの立ちぐいの通《つう》をいったり、円右《えんう》だかの怪談ばなしのまねなどをやって、わたしたちを煙にまいた。角力《すもう》は太刀山《たちやま》びいきで、わたしもター坊(遊び仲間)も、彼の鉄砲にひとたまりもなく突き出されてしまった」  この金基劉というのがロマン・キムのことで、彼の父は李王家に仕えた史官だった。親露派だったので、閔妃《びんぴ》が殺されてからロシアに亡命して帰化し、会社をつくって産をなしたが、�敵国研究�のため、一人息子を日本に留学させたのだ。安重根は同家の書生をしていたという。  ところが、その息子は、父の期待にそむいて、日本人以上に日本人になってしまった。おまけに日本娘と恋愛をした。しかも相手の父は、のちに東宮(現天皇)に倫理を進講した杉浦重剛であった。この恋愛は、金基劉の片思いにおわったと直三は書いているが、実は重剛にも認められて、彼を養子に迎えようという話もあったらしい。このことを知った金基劉の父は驚いて、彼をロシアへ呼びもどした。けっきょく、金基劉は七歳から十八歳まで日本にいて、人間形成は日本でなされたのである。  いずれにしても、杉浦重剛と安重根のつながりは、まったく奇想天外とでもいうほかはない。  金基劉がロシアにかえってまもなく、社会主義革命がおこった。彼は日本語がよくできるので、赤軍の通訳となった。大正九年(一九二〇年)に「尼港事件」がおこったとき、彼は日本軍に捕えられて、あぶなく処刑されるところであったが、のちにナウカ社長となった大竹博吉《おおたけひろきち》に助けられた。  革命後、金基劉は、モスクワで、陸軍大学の日本語教授となり、大佐相当官にまで進んだが、作家に転向、ロマン・キムといえば、ロシア人のあいだでも有名である。  わたくしは、モスクワ滞在中、数回彼の家に招かれ、ポーランド生まれの美しい夫人の手料理をごちそうになったが、彼は日本の出版物は広くよんでいる。今でも足をふまれたりしたような場合、思わず�チクショウ�ということばが口から出るし、ときどき日本語で夢を見るという。  朝鮮人とロシア人の血をうけて、日本で人間形成がなされ、いまはロシア人となり、ポーランド人を妻として生活している金基劉という男は、いったい何国人といっていいのであろうか。単なる混血児ではなくて、一種の�合成人�ともいうべきである。  国家や民族があまりにも分化しすぎて、ナショナリズムと呼ばれる対立感情の過熱がイデオロギーと結びつき、いたるところで火をふいているおりから、こういう人物は、たいへん貴重な存在となるのではなかろうか。  それはさておいて、日韓併合の立役者は、ほとんど長州人であることは前にのべたが、その結果、初期の統監府は、さながら長州の支藩のような様相を呈した。  長州人が朝鮮で幅をきかしていたのは、統監府のおえらがたばかりではなかった。そのころ京城で、統監府御用の旅館兼料亭として大いに繁盛した天真楼の主人、新田又兵衛は下関の出身で、伊藤博文がまだ二十歳前後で奇兵隊に属していたころ、新田の隣に住み、食事からせんたくまで世話になり、ときには小づかい銭までもらっていた間柄である。  そこで、この天真楼を中心に、高官たちの大尽遊び、�恋の統監府�などといわれる場面が、展開されるにいたったのだ。  [#小見出し]博文をめぐる四人の女性  いつか新橋の映画館で、「明治天皇と日露大戦争」という映画を見たが、わたくしの隣の席に、ひとりで映画館などへはいりそうもない上品な老女がいて、しきりにハンカチで涙をふいていた。  映画がおわって、電灯がついてから、彼女の顔を見ると、それは有名な新橋の料亭「田中家」の女将であった。前に彼女の身の上話を彼女自身の口からきいたことがあるので、この映画を見て泣いた理由が、すぐにのみこめた。  この女将の本名は樋田千穂《ひだちほ》といって、大阪弁護士会の会長をしていた樋田|保煕《やすひろ》と北の新地の芸者とのあいだにできた女子だが、俳句は高浜虚子について修業し、若いころは『萬朝報』の懸賞小説に応募して当選したこともある才女で、晩年には著書もなん冊か出している。その一つ『草もみぢ』のなかに、こんなことが書かれている。  明治三十三、四年ごろ、大阪の財界、花柳界では、藤田組の藤田伝三郎、ガス会社の片岡直輝、日本棉花の志方勢七などというのが幅をきかせていた。この連中が、伊藤博文を大阪にむかえて歓迎の宴をはった。そのさい、南と北の芸者を総動員して、�みられ�というのがおこなわれた。芸者がずらりとならんで、客の気にいったのを選ばせるのである。これで選ばれたのが�小吉�と名のって芸者に出てまもない樋田千穂であった。 「藤田伝三郎さんが、それから一年ほどたって後に、伊藤公の助力を求めるために、私をノシつきで伊藤公へお使いにさしむけた」のであるが、これは彼女自身で書いていることだからまちがいない。  新橋の映画館で、スクリーンにあらわれた博文の姿を見て彼女が泣いたのは、むかしを思い出してのことであろう。徳川時代の汚職のナンバー・ワンは田沼意次《たぬまおきつぐ》であるが、彼の権力を利用しようとする連中は、金銀ではたいして効果がないというので、生きた舞い子を盛装したまま大きな箱におさめ、おもてに�京人形�と書いて、田沼におくったという。明治にはいって、同じ方法が、新政府の最高権力者にとりいるために、新興財界人に用いられたところを見ると、人間が人間にたいしてつかう手は、時代がかわっても、たいしてかわらないことがわかる。  その後、六十余年を経た昭和三十八年、ニセ札横行のあとをうけてでた新しい千円札に、この伊藤博文が明治の�元勲�として登場するにいたった。これも�人づくり�の一つの手段として役立てようというのであろうか。  博文が日本を代表して朝鮮にのりこみ、「日韓保護条約」を結んだのは、明治三十八年十一月十八日である。それから一度帰国して天皇に報告した上、翌年二月、改めて初代統監として韓国に赴任したのであるが、その随員中には、多くの文武官、秘書官古谷久綱のほかに、日本橋の料亭「大又」の娘|おかね《ヽヽヽ》、琵琶歌芸者として名を売った|おたけ《ヽヽヽ》、看護婦の本職よりも美人として艶名をうたわれた|おりう《ヽヽヽ》の三女性が加わっていた。少しおくれて、新橋の芸者で|おこと《ヽヽヽ》というのが、築地の料亭「ひさご家」の主人にともなわれて、京城についた。|おこと《ヽヽヽ》は、のちに日本郵船会社の社長となった近藤廉平が三千円で身うけして、博文に献上したのだといわれている。  これら四名の女性が、統監邸で博文の寵を争ったのであるが、看護婦の|おりう《ヽヽヽ》がまず劣敗者として内地へ追放された。優勝して�統監府の淀君�といわれたのが|おこと《ヽヽヽ》である。総務長官として博文の信任をえていた鶴原定吉《つるはらさだよし》が、その地位を退かざるをえなくなったのは、|おかね《ヽヽヽ》に手出しをして、博文のゲキリンにふれたためだという。  鶴原は東大文学部を出て外務省にはいり、上海領事から岩崎弥之助総裁のもとで日本銀行理事、ついで博文が政友会をつくったときにその創立委員、明治三十四年には大阪市長として、難問題であった電気事業の市営を断行した。朝鮮からかえってから、代議士に出て、関西鉄道、大日本人造肥料、蓬莱《ほうらい》生命、中央新聞などの社長を歴任したが、大正三年、長野県に遊説中、五十九歳で死んだ。夫人の誠女史は、幕末の勤皇女性で、高杉晋作その他多くの志士をかくまった野村望東尼《のむらもとに》の血をひき、これまた有名な才女であった。  明治時代には、職歴の上で、アクロバットに近い三段とび、四段とびをしたものは少なくないが、そのなかでも鶴原のようなのは珍しいといえよう。  ところで、そのころ、統監官舎では、連日長夜の宴が張られていたが、その席順はいつも、韓国駐在軍司令官長谷川好道大将が正座を占め、一人おいて村田少将ということになっていた。そのあいだの席を与えられたのが、なんと、旅館兼料亭「天真楼」の主人新田又兵衛であった。そこで、京城の日本人のあいだでは、又兵衛のことを�新田中将�といった。又兵衛がかつて下関で青年博文の面倒を見たことは、前にのべた。明治という時代は、こういうことができた時代でもあったのだ。  [#小見出し]秀吉なみのはなれわざ  明治三十八年、対韓工作のため、勅命を奉じてのりこんだ伊藤博文が、まず第一に手をつけたのは、財政の整理、貨幣制度の改革、資源の開発、港湾道路の整備などであった。さしあたり、これに要する金をざっと一千万円と見て、日本の銀行から韓国政府に貸しつけることになった。  これまでの慣例では、こういう場合の金は第一銀行から出るのだが、当時興業銀行に遊び金があって、それに条件もよかったので、興銀では大いに食指を動かし、総裁の添田寿一《そえだじゆいち》自ら京城へのり出していった。  添田はまず、韓国の財政顧問をしていた目賀田種太郎《めがたたねたろう》に会って、その希望をのべ、伊藤にとりついでもらった。ところが、韓国の大官中に反対者が出て、この話ははかどらなかった。  そのうちに、ある晩、博文の官邸で大宴会があって、添田もこれに出席した。宴まさにたけなわというとき、博文をめぐる女性の一人、�ビワ歌芸者�として知られた|おたけ《ヽヽヽ》が姿をあらわし、そのころ流行していた「明智の湖水わたり」を演じた。  盤上に玉をころがすような妙音と美声に、満座の客は拍手を惜しまなかった。そのあとをうけて、博文がすっくと立ちあがり、そこにあった金屏風《きんびようぶ》に、給仕がもってきた一枚の紙をはり出した。これには、墨痕あざやかに、 「金壱千円也  筑前琵琶の元祖吉田竹子嬢へ贈る [#地付き]添 田 寿 一」  と書いてあった。客の視線がいっせいに、添田にそそがれた。添田は反射的に、博文の顔を見て、そこに浮かんだものをよみとった。そしてさっそく、秘書を宿に走らせて、札束をもってこさせた。今の千円ならなんでもないが、そのころの千円は大金で、興銀総裁でも、それだけのもちあわせがなかったのである。  人々が驚きの目をみはるなかで、この金の贈呈式がおこなわれた。これで、韓国側の反対も、博文のツルのひと声でふっとんで、一千万円の借款は、興銀を通じて成立した。千円は一千万円の〇・〇一%だから、リベートとしては安いものであるが、この取り引きがこういう形でなされたところに、この時代なり、博文なりの性格がよくあらわれている。  博文のこのやりかたは、はでで、大っぴらで、大胆不敵で、傍若無人で、豊臣秀吉を思わせる。立身出世というのは、出発点と到達点の距離を二乗したような形をとるものであるが、その点で日本記録をつくったのは、古くは秀吉、近代では博文で、その後、この記録は破れそうもない。とにかく、博文には�明治の秀吉�ともいうべき面があった。  ところで、この�千円贈呈�をめぐって後日談が二つある。一つは、このことが添田の母の耳にはいり、添田が呼びつけられて、ひどくしかられたこと、もう一つは、博文の死後、|おたけ《ヽヽヽ》がもっていた�千円贈呈�の書を、添田が記念のため保存しようとして、改めてまた千円出して買いもどそうとしたが、彼女はこの交渉に応じなかったことである。日清戦争の前、博文と同じような使命をおびて、李鴻章《りこうしよう》の推薦で清国から送りこまれ、対韓工作をおこなっていたのは袁世凱《えんせいがい》である。袁世凱は、貧窮から身をおこして、のちに大総統となり、一時は帝位にもついた男だけに、その手腕は博文にまさるとも劣らなかった。彼は�清国の秀吉�といえないこともない。秀吉、袁世凱の二人とも、朝鮮につながっている点がおもしろい。  袁世凱のもっとも得意とするところは、威圧と買収で、韓国の大官から訪問をうけると、車夫、馬丁にいたるまで過分のチップを与えたという。一種のPRで、その点は博文もぬかりはなかった、というよりも、植民地工作には、どこの国でもこの手をつかっている。  明治四十一年、韓国とのあいだに「第二協約」が結ばれて、日本の支配権が確立した記念に、皇太子|嘉仁親王《よしひとしんのう》の韓国行啓となった。このときの随行者は、東宮侍従公爵|鷹司煕通《たかつかさひろみち》(今上天皇第三皇女和子と結婚した平通の祖父)、総理大臣公爵桂太郎、宮内大臣伯爵田中光顕、陸軍大将侯爵|野津道貫《のづみちつら》、海軍大将伯爵東郷平八郎などという豪華な顔ぶれであった。  それはいいが、この随行者のなかで、たいへんな物議をかもしたのは田中光顕である。彼は韓国滞在中、花柳界で話題になるような遊びをしたばかりでなく、京城の骨董屋と人夫数十名をひきつれて、高麗時代の古都開城にのりこみ、国宝の一つにかぞえられていた蝋石の塔をもち出して、東京の自邸に送った。  あとでこれを知った博文は、烈火のように怒り、長文の詰問電報をうってきた。そこで光顕は、この塔を韓国王から宮内省へ献上するという形をとろうとしたが、韓国側が同意しなくて、この事件はけっきょくウヤムヤとなった。  現在おこなわれている日韓交渉には、韓国から日本がもち出した文化財の補償請求の一項目があるが、かつてこういう事実もあったことを、このさい、日本人は頭に入れておく必要がある。  [#小見出し]大義名分に反した併合  独立後の韓国に行って、日本人についての感想をきくと、はっきり二つにわかれている。一つは、日本人が韓国に関心をもちすぎるということ、もう一つは、韓国にたいして冷淡でありすぎるということである。  前の場合は、今の韓国は独立国で、日本は外国なんだから、属領意識をすててもらいたいというわけだ。あとの場合は、共産主義の侵略にたいし、韓国は国をあげて防波堤の役割りを果たしている。人口二千六百万の小国で、六十余万の常備兵をもち、ソ連、中国、アメリカについで世界四番目の軍事国家となっていて、それが韓国の財政や文化を圧迫し、復興、発展を足ぶみさせているのであるが、この事実を日本人は見て見ぬふりをしている。今の日本が異常な経済成長をほこり、ありあまるレジャーを楽しんでいられるのは、韓国の犠牲においてなされていると見られないこともない、というのだ。  これら二つの意見は、まったく反対のようにみえるが、実はタテの両面である。日本人も韓国人も、お互いに関心をもちすぎるということからきている。  それだけこれら両国、両民族は、種族的、文化的、経済的につながっている、どんなに憎しみあってもわかれることのできない�運命共同体�の関係にあるということだ。この点で、フィリピンやタイの場合とはすっかりちがっている。 �日韓併合�前の日韓関係は、今とは逆に、韓国は日本の国防最前線で、清国や帝政ロシアの侵略からこれを守ることが、日本の最大の国是となっていて、そのために日本は過重の負担に苦しんできたのである。明治以後、日本が直面した重要な問題や事件は、国際的な面はもちろん、国内的にも、たいてい朝鮮がからんでいる。明治十年、西郷隆盛を中心としておこった「西南の役」は、対韓政策についての国内意見の分裂に端を発しているし、明治十八年には、自由党左派の大井憲太郎、小林樟雄《こばやしくすお》らが、韓国独立党の朴泳孝《ぼくえいこう》、金玉均《きんぎよくきん》らを助けて韓国内政改革を目的とするクーデターを計画、武器や資金を調達中、ことあらわれて、関係者百三十名が一網打尽に検挙された事件がおこっている。  これは自由民権運動の紅一点ともいうべき景山英子《かげやまひでこ》(のちに福田)とか、天才詩人|北村透谷《きたむらとうこく》も関係している。当時、透谷は十六歳だったが、彼の属していた三多摩地方の自由党グループで、このクーデターの資金獲得のため、強盗の計画が立てられ、彼も参加を求められたけれど、決行前に、この運動からはなれた。それから四年後に彼が書いた長詩『楚囚之詩』は、�日本最初の革命的ロマン主義の詩�ということになっているが、これはこの事件を背景にして生まれたものである。彼は東京の数寄屋橋に近い泰明小学校の出身で、�透谷�の号は、スキヤからきていることは、改めていうまでもない。  この事件は、首脳部の多くが大阪で逮捕されたので、�大阪事件�と呼ばれているが、これを転機として、朝鮮を前線とする日本の大陸政策は、民権論から国権論に、民間志士の自主的な動きから、政府や官僚が立てた�国策�に重点がうつっている。思想的にも、資金面でも、本国政府や出先官憲と、陰に陽につながった動きが活溌になり、それが日清、日露の戦争にまで発展したのである。  それにしても、明治以後、日本は国をあげて、�日韓併合�の線にそってすすんできたわけではない。日露戦争後の新聞雑誌では、日本の対韓政策がもっとも重要な論議の対象となっているが、そのなかには、併合反対論も珍しくない。併合を�軽挙妄断�と見るもの、合併は日本を破産にみちびくと論じたものさえ出ている。  もともと韓国の独立を主張してきたのは日本であった。むろん、これは清国やロシアに韓国が吸収されるのを防止するのが目的で、ことばをかえていえば、日本の実力が不足していたからであるが、日露戦争で日本が勝利をえてから、�独立�から�保護国�に、さらに�併合�へのコースを進んだのである。しかし、そこに矛盾があった。大義名分に反する面があった。  伊藤博文は�保護国�という形で押すことが、韓国人の幸福でもあり、日本の利益でもあると考えていた。併合問題がおこっても、 「韓国皇室の保持をいつも中外に声明している口の下から、皇帝廃止などできるものではない」 といっていた。  しかし、この形では、現実を処理することが不可能だということになって、ついに併合にふみきったのであるが、当時のマスコミは必ずしも、併合を支持しなかった。  それに、この併合は、�熟柿のおちるがごとく�にはいかなかった。無理があった。併合実現後、その最大の�功労者�であった博文が韓国から去ったのも、一つはそのためであった。 [#改ページ] [#中見出し]朝鮮統治二つの世論   ——二つの世論にあらわれている日本の対韓政策失敗の原因——  [#小見出し]島国からの脱皮  明治三十八年から四十三年まで、韓国は日本の�保護国�ということになっていた。  今では、世界じゅうの旧植民地がほとんど独立してしまったし、�保護国��保護領��従属国�などと呼ばれている地域も、アラビア半島などに、ほんの少しばかりのこっているにすぎないが、明治末期には、このような形の半独立、半主権の地帯が多かった。 �保護国�というのは、第三国からの侵略を防衛する義務や外交の権利が、保護する立場にある国にゆだねられている国のことである。�従属国�というのは、内政の面ではあまり干渉をうけないが、外交関係は宗主国にまかせている国のことである。どっちにしても、たいしてちがいはなく、この時代には、世界各地に、こういった準禁治産的な国がたくさんあった。  この関係は、資本主義の発達した強大国と、半未開の原料国とのあいだに成立するのが普通である。しかし、フランスとモナコ、イタリアとサンマリノのように、文明国相互のあいだでも、国力、国土、人口などの点で、格段にちがっている国が隣接している場合に成立することもある。  当時�保護国�の見本のようにいわれていたのは、北アフリカのチュニジアである。国王はあってもないようなもので、軍事・外交は一切フランスににぎられているばかりでなく、内政面においても、九人の閣僚中、七人までがフランスの任命したフランス人であった。それでいて、この�保護せられた独立国�とフランスとの関係は、雑誌『太陽』の明治四十三年一月一日号に、浅田江村《あさだこうそん》の書いているものによると、「一種特別の政治的催眠術」にかけられたような状態にあった。  だが、その後まもなく、ここでも反仏独立運動がおこり、何回も血を流したあげく、一九五七年には、ついに王制をも廃止し、有名なブルギバが初代大統領に就任した。  世界各地に属領や保護領をもっとも多くもっていたのはイギリスで、これらの統治に驚嘆すべき能力を発揮したのもイギリスである。それというのも、もともと英本国そのものが、アイルランド、スコットランド、ウェールズとの�複合国家�としてスタートしたからであろう。このなかでアイルランドは本土と海をへだてていること、海外移住者の多いこと、反抗心の強いことで�イギリスの朝鮮�ともいうべきものだが、これまた果敢な独立運動をつづけ、武装蜂起までして、ついにその大部分が英本国から分離し、一九四九年「エール共和国」と名のって完全な独立国となった。  日本と韓国との関係はどうなっていたかというと、軍事や経済の面では、日本が断然優位にあったけれど、歴史や伝統の上では、韓国のほうがむしろ上だと、少なくとも韓国側では考えていた。また他の国々との比較において見ても、古い学問・文化では、日本は清国に劣るし、新しい学問・文化では、日本は欧米諸国と比べものにならなかった。そういった点からいうと、当時の日本にはまだ韓国を�保護�する資格がなかった。琉球や台湾の場合とは、まったく条件がちがっているのだ。  現在�衛星国�と呼ばれているのは、�保護国�の形をかえたものである。第二次大戦後、ソ連はその周辺に多くの�衛星国�をつくった。これらはいずれも、イデオロギー的に結びついているということになっているが、実はソ連の武力のクサリでしばりつけられているのだ。そして、これらもまた、だんだんとソ連からはなれつつある。少なくとも独立性を高めてきている。  これらの�衛星国�が独立して行く過程を見ると、二つのコースがある。一つはソ連と地理的に直接つながっていない国々、つまり、ソ連の軍事的圧力を直接にうけていない国々の場合である。ユーゴやアルバニアがそれだ。もう一つは、歴史、伝統、生活水準などの面で、ソ連に劣らないというよりも、むしろ上位にあると見られる国々である。ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアなどがこれにあたる。  いずれにしても、こういう形で、一つの国が他の国の主権の全部もしくは一部を長期にわたってとりあげることは、理由や形はどうあろうとも、実際問題としてむずかしくなってきた。それだけ人類文化が、ぜんたいとしてすすんできたのだともいえよう。  ところで�日韓併合�は、日本に新しい事態をもたらした。それは日本がこれまでのように�島国�でなくなったことだ。半島に領土をもつことによって、清国やロシアと陸地でつながったため、日本海や玄界灘のもつ意義や役割りがちがってきた。日本の軍備も�島国�的なものでは守りきれなくなった。  この形は、現在アメリカが太平洋をへだてて、日本、台湾、韓国などとつながっているのと似ている。当時の日本にとっての日本海が、今のアメリカにとっての太平洋のようなものになったのだ。  [#小見出し]世論は極端に対立 �日韓併合�の当時、日本側の世論はどうなっていたであろうか。  尾崎行雄は、 「朝鮮問題のために、日本は再度まで国運を賭して戦った。かほどまでわが国にとって重要なる朝鮮は、適当なる時機においてこれが最後の解決を下すこと、すなわちこれをわが国に合邦することは理の当然である。いまさら外国の思惑如何を気がねして尻ごみするがごときは自家撞着《じかどうちやく》である。  同じく合邦というも、その国民を強制して合邦するのと、その国民をして喜んで合邦をこいねがわしむるとは、ひじょうな差異である。わが国が朝鮮を合邦するには、なるべく都合よく、なるべく円満に、和気藹々《わきあいあい》のうちに合邦するを要する」  これはそのころの日本国民の最大公約数的な意見というよりも希望をのべたものであるが、現実はそうはいかず、相当強い武力的威圧と強制を必要としたことはいうまでもない。  鶴原定吉は、 「朝鮮のことは、要するに気長く、急がず、あせらず、歩一歩着々と進むを可とする。  朝鮮の風土は、シナよりもむしろ日本に似ている。シナのように単調でない、変化がある。ゆえにその国民の気風もまた自ら変化を好むのではあるまいか。かくのごとく朝鮮の気風がすでに日本人に近いのであるから、日本がシナを化し、もしくはシナが朝鮮を化するよりは、日本が朝鮮を化することは、はるかに容易である。  これまでは通訳政治、通訳裁判だから成績があがらない。これには在朝鮮の日本官吏をして朝鮮語を学ばしむべしという論者もあるが、それよりもむしろ、朝鮮人をして日本語を学ばしむるほうが、はるかに容易で、かつ効果があると思う。  わが輩の見るところでは、産業を開発するには、まず警察制度を完備することが必要である。警察制度を完備せずして産業の開発をはかるは、なお無底の桶《おけ》に水をくみこむがごときものである」  鶴原は韓国統監府の総務長官であっただけに、官僚の意見を代表するものと見てよい。事実、そのころの韓国は、治安がきわめて悪く、日本人が安心して住めるのは、守備隊のいる近くか、停車場の周辺に限られていた。  松田正久は、 「朝鮮の統治は、同化の大方針をもって進むべきである。  まず第一に、なるべく早く朝鮮全土に日本語を普及せしむること、第二には、判検事自身たとえ直接に朝鮮人を審問するまでにいたらなくとも、通訳者の言の真実か否かを知察しうるくらいには、朝鮮語の素養を有していることである。  目下のところは、朝鮮人はほとんど財産権をも確認せられていないのであるから、警察力をもって保護すべき財産もあるまい。ゆえに警察力の整備は、財産権の確認と相ともなうにあらずば、その効果はあげえないであろう」  松田は原敬と並び称せられた政党政治家だけあって、鶴原とは対照的な意見をのべている。そのころ、朝鮮人の一日の生活費は五銭で足りた、こういうところへ多数の日本人を入れようとしても、うまくいくはずがない、と彼はいっている。  竹越与三郎《たけごしよさぶろう》は、 「京城は、三韓の首都たるには適当の地であったろうが、今後の朝鮮経営は満州を除外することはできないから、首都は平壌にうつすべきである。  朝鮮をただちにわが郡県とするは愚かである。農業地植民地たらしむべき性質のものだ。朝鮮人はただ良き農民となれば、それでよろしい。農業上の知識さえあれば、その他の知識は不必要である。漢文を教える必要もなければ、その他の高等学術を授ける必要もない。英国はインドに高等教育をほどこしたがために、今日となっては、紛擾《ふんじよう》を増すの因となって大いに困っている。これはマコーレーなどの一大失策である。  日本語の普及をはかることも考えものである。日本語の書物には、仏国大革命を書いたものもある。アイルランドの独立論を書いたものもある。ポーランドに同情して、その独立に賛成し、激励せるものもある。朝鮮に日本語を普及することによって、日本の益するところは、商業の方面には多少これあらんも、これを統治する上より見れば、かえってこれ後年の禍因たるべきものである。しかも、その禍いの発するや、あえて遠き未来にあらずして、恐らくは二、三十年ののちであろう」  このように日本の世論は極端に封立していた。そのなかにあって西園寺公望《さいおんじきんもち》の側近で、典型的なリベラリストと見られていた竹越が、こういう大胆な意見をはいているのをなんと見るべきであろうか。  これが発表されてから、三十六年目に韓国は独立した。  [#小見出し]命とひきかえに妻を  植民地統治というのは、男女関係と同じで、手に入れることよりも、わかれることのほうがむずかしい。手に入れるのは、権力、金力、ときには暴力をもってしても、ある期間これを確保することが可能であるが、手放さねばならなくなったあとで、かつての被統治国から、どの程度に親愛感をもたれるか、ということが問題である。  その点で、比較的成功しているのがイギリスである。インド、セイロン、ビルマ、ガーナ、近くはマレーシア、ウガンダ、ケニアなどが独立したあとを見ると、英本国とのあいだに、経済的、文化的なつながりをのこしている。これに反して、オランダとインドネシア、ベルギーとコンゴの場合などは、文字どおりのケンカわかれで、あとにのこるのは相互の憎しみだけだ。フランスの手ぎわは、両者の中間というところだ。  それでは、日本の場合はどうかというに、朝鮮にかんするかぎり失敗であった。少なくとも、台湾や南洋諸島のようなわけにいかなかった。というのは、朝鮮には独立の民族意識と歴史と文化があったからだ。  それよりも、日本の対韓政策が失敗した原因は、第一に、朝鮮人とはこういうものだという先入観をもってのぞんだこと、第二に、何から何までシナのまねをしたことである。  伊藤博文が、統監として文武百官をともない、韓国にのりこんだとき、�威儀堂々�ということばで表現されているが、コッケイなくらい虚勢をはったという。これは明らかにシナ式である。シナと韓国とのあいだには、歴史的にも、国力の上でも、大きな落差があったから、それでもよかったが、当時の日本は、韓国人の目から見れば、ただの�成り上がりもの�にすぎなかった。  これについて、大隈重信《おおくましげのぶ》は、そのころすでに、つぎのように語っている。 「韓国は上古の日本の植民地である。あるいは韓国の歴史からいったならば、日本の国土は韓国の植民地だというかもしれない。  ある時代においては、日本より文明の程度が高かったので、その文明を日本に移したことがある。建築家も、宗教家も、学者も、みな韓国から聘《へい》してきたのである。日本の建築で、ひじょうに重きをおくところの奈良の法隆寺などの建築は韓国式で、韓国の人をやとってやったのである。  そこで韓国統治は、実に日本民族の同化力の有無を決定する試金石ということになる」  ところで、このテストはずっと前にも一度おこなわれている。『日本書紀』によると、朝鮮の南部、今の釜山の近くに首府のあった任那《みまな》が日本の保護国となったのは、崇神天皇の六五年(西暦前三三年)で、これが欽明天皇の二三年(西暦五六二年)までつづいたということになっているが、ほんとうは四世紀中ごろから約二百年後に任那は新羅《しらぎ》に併合されてしまった。  西暦五六一年、新羅と百済《くだら》の使者が日本の穴戸《あなと》(のちの長戸)にきたとき、日本側の新羅にたいする待遇が悪かったので、その翌年、新羅は任那の日本府を占領した。百済が日本に仏教を伝えてから十年後のことである。  そこで、欽明天皇は、紀男麻呂《きのおまろ》を将とし、河辺瓊缶《かわのべのにえ》を副将として、軍を半島に送り、任那を回復しようとした。この戦いで、日本軍は惨敗し、捕虜になった調吉士伊企儺《つきのきしいきな》というのが、新羅軍の取り調べをうけたあと、しりをまくらせられ、 「日本の将、わがしりをくらえ」 といえといわれた。すると、企伊儺は逆に、 「新羅王、わがしりをくらえ」 と連呼し、その場で殺されたという話は、戦前は教科書などにも出て有名である。彼の妻の大葉子《おおばこ》も、いっしょにつかまって殺されたが、死にぎわの態度は実にりっぱだったという。  ところが、このときの話で、それほど知られていないものが一つある。これまた妻とともに捕虜となった副将の河辺瓊缶が、新羅の将から、 「夫婦とも助けるというわけにはいかないが、いったい、お前は自分の命と妻の貞操と、どっちが惜しいか」 と問われて、命のほうを選んだ。そこで、新羅の将は、瓊缶の目の前で、彼の妻を犯し、そのあと彼女を自分の妾にした。  この取り引きで、瓊缶は釈放され、生きて日本の土をふむことができた。それからなん年かたって、彼の妻も許されて帰国したので、瓊缶はよりをもどそうとしたが、彼女はこの申し出をてんでうけつけなかった。  この女は、甘美媛《うましひめ》といって、坂本臣《さかもとのおみ》の娘であると、『日本書紀』に出ている。これらの話は、果たして事実あったことかどうかわからないが、こういう話をちゃんと記録にとどめているところに、この時代の日本の性格がよくあらわれている。  秀吉の�朝鮮出兵�のときに、韓国の女性が命をすてて貞操を守ったという話が、日本の記録にのこっていることは前に書いた。そういえば、伊企儺は百済の帰化人の子孫だから、その妻の大葉子も半島人の血をひいているのかもしれない。ということは、祖国にたいする忠誠心のはげしさとか、夫にたいする貞操観念の強さとかいうものは、必ずしも日本民族の専売ではないということだ。  いずれにしても、この時代の日本の女性は、男性よりも強かったといえないまでも、男性にひけをとらなかったようである。  [#小見出し]変らぬ征服者の心理  竹越与三郎が、日本の対韓政策として、韓国人を教育しないこと、朝鮮人に日本語を教えないことを強調したことは前にのべた。  豊臣秀吉は、朝鮮を征服したあと、どういう方針に基づいて、これを統治する計画を立てていたか。  小西行長のひきいる第一軍が、釜山に上陸したのは、文禄元年(一五九二年)四月十二日で、三月には秀吉自ら肥前名護屋の大本営にむけて出発しようとした。そのさい、側近のものが秀吉に、 「戦争がはじまると、明国や朝鮮から、いろんな通信が続々やってくるでしょうし、その返事も出さねばなりませんから、だれか文才のあるものをつれていかれてはいかがですか」 といった。これにたいして秀吉は答えた。 「そんな必要はない。明国人や朝鮮人に、その国の文字をすてて、わが国の�いろは�を使わせるといい。髪その他の風俗、習慣も、日本ふうに改めさせるつもりだ。朝鮮人は日本人よりもよく字を知っている。いま手もとにおいて使っているものも、日本人よりはすばしこくて役に立つ」  これは林羅山《はやしらざん》の『豊臣秀吉譜』に出ていることで、つくり話だと思われていたが、当時秀吉の最高ブレーンであった安国寺恵瓊《あんこくじえけい》の手紙が厳島《いつくしま》神社で発見されて、事実であることが証明された。とにかく秀吉はこのように徹底した日本化主義でおし通すつもりだったらしい。�大東亜戦争�においても、この精神がうけつがれ、各地で日本化政策が強行された。この点からいっても、�大東亜戦争�は�朝鮮出兵�の二の舞いであったといえよう。  戦後『風にそよぐ葦』などを書いて�反軍作家�の代表のように見られている石川達三が、海軍報道班員として戦地からよこした通信で、 「勝利者は、相手がわかろうがわかるまいが、自分のことばをつかう権利をもち、敗亡者はそのことばをつかう義務があるらしい。私はシンガポールの英人たちに日本語をおぼえさせることに、私流の勝利感を満足させることができるであろう」 とのべて、秀吉とだいたい意見が一致している。というよりも、�征服者�の考えることはいつも同じだ。敗戦後の日本では、立場が逆になり、すさまじい英語ブームを生んだことは、改めていうまでもない。  しかし、強気の秀吉も、現実の問題に直面すると、通訳の必要を感じ、派遣軍の各司令部にこれをつけたことは、�大東亜戦争�の場合とかわりはない。秀吉自身も、ふだんつかう扇子《せんす》の面に、日韓会話の対訳を書きこんでいたというから、少しは朝鮮語がわかるようになったらしい。  当時は通訳のことを�通言判官�といったが、これは恵瓊の命名である。またいけどりにした捕虜を通訳としてつかったが、このほうは�生口通事�といった。  名護屋の大本営には、恵瓊のほかに、|西笑 承兌《さいしようしようだ》、玄圃霊三《げんぽれいさん》、惟杏永哲《いきようえいてつ》という三人の僧侶が、秀吉の側近にあって、秘書兼参謀のような役割りを果たしていた。  恵瓊は芸州の生まれで、十一歳のとき京都に出て東福寺で修行したものだが、博学雄弁で、僧侶のくせに武事を談ずることが何よりも好きだった。毛利輝元の側近となって、織田信長と足利義昭の和睦をあっせんした。さらに、秀吉が高松城を攻撃中、本能寺の変がおこり、秀吉はさっそく輝元と休戦、京都にかえって明智光秀を討ったが、この休戦をまとめたのも恵瓊である。これで秀吉に重宝がられ、その後は仏教をすてて、軍事専門となり、関ケ原の役には、一軍をひきいて石田三成の側についたが、戦争がはじまるとおじけづいて逃げまわり、ついにつかまって処刑され、その首が三条河原にさらされた。  秀吉の全盛時代には、恵瓊は伊予で六万石を領し、利権にありつきたいものは、彼を通ずれば目的を達するというので、門前市をなしたという。  西笑承兌は、相国寺、南禅寺、鹿苑《ろくおん》寺(金閣寺)の寺主を歴任した高僧で、秀吉が東山に大仏殿をつくったとき、また朝鮮で敵の死体から大量に鼻をそぎとって送ってきたのを埋めて供養したときにも、導師の役をつとめた。彼も秀吉の権力を背景にして、全国寺社の総元締めとなっていたが、恵瓊のように軍事には深入りしなかったので、家康の時代にも生きのびて、慶長十二年すなわち朝鮮との国交が回復した年に、六十歳でなくなっている。  かように、�朝鮮出兵�がはじまると、一流の僧侶が�軍属�のような形で徴用されて、大本営勤務を命ぜられたのであるが、前線においても、僧侶が各司令部に配属され、宣伝、宣撫、諜報、通訳などの仕事をさせられた。�大東亜戦争�がおこって、学者、作家、評論家、音楽家、美術家、映画人、写真家、芸能人などが大量に動員されたのと、まったく同じである。当時は僧侶がこれらの機能を兼ねていたのだ。  [#小見出し]ウソで固められた外交 「外交とはウソをつくことである」ともいわれているが、とくに日本の対シナ、対朝鮮外交にいたっては、ほとんどウソで固められてきたといっても、いいすぎではない。  このウソに二種類あった。一つは、通訳がわざと誤訳したことで、もう一つは、外交文書を改作したり、偽造したりしたことである。双方の意志をそのまま相手国の主権者につたえたのでは、国交をつづけることができなくなる恐れがあるからだ。それというのも、この時代のアジアの国々やその主権者たちは、たいてい自尊心肥大症にかかっていたが、これはシナの中華思想、周囲の国々をすべて野蛮国あつかいするところから出たもので、朝鮮も日本も、多かれ少なかれ、この思想に感染していたのだ。  第一次�朝鮮出兵�に失敗して、国力、体力ともにすっかり消耗してしまった秀吉に、第二次�朝鮮出兵�を決意させたのは、前にのべた西笑承兌だといわれている。明帝の講和文のなかに、秀吉を「日本国王に封ずる」とあったのを、承兌が秀吉の面前で、その通り読みあげたのがいけなかったのである。ということは、この種の外交文書を読む場合に、適当にかげんすることが、これまで慣例になっていたということだ。  これを常習的におこなっていたのが対馬藩である。琉球と同じように、産業らしいもののない同藩では、日本、朝鮮、シナの三角貿易によって藩の経済をささえてきたのであるが、�朝鮮出兵�でそれがすっかりダメになった。なんとかして日鮮の国交を回復したいと思い、朝鮮の漁民をつかまえ、これにそのむねを記した文書をもたせて送りかえしたところ、朝鮮のほうから、つぎのような返事をよこした。 「壬辰(�朝鮮出兵�の年)以来、わが国には天朝(シナ)の軍隊が駐留し、その管理下におかれているので、勝手に講和はできない。貴国としては、旧悪を改め、誠意をつくし、天将(駐留軍司令官)の疑いをとくほかはあるまい」  そのうちに、朝鮮のほうでも、講和の意欲がわいてきた。というのは、明の駐留軍が乱暴をはたらいて、手におえなくなったからだ。  慶長十年というと、�関ケ原の役�の五年後であるが、家康は朝鮮の捕虜三千人を送りかえした。これに便乗して、対馬藩では再度朝鮮に講和を求めた。そのさい、朝鮮側の示した条件は、 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一、まず家康のほうから朝鮮に国書を送ること 一、秀吉の軍隊が朝鮮に攻めこんだとき、朝鮮の先王の陵をあばいたが、その犯人をつかまえて送ること [#ここで字下げ終わり]  対馬藩でこれをどう処理したかというと、第一の要求には、家康の名による国書を偽造し、第二の要求には、適当な囚人を物色して、陵をあばいた犯人に仕立てて送った。朝鮮側でこの犯人を調べたところ、白状しない、それに年齢があわないので信用しなかった。しかし、これでいちおうメンツが立ったので、朝鮮側も講和にのり出してきた。  かくて、二年後に日鮮の国交が回復した。その後、修好を深めるため、対馬藩主|宗義智《そうよしとも》が朝鮮に出した手紙のなかで、家康が大阪城を攻めて豊臣家をほろぼしたのは、朝鮮の仇を討ったのも同じだと書いているが、これに朝鮮側はつぎのように答えている。 「大阪の戦争は、日本国内の勢力争いで、別にわが国の恨みを報いてくれたわけではない。しかし、秀吉の悪業きわまり、天理に背いているので、家康をしてこれを誅滅せしめたのであろう。したがって、わが国がその功を認め、祝賀の使いを出すことは、理由のないことでもない」  のちに、幕末の探検家近藤重蔵が、対馬藩に伝わっている朝鮮国書の写しと、幕府で保存しているものとを照らしあわせたところによると、内容がずいぶんちがっていることがわかった。対馬で改作した国書の原本は、明治の国史・国文学者|小杉榲邨《こすぎすぎむら》博士が所蔵していると辻善之助博士が書いているが、いまどうなっているかわからない。  将軍の称号も�日本国王�にしたり、�日本国主�にしたり、使いわけをしたようである。のちにはもっぱら�日本国大君�と書くことにしたが、六代将軍|家宣《いえのぶ》のとき、新井白石の意見にしたがって、�国王�で通すことに改めた。  いずれにしても、半島との交渉、貿易を長く独占していた対馬藩が、往復文書その他の面で、いろいろと小細工をしていたことは、幕府側にもよくわかっていたはずである。実利主義者の家康なども、わざと知らないふりをしていたのであろう。このことは、一万三千石の対馬藩が日鮮国交回復あっせんの功によって、十万石の格式を与えられていたのを見ても明らかである。  こういうことを頭に入れて、戦後の日本の対韓国、対中共、対国民政府の外交を再検討、再出発する必要がありはしないか。  [#小見出し]貧乏人はチョンガー  明治二十七年(一八九四年)六月、朝鮮に�東学党の乱�がおこり、これをめぐって、日本と清国の間がとみに緊張の度を加え、八月一日になってついに日本は、清国に戦いを宣した。  その前、日本の新聞記者が朝鮮に派遣され、仁川港に上陸すると、さっそく「新聞記者連合本部」をつくっている。そのなかには、西村天囚《にしむらてんしゆう》(大阪朝日)、久保田米僊《くぼたべいせん》(国民)、遅塚麗水《ちづかれいすい》(報知)、 福本日南《ふくもとにちなん》(東邦協会)、柵瀬軍之佐《さくらいぐんのすけ》(毎日)などの名がみえる。当時の新聞界のオール・スター・キャストだ。  かれらの通信を見ると、そのころの朝鮮事情がよくわかる。 「東学党」というのは、�東学�すなわち�西学�(カトリック)に対抗して生まれた新興宗教で、これが大衆にくいこみ農民一揆のような形をとるにいたった。シナの�太平天国の乱�や�北清事変�の韓国版ともいうべきである。�斥倭洋�(日本や西洋勢力の排斥)と貪官汚吏追放をスローガンとするこの叛乱がついに全国化するにおよび、韓国政府は清国に出兵を求めたため、日本も兵を出さざるをえなくなり、ついに日清両国の正面衝突となったのだ。  明治二十七年五月現在の釜山在留外国人の数は、つぎの通りになっている。   日本人 四、五八二人   清国人   一〇八人   英国人     九人   米国人     三人  かように外国人のなかでは、日本人が圧倒的に多く、日本居留地には、総領事館をはじめ、警察署、郵便局、病院、小学校、新聞社、銀行など、すっかりそろっていたというから、上海や天津の外国租界に近いものであった。それだけに反日感情は強く、日韓人の衝突事件のおこらない日とてなかった。  日本の韓国公使は、清国公使の大鳥圭介《おおとりけいすけ》が兼務していて、病気静養のため日本にかえっていたが、大急ぎで帰任したところだった。京城の日本公使館は、南山の中腹にあって、見晴らしはよかったけれど、建物は欧米の公館に比して貧弱だった。  日本人旅館は、一泊七十五銭から一円程度だったが、京城はインフレで、諸物価は日本内地の三倍になっていた。  京城の人口は、戸数が二万五千だというのに、三十万をこえていた。というのは、寄食者が多いからで、有力者ともなると、二十人から百人くらいの食客をかかえこんでいたという。  金持ちのむすこは、十三、四歳で元服式をおこない、頭髪を上げ、帽子をかむった。そしてすぐ結婚するが、相手の女はたいてい十七、八歳である。貧乏人は、いくつになっても、元服、結婚ができない。これをチョンガーといって、頭髪をうしろにたれているからすぐわかった。名前をよびすてにされ、元服者に出あうと、道をゆずらねばならなかった。  京城の日本人は、泥※[#「山+見」、unicode5cf4]というところに住んでいたが、ここに銭湯が二軒あって、入り口に、 「支那人之入浴謝絶」 と書いた札がかかっていた。  シナ人は朝鮮人よりも不潔でしかも朝鮮人に乱暴をはたらくからである。朝鮮の女性は、一生涯入浴しないというが、皮膚は玉のようで、いつもさっぱりした身なりをしているのは不思議だと、日本人記者は書いている。またきくところによると、朝鮮人は皮膚をなめらかにするため、毎朝小便で顔やからだを洗い、歯を丈夫にするため、小便でうがいをするとも書いている。銭湯の湯槽《ゆぶね》は、日本人と朝鮮人とは別々につくられていたが、朝鮮の女性が入浴にきた例はないという。  もっとも驚くべきことは、首都京城に新聞が一つも出ていないことである。前に『漢城旬報』という旬刊紙が出ていたが、明治十七年十二月、�開国党�の朴泳孝《ぼくえいこう》、金玉均《きんぎよくきん》らが暴動をおこしたときにつぶされてしまって、それからは『朝報』という官報が出ているだけである。しかもこれは一枚ずつ筆与したもので、そのために韓国の宮廷では数百人の筆耕を雇っていた。  以上は、当時の新聞特派員の通信に出ていたもので、かれらの観察や報道にまちがいがなかったとはいえない。とくに朝鮮人が小便で顔を洗ったりしたということについて、わたくしが調べたところによると、とくに乳児の小便は清潔だというので、いろいろのことにつかったらしい。この習慣は、エスキモー人のなかでは、ごく最近までおこなわれていた。  それはさておいて、活字が発明されたのは、シナの宋の仁宗の慶暦年間(西暦一〇四一─四八年)で、はじめは粘土に字を彫り、焼いてかたくしたものだ。元の時代に木の活字、明の時代にスズや銅の活字ができて、印刷につかわれるようになった。これが朝鮮に伝えられたのは李王朝の時代で、この朝鮮の活字版が日本にはいったのは、文禄元年、つまり秀吉の�朝鮮出兵�のときである。  十九世紀の中ごろになって朝鮮で活字が排撃されて、筆写時代にかえったのは、まさに文明の逆転である。印刷機を使わない理由は、大勢の筆耕の生活を保証するためだという。こういう現象は、今の日本にも、ぜんぜん見られないことではない。  [#小見出し]妓生の養成学校  朝鮮というとすぐ妓生《キーサン》を連想するが、今は「朝鮮民主主義人民共和国」の首都となっている平壌《ピヨンヤン》に、戦前には�妓生学校�というのがあった。  わたくしがこの学校を訪問したのは、昭和十年で、満州へ行く途中だ。そのころ、朝鮮はゴールド・ラッシュでわきかえっていた。農夫も樵夫《きこり》も、教師も牧師も、シャベルとツルハシをもって狂奔するという騒ぎで、あるバイオリニストは、愛妻に身売りさせて、その金で鉱区許可の出願をするし、ある牧師は祈祷によって大金鉱を発見したといって、信者から鉱区出願の印紙代をあつめた。人相見や易者と相談の上で、金鉱をさがして歩くものもあった。家屋敷を売りはらって買った金鉱から金が出なくて、首をくくったという悲劇もおこった。そうかと思うと、一介の鉱山労働者が、大金鉱を発見して大金持ちとなり、『朝鮮日報』の社長にまつりこまれた。これにわたくしは招待され、なん十人もの妓生をはべらせて、大饗応をうけたのはいいが、これが二日三晩もつづいて、そこから脱出するのに骨が折れた。  そこで、わたくしははじめて妓生というものに接したのである。妓生は京城だけに約五百人いたが、数の多いのは晋州(慶尚南道)で、そこのハエの数よりも一人多いとまでいわれていた。しかし、妓生の本場はなんといっても平壌で、妓生を養成する学校もできているときき、友人の案内で見学に出かけたのである。  この学校は、�官妓学校�の後身で、検番の付属事業として設立され、資本金二万円の株式会社になっていた。規則書を見ると、入学資格は「普通学校(小学校)四年修了」「身体発育完全なる女子に限る」、それに「品行方正にして学業を勉励し、その成績優秀なものにたいしては、賞状ならびに賞品を授与す」と書いてあった。 「�品行方正�とはどういうことを意味するのか」 と、わたくしが質問すると、校長は笑って答えなかった。  学科は、朝鮮や日本の歌舞音曲のほか、国語(日本語)、朝鮮語、算術などの普通教育課目、とくに習字や図画に重きをおいているようであった。というのは、生徒の作品展覧会を見て感心したからである。  このあと、有名な牡丹台の料亭に招かれ、その席上で妓生の腕をためそうと思い、もっていた扇子を出して、これになにか一筆書いてくれといったところ、ボタンの絵と、そのころ流行していた「小原節」の文句をすらすらとしたためた。  妓生学校に似たものは日本にもある。祇園の�女紅場《じよこうば》学園�がそれだ。これはもとの京都府立第一高女(今の鴨沂《おうき》高校)の前身で、�女紅�は�女工�に通じ、女性の技芸・芸能をみがくという目的をもって、明治五年に�女紅場�という名で発足し、華族や士族のお嬢さんたちがこれに入学したのである。ところが、同じ年に太政官令が出て、全国いっせいに売春婦が解放されることになり、京都では彼女たちの更生のために�婦女職工引立会社�(後の授産場)をつくった。  一方、�女紅場�のほうは�女学校�と改称したので、花柳界にこの奇妙な名前の学校がのこったが、最近解散したという。  讃岐の琴平にも、�芸妓学校�というのがあった。普通科三年、研究科二年、師範科一年となっていて、�松��竹��梅�の三クラスにわかれていたが、先年わたくしがたずねたときには、その上に�大学院�をもうけるという話だった。これは�各種学校�ということで知事の認可をとっているから、国鉄の学割りも認められていた。生徒には年増芸者もまじっていて、これが大阪、東京方面へ宣伝をかねて�修学旅行�に出かけたとき、検札にきた車掌が、ねえさんたちの学割り切符を見て目を丸くしたという。  話をもとへもどして、妓生の玉代は一時間単位で、京城では一円三十銭、平壌、大邱では一円、その他は五十銭から八十銭だときいた。彼女たちの月収は、一流だと三百円以上、三流でも百円にはなったという。税金は月額五円。  妓生には、亭主をもっているのもあるが、これは妓夫《ぎゆう》太郎《たろう》を兼ね、客にたいするサービスのしかたなどをいろいろとコーチするのだ。  妓生の下には、日本の�みずてん�に相当する�三佩《サンパイ》�というのがある。娼妓にあたるのが�カルボウ�で、京城でも平壌でも、日本の遊廓や私娼窟のように、一区画をなして営業していた。  ところで、朝鮮に妓生ができたのは、新羅の時代である。はじめは�源花�といって、これに高位高官や外国客人を接待させたのであるが、この官妓制度にはいろいろ弊害をともなったので、まもなく廃止した。そのかわりに全国から美男をあつめて、歌舞をしこみ、これにサービスさせた。幇間《ほうかん》の一種で、�花郎�といったが、こういう不自然な形は長つづきせず、いつのまにか妓生が復活したのである。  [#小見出し]たいこもちから伯爵に  朝鮮には、むかしから�情死�というものがなかった。悲恋や失恋はあったにちがいないが、そのため男女がいっしょに死ぬということはなかった。朝鮮の古い文学や詩歌には情死をあつかったものがない。  ところが、日本に併合されてから、日本式の抱き合い心中や、ネコイラズによる情死が、朝鮮でも年々増加してきた。それも、西洋式の教育をうけたものよりは、日本式の教育をうけたものに多いという。  日本では、かつては越後が娼妓の産地として知られているが、越後の女はまた情死をしないというので有名であった。今はちがうが、もともと越後は単作地帯で、大水が多く、娘を売らねばならぬほど、農民の生活が苦しかった。情死をしないという習慣と、これとどのようにつながっているのであろうか。  情死というのは、恋愛至上主義から発した封建的なレジスタンスともいえるのであるが、現実の生活条件のあまりにもきびしすぎるところでは、そういうものの発生する余地がないのかもしれない。  高位高官や外国人の接待のためにもうけられた官妓が、高麗や李朝の時代にいたって、一般上流階級の社交機関となったことは、徳川時代の吉原、祇園などの場合と同じである。いや、それ以上の品位と権威をもった妓生が、当時のインテリ女性を代表し、そのなかから女流作家なども出たのである。  それが李朝末期となって、農工商階級が擡頭するとともに、妓生もこれら新興階級に解放され、その需要の増加するにつれて大衆化し、卑俗化した。それでも、彼女たちはほとんど自前で、自宅に起居して料亭に呼ばれて行くのだから、日本の芸者よりもずっと自由な立場にある。  韓国の独立後は、妓生もすっかりかわって、結婚に失敗したものでも、BGでも、特別の訓練なくして、すぐなれるようになった。その点は日本の女給とほとんどかわりがなく、がいして年をとったものが多い。収入は一日に日本金にして千円から三千円、売れっ子だと、五、六年もつづければ、まとまった貯金ができるという。  ところで、朝鮮の花柳界にも幇間がいたことは前にのべたが、この太鼓もちから身をおこして、韓国政界の一方の旗頭となり、日韓併合後、日本の伯爵にまでなった人物がいる。  彼は|宋秉《そうへいしゆん》といって、明治四年に十四歳で武科の試験に合格して守門将となり、明治九年「江華島事件」解決のため渡韓した黒田清隆の接待員に加えられ、その後大倉喜八郎が釜山に商館をつくったとき、その片棒をかついだということになっているが、山路愛山の書いたものによると、京城の水標橋という花街で幇間をしていたのである。目から鼻へぬけるような利巧もので、とくに人にとり入ることに妙をえていた。当時、ロシアと結んで韓国の政権をにぎっていた閔妃《びんぴ》(李太王の妃)の信任をえて、日本に亡命していた反対党の様子をさぐることを命ぜられた。  ところが、日本にきて見て、日本側についたほうが有利だと考えた宋は、日本派の首領で、のちに韓国政府のスパイにおびき出されて上海で殺された全玉均《きんぎよくきん》に会い、自分の身分や使命をうちあけて、彼の部下になることを誓い、閔妃から送ってきた金の一部を与えた。スパイというのは、相手側にも通じるのが普通だから、宋もこの手をつかって情報をとったのかもしれない。  帰国後、韓銭鋳造の責任者となって大いにもうけ、中枢府都事、親軍後営隊長官の要職についたが、日本とのつながりはひそかにつづけた。�東学党の乱�がおこって、それがバレそうになると、日本に亡命、�野田平次郎�という日本名を名のり、北海道で朝鮮人参の栽培を試みたが、これは失敗だった。その後、京都で染色の技術をおぼえ、山口県の萩などでその講習会を開いたりしていた。  日露戦争がはじまると、彼は日本軍の通訳となって従軍し、のちに鉄道疑獄に連坐して失脚した小川平吉などにうまくとり入って、軍需品や軍夫の下うけをして、しこたまもうけた。そして日本が勝つという見通しをつけると、「東学党」の残党|李容九《りようきゆう》と結んで、日本一辺倒の政党「一進会」をつくった。これまでの政党のように、貴族、両班《やんぱん》などを相手にせず、もっぱら庶民の利益を代表するというたて前で、「東学党」の影響下にあった大衆を吸収し、一時はその会員が七十万に達した。顧問として小川平吉をはじめ、「黒竜会」の創立者内田良平、のちに「政友会」の長老となった大岡育造、政・財界の黒幕として活躍した杉山茂丸などが迎えられた。  伊藤博文が統監となるや、その推薦によって、宋は李完用《りかんよう》内閣の農商工部大臣の地位を与えられた。その後、内部大臣に転じたが、李総理と衝突して野にくだり、日韓合併運動を韓国側に立って積極的に展開した。  合併後はその功によって、宋は日本の勲一等旭日大綬章を与えられ、子爵からさらに伯爵を授けられた。大正十四年、六十八歳で死んだときには、特旨をもって正三位に叙せられ、靖国神社の能楽堂に、朝野の名士があつまって盛大な追悼会が催された。  フランス革命時代の典型的な謀略政治家として、いつでも権力者の側に立っていたジョセフ・フーシェのような男が、韓国人のなかにもいたのである。  [#小見出し]日本の怒りで王位交代  一八六三年(文久三年)十二歳で王位についた李太王《りたいおう》は、生父|大院君《だいいんくん》と閔《びん》王妃のあいだにはさまって、気の毒な生涯をおえた人であるが、当時の朝鮮は、各国勢力のバランスの上に、名のみの独立を保っていた。そのころ、李太王の目に、各国人はどのように映ったであろうか。 「国王殿下曰く、外国人中、日人(日本人)はきわめて精敏にして美秀、大国人(シナ人)は寛厚にして愚悍、美人(アメリカ人)は純実、英人(イギリス人)・法人(フランス人)・徳人(ドイツ人)は、天真にして狭私、俄人(ロシア人)は強猛にして多欲、各国の風位、おのおの相同じからず」  この意見に、王妃は反対したというが、今から考えても、だいたいあたっているようである。ただし、日本人を�精敏にして美秀�というのは、少々ほめすぎのきらいがないでもない。また韓国では、古くから�大国�という普通名詞は固有名詞となっていてシナを意味し、�天朝�とはシナの皇帝のことであった。徳川時代には、韓国人ばかりでなく、対馬藩士はもちろん、日本の学者のなかでも、これをうけうりしているものが多かった。  その後、李太王は、日本の支配に反対する世論におされ、一九〇七年(明治四十年)オランダのハーグで開かれた「平和会議」に密使を送ったことがわかって、日本の怒りにふれ、王位を王太子にゆずらざるをえなくなった。日韓併合後は、皇族の礼遇をうけたけれど、一九一九年に死んだとき、日本人に毒殺されたという評判が立った。これが�万歳《まんせい》事件�と呼ばれている朝鮮独立運動のキッカケとなったのである。  その前、王太子も危うく毒殺されるところであった。李太王の誕生日に、王太子といっしょにコーヒーをのんだところ、王のほうはなんともなかったが、王太子はにわかに苦しみ出した。手当てがよかったので、生命はとりとめたけれど、歯ぐきがくさって、生涯完全に治らなかったという。この下手人はよくわからないが、当時韓国の王室は、相続争いに国際関係がからんで、複雑怪奇な様相を呈していたのだ。日本でも、孝明天皇や十四代将軍徳川家茂の毒殺説が伝えられている。  この王太子は、李太王の第三子で、閔妃の実子である。日韓併合後、明治天皇から�太王�の称号をたまわったが、大正十五年になくなった。そのあとをついだ垠《ぎん》殿下は、|梨本宮 方子女王《なしもとのみやまさこじよおう》と結婚し、戦後はタケノコ生活をつづけてきたが、最近、朴正煕《ぼくせいき》大統領に迎えられて、李承晩《りしようばん》よりも一足先に、韓国へかえった。元王宮の一部に住居を与えられ、日本金にして月額三十万円程度の年金を支給されることになったという。わたくしが韓国を訪れたときには、京城駅前に彼を歓迎するアーチまでできていた。朴政権が選挙にこれを利用したのだともいわれているが、旧王室に利用価値が発生したというのは、韓国にも復古調が出てきていることを物語るものだ。  李朝末期の韓国では、�事大党�と�独立党�が対立して争っていた。事大主義というのは、弱小なるものが強大なるものに事《つか》えるということで、日本ではよくないことのようになっているが、朝鮮では古くからそれが当然のこととされてきたのである。�事大�の�大�とは、�大国�であるシナのことで、これは親支派を意味し、ことあるごとにシナの援助を求めた。  これに対立したのが�独立党�で、この派は日本と提携して韓国の独立を計った。�事大党�が極端に保守的であったのに反し、�独立党�は進歩的で�開化党�ともいった。  ところが「日清戦争」の結果、�大国�シナがあっけなく敗れて、韓国は独立党の天下となった。しかし、「三国干渉」で日本の勢力が後退すると、またも�事大党�がもりかえしてきた。日露戦争で日本が勝って、形勢がまた逆転しても、韓国は�独立�を達成するどころか、日本に併合されてしまった。これが�弱小国�の運命であった。少なくとも、過去においてはそうであった。  さて、朝鮮の現状を見ると、北は中国やソ連に、南はアメリカに「事《つか》え」ているのだから、依然として�事大主義�である点にかわりはないともいえる。ただし、中国やソ連が�進歩派�を代表し、アメリカが保守派を代表していることで、半世紀前とは、�大国�側の立場が逆の形になっている。  明治四十二年、韓国最大の政党で、二百余名の郡守中、百名以上もその会員で占めていた「一進会」では、つぎのような上奏文を国王に提出して、日韓併合を要請した。 「今それわが大韓国をもってこれを病人に擬せんに、命脈の絶えたるやすでに久し、臣らのこれに呼号するは、いたずらに死屍を抱えて慟哭するのみ。人これをいまだ死せずと思えるは、いたずらに死屍のなお生けるがごときを見ればのみ」  これでみると、日本は�生ける屍�と合併したことにもなる。したがって、日本国内では、この合併は日本を破産にみちびくものだという声も高かった。 [#改ページ] [#中見出し]根強く残る対日敵意   ——伊藤博文の暗殺者がたちまち全朝鮮の偶像となった背景——  [#小見出し]スパイと娼婦気質の日本人  伊藤博文がハルビン駅頭で暗殺されたのは、明治四十二年十月二十六日で、これにたいして、外国の新聞、雑誌はいろいろと批評しているが、浅沼稲次郎やケネディ大統領の場合と比較してみると、たいへん興味がある。 「伊藤公の暗殺事件は、到底日本人の耐えうるところではあるまいといわれているが、われわれはこの説に賛成できない。日本人は一種特別の性格をもっていて、日本人の道徳はわれわれの道徳ではない。儒教主義と基督《キリスト》教主義の相異は、南極と北極の差よりもはなはだしい。日本人は伊藤公の死を悲しんでいるであろうが、一方では公の運命——国のためにいさぎよく身命をささげたことを讃美し、また羨望《せんぼう》しているにちがいない。  公が暗殺されたから国民が憤るなどとはもってのほかで、公の暗殺と日本国民の憤怒とは没交渉だ。日本では、暗殺は卑怯なふるまいとして排斥されていない。かえって、自殺がしばしば神聖なものと見なされているように、暗殺は真の勇気のわざと見られている。  昨年の夏、東京で忠勇義烈の士を表彰した書物が出版された。その�義士�たちのなかに、かつて大隈伯を暗殺しようとした人物が、麗々しくあらわれている。この出版に先だって、出版社は大隈伯を訪ねて、その承諾を求めたところ、伯はただちに快諾した。  また憲法発布の当時、一人の狂人が文部大臣|森有礼《もりありのり》を暗殺し、その場で自殺をとげた。この暗殺者であり、自殺者である狂人は、ただちに英雄となったばかりでなく、神として祭られた。彼の墓は花束をもって飾られ、犯罪者は民衆の礼拝の対象となっている。(これはまちがいで、犯人の西野は、護衛巡査の座田《ざた》重秀にその場で斬り殺されたが、座田のこの行為は正当防衛と認められず、監獄に送られたというのが真相である)  かくのごとき教義を有し、かくのごとき感情をもち、暗殺をもって讃美すべき英雄的行為なりと喝采《かつさい》する国民はまったくこれと同一の行動をあえてした国民にたいして、怒りをもらすなどというのは、道理にそむくことである」(『現代評論』所載、イ・ゼ・ジロン博士)  この日本人論には、相当の誤解と誇張があるが、かつての日本人はもちろん、現在の日本人にもあてはまる面がないでもない。現に乃木大将のごときも、伊藤公の死に接して、たいへんうらやましいという感想をもらしたということが、大将の伝記にも出ている。  ついでに、そのころ日本の雑誌に紹介された外国人の日本論のなかで、興味のあるものを紹介することにしよう。 「日本人の男は、生まれながらにしてスパイの気質をそなえ、女は生まれながらにして娼妓の気質をそなえているといっても、あながち過言ではない。これを事実に徴するに、日本の今日成功しつつある所以《ゆえん》は、この二つの気質に関するところが多い。  ただし、日本人はこの気質を�国家�という至上理想のために献上するがゆえに、これがただちに国民の徳となり、この徳をもって日本の国運を盛大ならしめているのだ。  試みにこれを日露戦争に徴せよ。日本人がロシア人に勝つことができたのは、主として秘密政略を巧みにおこなったからである。しかり、ちっぽけな日本人がロシアと戦って予想外の勝利をえたというのは、もちろんその武勇や訓練にもよるが、その虚偽の計略と秘密の策略とに負うところが多いといわざるをえない。  なおこれを他の方面より観察するに、日本は海外に植民するにあたっても、まずその先駆として�娘子軍《じようしぐん》�(女の集団)をつかわすのが普通で、満州でも上海でもそうだ。  日本人はまた、いたるところに探訪的に出かけて行く。見たい、知りたいという飢渇に攻められている餓鬼のようなものだ。  したがって、真似るということが日本人の特長で、元来日本人は模倣の民である。どこへ行っても、またなにを見ききしても、すぐにこれを模倣する。しかし、われわれのとくに注意すべき点は、日本人は真似るためには、どんな賤業《せんぎよう》をもいとわないということである。  士族の子でも、上海や桑港で、下男として使われることが平気だし、士族の娘でも、シンガポールにわたって醜業婦となり、しかも帰国後に、なんの恥ずるところもなく、むしろ金をもうけたことを誇りにしている。  もしそれ、シナあたりで行商している日本人を見るに、スパイ的気質をもたぬものはないといっていい」  これはフランスの新聞『エコー・ド・シーヌ』に出たものであるが、日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮をも併合しようとする日本への風当たりが、目立って強くなってきたことを物語っている。現にそのころ、フランスの保護国となっていたインドシナでは、日本の勝利に刺激されて、安南人の排仏運動が急に活溌となってきた。  [#小見出し]京城は平静だったが 「ワッショイ、ワッショイ」というかけごえは、これまで祭礼にミコシをかつぐのにつかわれてきたが、戦後はデモのジグザグ行進、外人のいう�スネーク・ダンス�の伴奏となっている。これは朝鮮語の「ワッソ」すなわち「こっちへこい」という意味だという。  それはさておいて、韓国統監|寺内正毅《てらうちまさたけ》と韓国総理大臣|李完用《りかんよう》とのあいだに、日韓併合条約が結ばれたのは、明治四十三年八月二十二日で、これが公表されたのは二十九日であるが、そのときの京城の空気はどのようであったか。  京城のいわば�人民広場�で、過去にしばしば流血の惨事のおこなわれた鐘路街頭は、この日、案外静かで、別に騒擾《そうじよう》事件はおこらなかったというが、一つは当局の取りしまりがきびしかったからであろう。そのかわり、韓人街にはいると、いたるところに、「日本人|鼠子《そし》」「倭奴盗賊」などという落書きが書いてあった。さらに、「李完用以下の各大臣は、祖国を売った逆賊だから、すべからく決死隊を組織して暗殺すべし」と書いたビラが、あちこちにはられていた。東大門外の尼寺の近くに、大勢の韓国人があつまって号泣しているというので、警官がかけつけたところ、だれもいなかった。  知識人のなかでも、儒学系の人々は、亡国の責任を韓国政府や李王家に帰して、なりゆきを観望しているだけであったが、とりわけいきり立って過激な言動を示したのは、日本に留学し、新知識をえてかえってきた連中であった。そのほか、反日・独立運動の中心人物として活躍したのは、主にキリスト教徒であった。  さらに、ウラジオストク、サンフランシスコ、ホノルルなどにある朝鮮人の団体からは、つぎのような檄文《げきぶん》が続々と送られてきた。 「十三道の民、今や手に唾してたつべきの秋《とき》はきたれり。祖国は今まさに亡びんとす。われらはすべからく決死隊を組織して、祖国を売る逆賊を屠《ほふ》り、すすんで日本人をみな殺しにし、もって韓国の独立を企画せざるべからず」  当時、ウラジオストクでは、『大東共報』という韓国人の新聞を出していたが、その社長はニコライ・ユカイというロシア人であった。帝政ロシアの極東政策の一部として、資金もそのほうから出ていたようである。伊藤博文を殺した安重根もこのグループに属していた。  新聞は、韓国の新聞はもちろん、日本の新聞も、こういったことには、ぜんぜんふれず、あたりさわりのないことしかのせなかった。発行停止が恐ろしいからである。日本へ送る電文も、婉曲《えんきよく》ないいまわしをするほかはなかったらしい。  もっとも気の毒な立場におかれたのは李太王、李王父子である。そのころ京城にいた新聞人の細井肇《ほそいはじめ》は、内田良平などとともに、日韓併合運動を促進した仲間であるが、李王家について、明治四十三年十月一日発行の『太陽』に、つぎのように書いている。 「併合をよろこびて満悦の状ありとさえ伝うるものあれど、こはぜんぜん反対にして、平素穏和にして争意なき李王殿下すら、調印当日よりほとんど眠食を廃し、怏々《おうおう》として楽しまず、ことに九月一日稲葉(正縄《まさただ》)子爵(式部官)を西行閣廊下より御車寄に出迎えありしさいのごとき、ほとんど卒倒せんばかり、感情奮昂し、充血せる眼のものすごく見うけられたりと確聞す。李太王の動静については、予はここにこれを報ずるの自由を有せず」  これがほんとうであろう。かつてハワイがアメリカに併合されたとき、カメハメハ王朝におこったことが李王家にもおこったのだ。  博文についで韓国の二代目統監となった曾禰荒助は、鳥羽伏見の戦争では、大村益次郎の部下で、日露戦争のときには大蔵大臣だった。日韓併合の実現した直後に死んだが、彼の次男寛治は、伯爵|芳川顕正《よしかわあきまさ》の養子で、京城電気会社の創立者である。自動車というものがまだ珍しかったころ、彼の夫人鎌子がお抱え運転手と恋におちて家出をした事件は、世間に大きなショックを与えたものだ。  韓国軍司令官長谷川好道大将(のちに元帥)は、韓国人から�虎大将�と呼ばれて恐れられていたが、なかなか粋人であった。毎晩十二時ごろ、彼の官邸に美人が訪れてくるというので、評判になった。参謀長の東条英教《とうじようひでのり》(東条英機はその三男)中将は、すこぶる硬骨率直の武官だったので、大将に苦言を呈したところ、その後大将は官邸裏門の歩哨を廃し、そこから彼女を出入りさせた。  この女は�五郎�と名のる芸者で、もとは別府の料亭の娘だった。大将が第十二師団長として小倉にいたころ、演習などでときどきその料亭の客となったが、そのころの彼女はまだ肩あげのとれぬ少女だった。それが芸者となって京城にきて、大将と再会したのである。その後大将が軍事参議官となって東京にうつったときにも、彼女はついて行ったという。  日韓併合なって、初代総督に就任したのは�ビリケン�の異名で知られた寺内正毅大将(のちに元帥)であるが、彼は警務長官の明石元二郎《あかしもとじろう》少将(のちに大将)に命じて、綱紀粛正を断行、官邸に芸者の出入りを禁じた。しかし、まもなく寺内の心機一転、この禁をといた。  [#小見出し]朝鮮美人のいない理由  日本で�吉田茂ブーム�といったようなものがわいてきているように、朝鮮でも李承晩《りしようばん》の人気が出てきているらしい。どっちも、頑固で、貴族的で、筋金入りの民族主義者として、アメリカに迎合することしか知らない�民主主義者�への反作用ともいうべき現象と見るべきであろう。  李承晩が大韓民国の大統領としてはじめて日本を訪問、吉田茂と会見したとき、吉田が 「朝鮮には今でもトラがいますか」 ときいた。すると李承晩は答えた。 「もういません。むかしお国から加藤清正《かとうきよまさ》というギャングがきて、すっかりとりつくしたから」  巧まざるユーモアのなかに、日本への敵意を秘めたこの会話は、よほど朝鮮人の気に入っているとみえて、わたくしの韓国滞在中、あちこちできかされた。  これに似た話が、今から五十年前の日韓併合のころ、朝鮮の女性についていわれている。  伊藤博文が統監官邸で、陸軍武官|村田恂《むらたじゆん》中将、海軍武官|宮岡直記《みやおかなおき》少将をはじめ、親日派の韓国要人などを相手に、とりとめもない雑談に花を咲かせていた。こういうばあいに博文は、政治の話をすることが大きらいだった。 「ときに統監閣下」と村田中将がいった。「�朝鮮出兵�のさい、宇喜多秀家が総司令官として京城にいるとき、江原道巡撫の娘を側室《そばめ》にしたときいていますが、閣下も朝鮮美人をお召し抱えになってはいかがですか」  これにたいして博文は答えた。 「朝鮮にはりっぱな男がたくさんいるけれど、美人は少ないようだ」  そこへ|宋秉《そうへいしゆん》がはいってきた。宋は前にも書いたように、幇間から身をおこして日本の伯爵にまでなった男で、そのころは韓国政府の農商工部大臣だった。 「宋君、ちょうどいいところへきた」と、博文はいった。 「シナには西施《せいし》、楊貴妃《ようきひ》、王昭君《おうしようくん》など、絶世の美人とうたわれているものをたくさん出しているが、朝鮮ではあまり美人の話をきかないし、現にこれこそはと思うような美人を見かけない。これはいったい、どういうわけだ」  博文がこんなことをいったのは、とびきりの朝鮮美人を宋につれてこさせようとする下心から出たものである。ところが、宋のほうでは意外な返事をした。 「お国の人が朝鮮の美人をのこらずつれて行ってしまったからです」 「そんなことがあるものか」 「�文禄の役�では、七年間も全朝鮮を荒らしまわり、目ぼしい女はみんな日本へつれ去りました。宇喜多秀家ばかりでなく、小西行長も朝鮮の女を大勢手に入れて部将に配給し、ここで永住させるようにしたという記録がのこっております」 「そりゃ、まちがいだよ。秀吉が朝鮮に送った軍勢は十五万八千人となっているが、ほんとに戦闘に参加したのはその半分で、しかも初回と二度目の一年だけで、その余の五年間は、沈惟敬《ちんいけい》と小西行長が講和談判をつづけていたのだ。むろん、日本の軍勢は、ここにいるあいだ、朝鮮の女に手出しをしたろうが、日本にかえればたいてい妻子がいる。それが君のいうとおり、こぞって朝鮮の女をつれてかえるなどということは、できるはずはないし、第一、上官が許さないだろう」  これには宋のほうでグウの音も出なかった。しかし、負けずぎらいの宋は逆襲した。 「それなら、朝鮮に美人の少ない理由について、閣下のご意見をうかがいたいと思います」  伊藤が返答に窮したのを見て、助け舟の役を買って出たのが小松緑《こまつみどり》である。小松は会津若松の出身で、慶応義塾を終え、アメリカのエール、プリンストンの両大学に学び、帰国後外務省にはいった秀才で、当時は統監府の外務部長だった。 「朝鮮の女をかっさらったのは、日本人でなくて蒙古族だよ」 といって、小松は歴史にかんするウンチクをかたむけた。それによると、ジンギス・カンが全シナを征服したのち、その孫モンケが朝鮮を攻め、彼の同母弟フビライが日本に大軍を送りこんだが、かれらは朝鮮の女を大量に徴発した。そのため�結婚都監�とか�寡婦処女考別監�とかいう官職までもうけたと『高麗史』に出ている。 「悲痛憤悶のあまり、井に投じて死し、自ら縊《くび》れ、血に泣いて明を失うもの、あげて数うべからず」 というありさまで、醜婦だけがあとにのこったというのだが、この話はそのままうけとれない。現に朝鮮には、日本の女性もおよばぬ美人もたくさんいるからだ。  それはさておいて、これで博文は朝鮮美人に望みをたち、新橋の久米子とか、下関のお清とかいう芸者を日本から呼びよせた。また彼は日本への往復に、これらの芸者を�侍婢�と称して軍艦に同乗させるという、古今東西に類のないことをやってのけた。  [#小見出し]李太王の反日策略  ハルビンで安重根に暗殺された伊藤博文は、文久二年国学者|塙次郎《はなわじろう》を番町の家で、山尾庸三とともに暗殺したといわれている。  これについて伊藤痴遊《いとうちゆう》が、明治三十二年、博文が政友会総裁として、紅葉館で同志と杯をかわしているとき質問した。 「いろいろ文献を調べたところによりますと、あのときの下手人は、閣下としか思えませんが」  すると博文は杯をおいて、 「それはどうかわからぬが、もう古いことであるから、どうでもよかろう」 「どんなに古いことでも、歴史上の事実ははっきりさせておく必要があります。ぜひ明言をして頂きたい」 「まあ、いいじゃないか。君がそう思ったら、そう思っているさ」 といって、博文は笑いにごまかしたが、これで塙殺しの下手人は博文であることを確かめることができたと、痴遊は書いている。  この席には原敬《はらたかし》もいた。当時の政友会で今の自民党における河野一郎のような地位にあった星亨《ほしとおる》が、伊庭想太郎《いばそうたろう》に殺されたのは、それから一年後のことである。博文が政友会から身をひいたのも、一つはこれが影響しているのであろう。  ところで、明治三十八年十月二日、日韓保護条約が結ばれ、博文が大任を果たして帰国するにあたり、李太王《りたいおう》に謁見したとき、李太王はいった。 「卿のヒゲを見ると、黒白相なかばしている。その白い部分は恐らく、日本皇帝につくしたしるしであろう。そしてのこる黒い部分で、これから朕を助けてもらいたい」  実にうまいことをいったものだ。博文もすっかり感激して辞し去ったというが、その舌の根も乾かぬうちに李太王は、イギリス人トーマス・ベセル、アメリカ人ハーバートやコールブラン、ドイツ人クレーベルなどをつかって、さかんに反日熱をあおり立てていた。有名な�親翰事件�はそこからおこった。トーマス・ベセルは、『大韓毎日申報』や英文の『コーリア・デーリー・ニュース』などという新聞を京城で出していたが、そこに突如として、つぎのような記事が写真版で出た。 「思わざりき、時局大変、強隣の侵逼《しんひつ》日に甚だしく、ついにわが外交の権をうばい、わが自主の政を損するにいたる。朕および挙国臣民、慟憤鬱悒《どうふんうつゆう》して、天に叫び、地に泣かざるなし」 といった調子で、外国の元首に訴えたものである。ハーバートは、これをルーズベルト大統領に手わたしたが、ルーズベルトはあまり問題にしなかった。というのは、そのころアメリカはハワイを併合し、フランスはマダガスカル島を保護領にしたばかりだった。ロシア皇帝ニコラス二世にもおくられた。  これが大問題になると、李太王は、この�親翰�はニセモノだといいはった。しかしこれにはちゃんと御璽もおしてあった。あとで調べたところによると、ハーバートが李太王と相談の上でやった仕事であることが明らかになった。  この事件がおこったのは明治三十八年十一月であるが、四十年六月に、こんどは�密使事件�というものがおこった。これはオランダのハーグに開催された「万国平和会議」に、韓国の全権委員と称するものが三名あらわれて、アメリカやロシアにたのみ、正式の参加を求め、日本の圧迫を訴え、保護権をくつがえそうとしたのである。しかし、日本側の全権|都筑馨六《つづきけいろく》大使が、これに強く抗議したので、かれらはその目的を達することができなかった。  だが、こういう事件が相ついでおこり、伊藤統監の面目はまるつぶれとなった。そこで、博文は李完用首相を呼びつけて、 「これは明らかに日本にたいする敵対行為である。韓帝みずから条約を破り、宗主国にむかって叛をはかるということになれば、日本は韓国にたいし、ただちに戦いを宣する理由がじゅうぶんある」 といっておどかした。そしてさっそく、時の首相西園寺公望に電報をうち、外相|林董《はやしただす》の来韓を求めた。そして伊藤、林を中心に、李完用、|宋秉《そうへいしゆん》その他の韓国閣僚を加えて大会議を開いた結果、李太王が退いて、太子がそのあとをつぐことになった。それとともに、これまでの保護条約では、日本は韓国にたいして、外交を管理する権利だけしかもたなかったのが、内政をも監督することになった。  この会議がおわって、一同が宮城外に出ると、市中の一角に焔々たる猛火のあがるのがみえた。それは李完用首相の邸宅が、民衆のために焼き打ちされたのである。このあと、ベルギー皇帝レオポルド二世が死んで、その追悼式がベルギーの総領事邸で催されたとき、これに列席しようとした李完用が、暴漢におそわれ、わき腹を刺された。このとき犯人は、そこにいあわせた各国代表にむかって、  �I die for my country�(われは祖国のために死ぬ) と、英語で叫んだ。こういう場合にのぞんで外国語をつかったというのはまったく珍しい。  [#小見出し]富をかくすための不潔  朝鮮では、毎朝小便で顔を洗ったり、うがいをしたりするということについては、いろいろと異説もあるが、これは『毎日新聞』特派員|柵瀬軍之佐《さくらいぐんのすけ》の書いた『朝鮮時事』(明治二十七年八月春陽堂発行)のなかに出ていることで、同書にはさらに、 「実に朝鮮の風習は、きくとして見るとして、すべてこれ嘔吐のタネならざるはほとんどまれなり」 と書いている。また風俗以外の面でも、 「政治の秩序なく、民衆の気力なく、社会の乱雑なる、一に専制圧政の結果なるを思えば、実に執政官のいかに無情にして、いかに時勢に通暁せざるかを憐《あわれ》まざるをえず」 といっている。当時の朝鮮の姿が、この新聞人の目に、このように映ったということを、わたくしは紹介したにすぎない。柵瀬はのちに代議士に出て、大正十四年加藤高明内閣の商工政務次官となり、多くの会社重役を兼ね、政・財界に重きをなした。  このころ、朝鮮や朝鮮人について書かれたものを見ると、その悪い面、暗い面ばかりとは限らない。『中央公論』の明治三十七年十二月号の「海外新潮」という欄で、「朝鮮の国情と将来の運命」と題し『スタンダード』紙のつぎのような所説を紹介している。 「シナ、日本、朝鮮の三国民を比較するに、生理上においては、朝鮮人もっとも優等の地位にあり、その丈《たけ》は高くして、肉づきよく、またおおむね美貌をそなう。彼の周囲は不潔にして非常に汚穢《おわい》なるも、人そのものはすこぶる美麗なり。かれらは、もしこれをなすことをえば、清潔なる住宅を建つることを知らざるにあらず。されど少し富有なるの模様あれば、官吏または収税吏などきたりて、商人をおどかし、公債の形となしてその金を借りうけ、決してこれを返済することなし。かかるがゆえに朝鮮人は、富有なることを示すがごときことは、決してなすことをえず、したがって、企業心もうすらぎ、富者も貧者もともに泥舎に住み、狭巷に居り、汚き井戸のにごれる水を飲用するなり。これみな漢城政府の施政そのよろしきをえざるの罪なり。  朝鮮人はみな平和を好みて戦争を忌避す。国民の性情もとより然るにはあらざりしも、長き年月の圧制政治はまったく争いを好まざる人民と変化せしめたり」  ここに引用したのは、この評論のほんの一部である。筆者の名前は出ていないが、よほど朝鮮の事情に通じているとみえ、論旨は明快にして正確、『中央公論』の編集者も、「この文よく朝鮮の国情を明らかにし、ひいては将来の運命を卜《ぼく》し、実際的の議論として大いに見るべきものあり」と推奨している。  また明治四十三年十二月一日号の『太陽』では、海野幸徳という人が「日本人種と朝鮮人種との雑婚について」論じ、人種学的、遺伝学的に、つぎのような結論をくだしている。 「朝鮮人種は吾人日本人種の一部分を形成す。しからば日本人種と朝鮮人との雑婚のきわめて有望なるものあるは自明のことなり」 とはいうものの、統監府の外務部長として赴任した小松緑の書いたものによると、 「京城の町なかでさえも、家という家はみんな額のつかえそうな低い屋根に泥ぬりの荒壁というありさま。それに道路がせまい上に、石塊出没して凹凸状をなし、そのそばの土溝《どぶ》には、たれ流しの糞尿が縦横にあふれ、汚臭紛々として鼻をつき、息もつけない。この穢路の奥にあった一軒の日本家が著者の借住居であった。そこへ統監府から時々書類をもって往復する小使でさえ、通るたびに命がちぢまるといっていたくらいだから、その非衛生的穢状が察せられるであろう」  そこで、何かの折りに、小松は伊藤博文にそのことを話したが、 「やせてもかれてもここは王城の地だ。そんなことがあるものか」 といって信じなかった。だが、たまたま小松の家で催された囲碁の会に博文が出席して、小松の話がウソでないことを知り、さっそくツルの一声で、統監官邸のある南山のふもとに、日系官吏のために官舎が建てられることになったという。  道路といえば、豊臣秀吉の最高ブレーンであった安国寺恵瓊《あんこくじえけい》の手紙が厳島にのこっていることは、前にものべたが、そのなかで、 「路次の悪所は木綿をしき候て人馬を通し候由」 と書かれている。木綿をしかないと通れないほど道が悪かったということであるが、この木綿はむろん、朝鮮で徴発したものである。というのは、桃山時代あたりまで木綿は日本人にとって貴重品で、これが一般に普及したのは江戸時代になってからである。一説によると、当時の朝鮮にも木綿がそんなに豊富にあったわけではなく、木を綿状にしたものを�木綿�といったが、そのまちがいではないかといわれている。  それまで日本人は主としてフジ、コウゾ、麻などの繊維をつむいで衣料にしていた。したがって、木綿を道にしいたというのは、たいへんな贅沢《ぜいたく》をしたということで、記録にとどめられたものと思われる。  [#小見出し]祖国を裏切った宋秉  日韓併合について、当時、山県有朋はつぎのごとく語った。 「このことたるや、たとえば腫物《はれもの》のごとし。よく膿《うみ》の熟するを見て、快刀一截せざるべからず。早ければこれを激せしめ、おそければこれを爛《ただ》らせしむ。このこと名医の断を待つ」  当時、合併促進論者は山県をはじめ、大隈重信などで、自由党の板垣退助は、�軟弱論�の代表と見られた。伊藤博文も、漸進論者であった。  また有名な植民学者チュルゴーの言として伝えられているものに、つぎのようなのがある。 「植民地は果実と同じで、成熟すれは必ず枝をはなれるものだ」  数千年の古いつながりをもつ朝鮮が、完全に日本からはなれてしまった現在、これら二つのことばの意味を、日本人も朝鮮人も、じっくりと味わって見る必要がある。日韓併合は、ヤブ医者の乱暴な手術であったか、また日本の敗戦にともなう朝鮮の独立は、ごく自然な形でなされたのか。  朝鮮が「大韓帝国」となり、国王が「皇帝」という称号を用い出したのは一八九七年(明治三十年)のことである。これによって朝鮮という国や国王の地位が高められたわけではない。それまでは完全にシナの支配下にあったのが、日清戦争でシナが敗けてから、日本のテコ入れで、シナの支配権を排除するために、形の上で、朝鮮の独立性が高められたにすぎない。その結果、日本がシナの肩がわりをして、統監府がおかれたのであるが、前にのべた「親翰事件」や「密使事件」がおこり、李太王が日本にたいして重大な�裏切り�をしたというので、四十四年間も占めていた国王の地位を退かざるをえなくなったのである。  この機会に日本は、朝鮮を完全な�保護国�とした。まず司法を行政から分離するとともに、裁判官に日本人を併用せしめた。行政面においても、朝鮮人大臣のもとに日本人の次官をおき、これが実権をにぎった。東洋拓殖をはじめ強力な国策会社をつくり、朝鮮の産業、経済、金融、交通などを日本人の手におさめた。この形は、日本が満州国政府をつくった場合とたいへんよく似ている。のちに大阪府知事から堂島米穀取引所理事長となった林市蔵が、東拓理事として大いに活躍したものだ。  明治五年、神奈川県の権令として、有名な「マリア・ルーズ号事件」の立役者となった大江卓《おおえたかし》は、京釜鉄道を創立し、日韓のあいだをなん回となく往復した。  新聞界においても、�朝鮮ブーム�といったようなものが発生した。『漢城日報』の社長に安達謙蔵、『大韓日報』の社長に小道襄一が就任し、日本の新聞社からは『大阪毎日新聞』の楢崎観一、『朝日新聞』の中野正剛をはじめ、丸山幹治、牧山耕蔵、細井肇、服部暢《はつとりのびる》など、えりぬきの新鋭が出て行って、大いに腕をふるったものである。のちに『東京日日新聞』の名社会部長といわれた小野賢一郎は、このころまだ『仁川タイムス』でくすぶっていた。  当時、�緑林の王者�として満州の大きな部分を支配していたのは張作霖《ちようさくりん》で、徹底した排日家であったが、楢崎はこれに信用があって、初代朝鮮総督寺内正毅と張が会見するようにはからった。この時代の新聞人は、たいてい�国士型�で、事実国士的な役割りをも果たしていたのである。  博文のあとをうけて二代目統監となった曾禰荒助は、就任後まもなくガンをわずらい、再起不能となった。その病床に博文、桂太郎があつまって、朝鮮対策を協議した。そのときは朝鮮の現状、列国との関係、日本の内情からいって、現状で行ったがよいという博文の意見に、曾禰も桂も賛成したのであるが、杉山茂丸、内田良平などの右翼浪人に、まず山県、ついで桂もおしきられたらしい。このさい、陰に陽に、もっとも積極的に動いたのは、前にのべた「一進会」の|宋秉《そうへいしゆん》である。どっちみちこういう結果にはなったであろうが、朝鮮民族の最大の裏切り者は朝鮮大のなかから出たということにもなる。博文としては、�日韓一家�、一種の連邦のようなものを考えていたらしい。  曾禰のあとに統監となって、合併にまでもって行ったのは寺内正毅であるが、寺内もはじめはあまり乗り気でなかった。ときの首相桂太郎は寺内を招いて、 「今の日本で、朝鮮をうまく料理できるものはたった二人しかない。君が行くか、ぼくが行くかだ。もし君があくまでいやだというなら、首相の地位を君にゆずってぼくが出かけるほかはない」と相談した。  [#小見出し]併合費用を値切る  日韓併合は、宋秉が桂首相を説いてふみきらせたのであるが、桂は危ぶんで、 「そうかんたんに行くものかね」 「ぞうさもないことです。一億円ばかりつかえばやれるでしょう」 「一億円は高い。その半分くらいではどうか」 「まア考えてごらんなさい。八千六百万平方マイルの土地と二千万の人口と、はかり知れぬ資源をもつ、一つの国を買いとる代価ですぞ」  桂はついに合併論に賛成したが、一億円出すとはいわなかった。宋はあとで、 「縁日の植木じゃあるまいし、値切るにもほどがある」と、人に語ったという。  それでもこの合併が実現して、桂首相は侯爵から公爵に、寺内総督は子爵から伯爵に、小村(寿太郎)外相は伯爵から侯爵になった。寺内には恩賜金十万円がついた。朝鮮側では、李完用首相は伯爵と十五万円、各大臣は子爵と十万円、局長級は男爵と五万円が授けられた。これに反して、当時韓国にあって合併に協力した日本人官吏は、局長級は二千五百円もらっただけというので、不平をこぼしている。  一方、これで�韓国�という国号はなくなって、もとの�朝鮮�にかえった。李王は�大公�と称して、その地位は日本の皇太子のつぎ、各親王の上におかれ、歳費百五十万円を支給されることになった。そして朝鮮の人民は、いちやくして�一等国�たる日本帝国の臣民たる資格をえたのだから、ありがたく思え、ということになった。  そのころ、マダガスカル島を保護領としたフランスは、ラナバロナ女王をレユニオン島に追放したし、アメリカに併合されたハワイのリリウオカラニ女王が一市民に格下げされたのに比べれば、李王家はたいへんな優遇だと、当時日本から出た出版物には書かれている。しかし、アメリカには王族とか華族とかいう制度がないのだから、一市民になるほかはなかったのだ。  この総経費は、朝鮮人民にたいする教育、授産、備荒などの基金として、各村に分配されたものをもふくめて、ざっと三千万円で、これは公債でまかなわれた。宋秉のいい値の三分の一以下である。  明治四十三年八月二十二日、枢密院の臨時会議で、明治天皇臨席の上、日韓併合条約は裁可された。その晩、寺内総督は京城の官邸で大祝賀会を開き、つぎのような歌をよんだ。   小早川、加藤、小西が世にあらば       今宵の月をいかに見るらむ  明治四十三年九月一日発行の『中央公論』は、「韓国併合成る」と題する巻頭論文をかかげて、つぎのごとく論じている。 「ポーツマス条約以後、われすでに宗主権を韓国に立つ。事実上併合と異ならず。今やただ一歩を進めてその形式を完成したるのみ。しかもこれによって神功以来の鴻業を完成すと称するも不可ならじ。帝国主義者がもって一大成功となす、必ずしも不当ならざるのみ」  金中源《きんちゆうげん》という人の書いた『李承晩博士伝』を読むと、日韓併合にふれて、つぎのように書いている。 「祖国をソ連の衛星連邦に祭りあげようとする傀儡《かいらい》売国徒党群を殲滅《せんめつ》すべし。かれらは往昔韓国を日本に投げ出したように、ソ連と中国に投げ売りせんと必死に暴れているのだ。鬼畜になって……」  日韓併合にたいする諸外国の態度を見るに、これを妨害する動きを見せたのは、古くから韓国に住んでいる米、英、仏の宣教師や商人たちで、本国は傍観の態度を失わなかった。気味が悪いのは、ロシアと清国がどう出てくるかということで、伊藤博文が大陸遊歴を試みたのも、ロシアや清国の打診、了解が主たるねらいであった。それで思いがけなくも、ハルビンで生命を失うにいたったのである。  博文を暗殺した安重根がつかまって監獄にはいっているとき、二人の弟が面会にきた。安重根は強気で、別に会いたくもないが、どうしても会いたいというなら会ってもいいと答えた。  いよいよ対面となって、つぎの弟で兄思いの安共根《あんきようこん》がワッと泣き出すと、さすがに安重根も胸がいっぱいになったとみえて、顔にさっと赤みがさした。それから弟が、母から託されてきた十字架をとり出して、重根の目の上にささげさせ、母の伝言として、この世で再会できないが、この上はいさぎよく刑に服し、来世には必ず善良な神の子となって生まれてくるようにといった。安重根も、 「誓って教えにしたがい、信徒として、また臣として、決して醜いさいごを見せませんから安心してください」 と、母に伝えてくれといった。  これを読んでわたくしは、少年時代のレーニンが母とともに、アレクサンドル三世暗殺事件に連坐した兄ウリヤノフを獄中に訪ねたことを思い出した。この監獄をわたくしも訪ねたが、レニングラードのペトロパブロフスク要塞のなかにあって、日露戦争の敗将ステッセル、ネボカトフなども入れられていたところだ。  [#小見出し]明石のめざましい働き  日本の韓国統治は、徹底した警察政治、憲兵政治をしいたのであるが、その主役を演じたのは明石元二郎少将(のちに大将)である。初代統監の伊藤博文は、明治の政治家のなかでは、自由主義的、文化主義的傾向の強いほうであるが、彼と明石とのコンビは、見方によっては実に絶妙であった。  日清、日露の戦争から、�太平洋戦争�にかけて、日本軍のために諜報勤務に従事した日本人、外国人の総数は、かぞえることも調べることもできないが、そのなかでも、世界史的にもっとも大きな役割りを果たしたのは明石であろう。彼は日露の戦いを日本の勝利にみちびく裏面工作に驚異的な成功をもたらしたばかりでなく、ロシアの革命的分子に多大な資金や武器を供給し、これを援助することによって、少なくとも結果においては、帝政ロシアをくつがえす過程にあって、レーニンやトロツキーにまさるとも劣らぬ役割りを果たしたともいえる。  元陸軍少将大場弥平は、明石について書いたもののなかで、つぎのごとくのべている。 「或る欧州の高官は『明石ほど一人で大金をつかったものもあるまいが、かれ一人で十個師団分は、立派に働いている』といった。じつにその通り、否、それ以上かもしれないのである」  明石は福岡藩士の次男に生まれたが、彼の三歳のとき父|助九郎《すけくろう》は若松に出張中、同僚と争って自刃し、その後は母の手一つで育てられた。十三歳で東京に出て安井息軒の門にはいり、陸軍幼年学校、士官学校、大学校を経て、日清戦争には近衛師団参謀、日露戦争には大佐で公使館付武官としてペテルスブルク(今のレニングラード)にいた。開戦とともにストックホルムにうつり、ここを拠点として彼の大活躍がはじまったのである。  明石がレーニンを知ったのは、日露戦争のはじまる前で、ロシア語の家庭教師に雇っていたブラウンという大学生を通じてであるが、のちにはすっかり懇意になった。明石がいつもハマキをくわえているのを見て、 「君はぜいたくだ」 とレーニンがいったという。レーニンという男は、こういう細かい点にまでいつも気をくばっていたのである。  日露戦争中に、ロシアでおこった反政府暴動には、たいていレーニンその他を通じて明石が多かれ少なかれ関係していた。  ペテルスブルグでは、毎年一月、�川祭り�というのがおこなわれた。これは冬宮のネバ川に面したところで、皇帝以下百官が臨席し、きわめて盛大に催されるのであるが、明治三十八年一月、というと旅順が陥落してまもなく、このいかめしいお祭りの最中に、対岸から砲弾がとんできて、参列者の頭上をこえ、冬宮の窓を破るという珍事がおこった。対岸の軍隊からうち出したもので、帝政ロシアの将来に、不吉な暗示を与えた一大不祥事であった。  つづいて一月九日(太陽暦では二十二日)には、�血の日曜日�と呼ばれている大惨事がおこった。これはガボンという神父が、聖像や皇帝の像をかかげ、讃美歌をうたいながら、彼の組織した労働者とその家族とともに、デモ行進をつづけて、冬宮広場まで進んできたところ、待ちかまえていた軍隊がいっせい射撃をおこない、抜剣した騎兵隊がそのなかに突入し、たちまち死者約千人、負傷者約二千人を出した。  これは前もって予想されないことでもなかったので、ガボンは皇帝や内相に、ゴーリキー以下のインテリ代表は閣僚会議議長に、このデモを平穏におわらせるようにとの請願書を出していたのであるが、結果はこういうことになってしまったのだ。このときの閣僚会議議長は、ポーツマス講和会議に、ロシア全権として出席したウィッテ伯爵であった。  いずれにしても、このニュースがつたわると、有名なプロチフ工場をはじめ、ロシア全土に抗議ストがおこり、�第一次革命�(一九〇五—七年)のキッカケとなった。  このとき現場にいたある外国新聞の通信員は、銃弾に倒れた一労働者の声として、 「もしもここに一大隊の日本軍がいたならば、われわれはこんなめにあわずにすんだろう」 と叫んで死んでいったと書いて送った。  またフランスの有名な歴史家でソルボンヌ大学教授のセニヨボス博士は、講壇で学生に、 「ロシアの国債を買うのはやめるように、父兄にいいなさい。大切な金をなくすだけだから」 といったと伝えられた。それまでロシア国債の最大のおとくいはフランスであったが、これでロシアの信用がなくなり、暴落したことはいうまでもない。  この事件後、ガボンはロンドンに亡命、帰国して再起を計ったけれど、裏切り者として、フィンランドで労働者に暗殺されたが、明石とは親しい間柄であったという。  これらの事件が、明石の秘密工作と果たしてどの程度つながっていたか、今となっては、真相のつかみようがない。  [#小見出し]反乱軍に大量の武器を売る  無声映画時代の代表的監督エイゼンシュタインの傑作「戦艦ポチョムキン」で知られている水兵の反乱が、オデッサでおこったのは、一九〇五年(明治三十八年)六月で、日本海海戦の一か月後のことである。  この反乱は、スープの肉が腐っていて食えないといった水兵が参謀将校に射殺されたことから端を発したもので、その参謀と艦長は銃殺され、他の将校たちは監禁されて、新艦長に見習士官が選ばれた。当時、オデッサでは、ゼネストがおこなわれていたが、そこへ赤旗をかかげた「ポチョムキン号」が入港し、労働者、市民の大歓迎をうけた。これが合流して、反乱はますます拡大していった。  たまたまオデッサ市内に大火災がおこり、さまざまなデマがとび、水兵の一部が動揺したので、「ポチョムキン号」はルーマニアにむけて脱出し、そこの官憲に降服した。そして乗組員の大多数はアメリカ、カナダ、ブラジル方面へ移住した。そのころ、スイスに亡命していたレーニンは、この知らせをうけて、さっそくユージンという男をオデッサに派遣したが、ちょっとのことで間にあわなかった。この反乱のさい、二千人の労働者が殺されたという石の階段は、今もオデッサ最大の名所となっている。  この前後に、帝室内での強硬派セルギー太公はじめ、ロシアの要人で暗殺されるものが多かった。明石元二郎が国外にあって、おもに資金面でかれらを助けていたことは、そのくわしい情報が彼の手にとどいたのを見て明らかである。  明石の根拠地となっていたストックホルムには、フィンランド、ポーランド、アルメニアなど、帝政ロシアの犠牲となった国々の指導者たちが続々とあつまってきたが、明石はかれらに惜しげもなく金をバラまいた。先年、わたくしがフィンランドの首都ヘルシンキで街頭で出あった労働者風の男から、びっくりするほどの好意をよせられたことがあるが、この国では、日露戦争以来、親日の伝統が今にいたるまでうけつがれているときいた。  明石はまたストックホルムを足場にして、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、スイス、スペインなどの国々をかけずりまわっていたが、そのころの駐英公使は林董《はやしただす》で、公使官付武官として宇都宮太郎大佐が駐在した。宇都宮太郎は、桂太郎、仙波太郎《せんばたろう》とともに、陸軍きっての秀才で、�三太郎�と呼ばれていたが、今の自民党代議士宇都宮|徳馬《とくま》はその長男である。  明石と宇都宮はもとから親しい間柄だったが、二人はロンドンでとてつもない計画を立て、実行にうつした。それは大量の武器を手に入れてロシアの反乱軍に送りこもうというのだ。  ペテルスブルグで�血の日曜日�の騒動がおこっていたとき、明石はひそかにストックホルムをはなれてスイスのジュネーブに行った。そこで、�ロシアにおけるマルクス主義の父�といわれていたプレハーノフに会った。さらにオーストリアのウィーンで彼を待ちうけていたのは、ポーランド独立党の首領ステニツキーで、スイスに小銃の大量売り物があるから、これを手に入れたいというのだ。  けっきょく、小銃一万六千挺と弾丸三百万発を購入して、バルチック海方面に送ることになったものの、問題はその輸送法である。当時、ロンドンに高田商会の支店があって、これにやらせることになった。高田商会というのは、高田慎蔵の経営するものだが、慎蔵は佐渡の相川の生まれで、佐渡奉行所の渉外係のような仕事をしていたのが、幕末に江戸へ出て、築地で英国人の商社につとめた。それが独立して機械類の輸入販売をはじめ、ロンドンに支店をもつようになったのである。  高田商会の計らいで、この大量の武器をスイスからオランダのロッテルダムにはこび、沖合いで「ジョングラフトン号」という大型貨物船にうつし、フィリピンのマニラむけ貨物ということにして、英国旗をかかげながら、北海にむかって進んだ。  途中、幾多の難関を突破し、目的地近くまできたとき、不運にも「ジョングラフトン号」は坐礁し、ロシアの仮装巡洋艦につかまり、つんでいた武器は没収された。ところが、乗組員は別に逮捕されなかったばかりでなく、没収された武器も、賄賂《わいろ》をつかってことごとくとりもどすことができた。この一事をもってしても、そのころロシア軍の内部がいかに腐敗していたかがわかる。  日露戦争がおわったあと、戦争となんの関係もなさそうに見られていた高田慎蔵に勲四等が授けられて、世間は驚いたのであるが、その裏に、こういうかくされた事情があったのである。戦争後においても、山県、桂、寺内などという軍首脳部の秘密会合のために、東京の高田邸がしばしば用いられるようになって、高田は�軍商�化して行った。  一九〇五年八月からアメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、九月五日ついに調印を見るにいたったのであるが、これでもっとも失望したのは、明石とレーニンだといわれている。というのは、戦争があと半年もつづいていたならば、ロシアは内部から崩壊するものと明石は考えていたし、一九一七年の革命まで待つ必要がなかったとレーニンは見たからだ。  [#小見出し]日韓併合の難局を収拾  日清、日露の戦争で諜報・謀略勤務に従事したのは、沖禎介《おきていすけ》、横川省三《よこかわしようぞう》のような民間志士か、シナ人、朝鮮人、馬賊の類であったが、第一次、第二次大戦になると、参謀本部、憲兵隊、特務機関などで、まず有能な将校を選び、これに特別の訓練をほどこし、外国人にバケて敵地に潜入せしめ、情報をとったり、後方攪乱その他の政治的・経済的謀略をおこなう使命を与えられたものが多かった。  抜群の秀才としてその将来に大きな望みをかけられていた青年将校が、急に道楽をはじめて身をもちくずし、行方不明になってしまったといったようなケースが少なくなかった。そういう人たちのなかには、自分の生命ばかりでなく、地位や名誉までも国家にささげることを命じられたものがいたのである。家族も、友人も、日本人であるということさえも忘れて、その国の人間になりきらねばならなかったのだ。この目的のために、ヨーロッパではトルコ人やアラブ人に、アジアでは蒙古人やマレー人にさせられた日本人が多かった。わたくしが直接知っている実例だけでも、幾人かいる。  さて、戦争がおわって、こういう人たちはいったい、どうなったであろうか。終戦時のドサクサに殺されたもの、日本人として名のりをあげるチャンスを逸してしまったものなど、いろいろなケースがある。日本が勝っている場合でも、こういう人たちは報いられるところがきわめて少なかった。まして敗戦後においては、何もかもおしまいである。  明石の場合にしても、日露戦史に一兵士の勲功まで記録されているのに、彼の名はどこにも出なかった。仕事の性質上、これはやむをえないということになっていた。そこで、   遼水韓山賊営を斬る   三軍の僚友皆功名   愚生の苦節何人か識らん   策つきて茫然月明に対す といったような詩をつくって心中のウップンをもらしていると、ドイツ大使館付武官を命ぜられて、またも渡欧することになった。そのころ、山県有朋が戦時中に明石のやったことをきいて、 「明石という奴は恐ろしいやつで、何をやらかすかわからない」 と、人に語ったということが明石の耳にはいった。�陸軍の大御所�といわれた山県ににらまれたのでは、もはや出世の見込みはないと明石はあきらめていた。  ところが、突然、明石は少将に進級し、韓国駐留軍参謀長兼憲兵隊長として伊藤統監を助けることになった。そのいきさつはこうだ。  韓国で伊藤が直面していた難局を収拾するには、よっぽど腕ききの軍人をつけねばならないというので、当時の陸相寺内正毅が、陸軍部内を物色した結果、明石に白羽の矢が立てられたのである。寺内に明石を推薦したのは、のちの陸軍大将、政友会総裁田中義一であるが、当時田中は大佐で、陸軍省軍事課長であった。ロシア本国やその支配下にある国々で、革命・暴動・暗殺・独立・デモその他あらゆる種類の謀略を計画し、援助してきた当の本人が、こんどはこれらを防止し、鎮圧する立場におかれたのである。この人事は、終戦直後の労働攻勢のためにつぶれかかっていた会社で、労組の委員長をバッテキして労務担当の重役にすえたようなものである。  いずれにしても、韓国で明石は魚が水をえたように、存分に腕をふるったのである。日韓併合の功労者としては、伊藤統監、寺内総監よりも上だと見る人もある。この重要な地位に明石を起用するヒントを田中軍事課長に与えたのは、大井成元《おおいしげもと》少将(のちに大将)と、秋山雅之介博士(のちに朝鮮総督府参事官から法政大学長となった国際公法学者)だといわれている。  併合前の韓国警察官は、捕盗大将、巡校、巡検などの階級があった。�捕盗大将�というのは、警視総監に相当し、以下警視、警部、巡査ということになるのであるが、かれらの多くは、役得をむさぼることしか考えていなかった。日清戦争後に日本の警察官を顧問に迎えたこともあるけれど、ロシアの勢力が伸びるにつれて、この顧問も解職されてしまった。明治二十九年、京城釜山間に電信がしかれ、これを警備するという名目で、日本の憲兵を送りこんだところ、これが沿道の市民たちに歓迎されたという。  その後、韓国の警察行政は、日本側と韓国側、警察と憲兵というふうに分裂し、多元化して、治安を維持することがきわめて困難な状態にあった。そこへ明石少将がのりこんできて、憲兵隊長と警察総長を兼ねて、警察行政の強力な一元化に成功したのである。それまで警務局長だった松井茂博士は引退した。  明治四十二年六月、東京大相撲の一行が、大陸巡業の途次京城を訪れた。常陸山、梅ケ谷の全盛時代で、人気が沸騰し、連日大入り満員であった。そこでこれを韓国皇帝にもご覧に入れてはどうかということになって、昌徳宮内に土俵を築き、皇帝をはじめ、日韓両国の高官、名士をことごとく招待した。これは六月二十六日のことであるが、このお祭り騒ぎのさなかに、警察権委任という重要条約がこっそりと締結され、日本人憲兵一千名、韓国人の補助憲兵四千名、日本人巡査二千名、韓国人巡査三千二百名、合計一万二百名が、一丸となって明石少将の完全な支配下におかれることになった。かくして日韓併合のために、外堀はすっかり埋められた。  [#小見出し]ロシア的な装飾心理  伊藤博文というのは、見栄坊で、はで好きで、威ばりたがるところは、まるでこどものようであった。異常な立身出世をしたものの、生まれがよくないので、心の底に一種の劣等感がつきまとっていたからであろう。  朝鮮に統監府ができると、彼は文官にまで制服をつくった。勅任官の袖には、金筋三本に桐の星が三つついていて、奏任官になると金筋二本に星が二つ、判任官は銀筋一本に銀星一つといったぐあいである。さらに礼装ともなると、同じようなものが両肩にもついて、文官でも剣をさげさせた。とにかく正式の役人となったものは、小学校の校長や郵便局長にいたるまでこれに準じたのであって、こういう形で植民地の民衆を威圧しようとしたのだ。日本人相互のあいだでも、�金筋��銀筋�などということばが、身分、地位をあらわすものとして長くのこった。  こういった文官制服制度を台湾総督府から鉄道院にまでもちこんだのが後藤新平である。低い身分から身をおこした点、出世意欲の強い点、頭の回転の早い点、死ぬまで稚気を失わなかった点で、伊藤と後藤はひじょうによく似ている。  伊藤自身が身につけた統監服たるや、その豪華さにおいて類のないもので、肩には金色さん然たるエポレット(フサつきの肩章)、袖には幅広のベタ金に三つ星、胸いっぱいに勲章をブラさげて、明治天皇からおくられた豪華な馬車にのり、陸軍大将に準ずるラッパを吹奏させながら、京城の大通りを行進した姿は、豪華そのものだったと楢崎観一は書いている。  博文はまた�統監旗�というものをつくった。これは四分の三を青く染め、四分の一の白地に赤く日の丸を出したもので、天皇旗、皇后旗、皇太子旗、皇太子妃旗、親王旗などの場合をのぞいては、海軍で司令官や将官の所在を示す旗はあるが、個人がこういうものをつかった例は、このときまでになかった。しかるに博文は、軍艦にのりこむとメイン・マストに、統監邸にいる場合は、高い旗ザオにこれをかかげさせて、その存在を知らせた。  これで思い出すのは、オペラなどによく出てくる帝政ロシアの高級軍人の服装で、肩章をはじめ、すべてが大ゲサである。これは帝政ロシア特有の風俗かと思っていたが、この点はソビエトになってもたいしてかわっていないのに驚いた。モスクワやレニングラードの劇場などにはいると、いちばん上等の席にこういった服装を身につけた高級軍人がずらりとならんでいるのを見て、歴史が逆回転して帝政時代が再現されたような錯覚をおこしたものだ。  ロシア人をはじめ、ドイツ人、オーストリア人など、北欧系のものは権力表示欲が異常に強く、民衆もまたこれを怪しまないようである。伊藤博文というのは、維新で世に出た日本の政治家のなかでは、どっちかというと、古くから親露派と見られてきたものだが、心理的もしくは人間形成の上で、あるいは民衆というものにたいする考えかたにおいて、ロシア人と相通じるところがあったのではあるまいか。そういえば、彼のさいごもロシア的であった。  朝鮮の治安維持が、明石元二郎の手で、完全に一元化されたことは前にのべたが、伊藤博文が安重根によってハルビンで暗殺されてから、朝鮮人の日本人にたいするレジスタンスの性格がかわってきた。これまで治安を乱していたのは、主として失業者、浮浪者のたぐいであったのが、新しい教育をうけた青年層のあいだに、抗日の秘密団体がつくられ、それがだんだんひろがってきた。つまり、非合法的地下組織が強化されてきたのである。  安重根は、事件当時三十二歳であった。三人の共犯者とともにその場でロシアの警官に捕えられ、日本側に引きわたされて、旅順監獄に護送された。そして翌四十三年三月十四日、安重根は死刑になったが、他は三年以下の懲役に処せられたところを見ると、たいして関係はなかったらしい。  日本官憲は、背後関係をつきとめようとして、ずいぶん苦心したことはいうまでもない。しかし安重根は、 「左手の薬指をきって誓った同志が十一人いる」 ということのほか、絶対に口をわらなかった。そこで明石は部下を総動員して、左手の薬指のない人間を、全半島にわたり、しらみつぶしに調べさせたけれど、ついに一人も見つからなかった。もしかすると、これは、当局の目をそらせるために、安重根が考え出したトリックだったのかもしれない。  安重根は字《あざな》を応七《おうしち》といって、熱烈なキリスト教徒の家庭に育ち、ウラジオストクに本部をもつ秘密結社に属していた。事件後、彼はたちまち全朝鮮の英雄、偶像となり、その伝記、人となり、思想などを書いたものが『近世歴史』という題名で発行された。これは 「汝(日本のこと)いかに強暴なるも天意人心を如何せん」といったような激越なことばをつらねたもので、小説のようにおもしろく、読むものを熱狂せしめ、写本となって、手から手へとうつって行った。それは明治維新の尊皇攘夷の檄文《げきぶん》と同じであった。  [#小見出し]史上最高の言論統制  伊藤博文は、統監として赴任早々記者会見で、 「わが輩は天皇陛下の勅命をおびて韓国統治にやってきたものじゃ。わが輩に盾《たて》つくものは天皇に忠たるゆえんでない」 と放言して物議をかもしたことがある。寺内の頭がとがって三角形をなしているところから�ビリケン�と呼ばれ、これは�非立憲�に通ずるというので、からかいの対象にされていたが、彼自身は「天皇に直隷」している総督にたいし、このような侮辱的言辞をろうするのはけしからんといってふんがいした。こういう考えかたは、明治の高級官吏に共通したもので、敗戦前までずっと尾を引いていた。  ところで、明石は警察権をその手におさめるとともに、一切の政治結社を禁止した。「一進会」のように、親日の先頭となって動いてきたものでさえも、存続を許さなかった。新聞、雑誌、通信、電報など片っぱしから検閲し、少しでも怪しいと見たものはすべて没収した。前からあった新聞は、ことごとく発行を停止し、日本字のものでは『京城日報』、朝鮮字のものでは『毎日新聞』の各一紙に限ってこれを認めた。『京城日報』の経営は一時|徳富蘇峰《とくとみそほう》の手にゆだねられた。  日本および諸外国からはいってくる新聞、雑誌、単行本も、ほとんど没収された。とくにアメリカやウラジオストクで発行されているものの取りしまりはきびしかった。  日本人記者でも、総督府の政策に反するような意見をのべたり、高官の私生活をバクロした記事を書いたりしたものは、ただちに退去命令をくった。かくて世界のマスコミ史上においても、異例といっていいほど統制の徹底した時代が現出したのである。もっとも独立後に成立した李承晩や朴正煕《ぼくせいき》の政権のもとでも、言論の自由がほとんど認められていないのを見ると、これは植民地もしくは半植民地的国家の宿命的な性格だということになるかもしれない。とくに併合前後の朝鮮の場合は、ロシア革命をめぐる陰謀や工作の立役者で裏の裏まで知りぬいている明石将軍のような人物が直接取りしまりの任にあったということが、こういう事態を生んだのだともいえよう。  一方、朝鮮民衆の抵抗も、相当はげしいものがあった。併合直後の明治四十四年七月、寺内総督暗殺の陰謀が発覚したが、その首謀者は安明根《あんめいこん》といって、安重根の従弟であった。重根が刑死する前、旅順の監獄で面会したときに託された遺言に基づき、同志を糾合して抗日の秘密結社をつくったのであるが、これには急進派と漸進派の二派があった。急進派は、強盗・脅迫その他、手段をえらばないで、まず百万円の資金をつくり、決死隊をつのって総督以下日本側要人や朝鮮人の裏切り者をことごとく暗殺し、各地で暴動をおこして、いっきょに独立へもって行こうとするものだ。これに反して漸進派は、将来日米、日露のあいだに戦争がおこるのは必至と見て、ウラジオストク、アメリカ、ハワイなどに朝鮮人の軍官学校をもうけて青年を訓練し、これを中心に�朝鮮独立軍�をつくろうとするもので、本部はカリフォルニア州のサクラメントにおかれていた。  急進派の中心人物は安明根だが、漸進派の秘密結社「新民会」の会長は、日韓併合で男爵を授けられた尹致昊《いんちこう》であった。安明根が資金調達のため平壌に行こうとするところをつかまり、イモヅル式に、両派合わせて約百五十名が検挙され、安明根は終身刑に処せられた。このとき弁護に立ったのは、のちに鉄道大臣となって疑獄に連坐した小川平吉である。  つづいて、明治四十五年七月十二日「ハルビン事件」というのがおこった。首相の地位を退いた桂太郎が後藤新平、若槻礼次郎《わかつきれいじろう》らをしたがえて外遊の途につき、ハルビンを通過しようとするその前日、この一行を襲撃しようとして待ちかまえていた朝鮮人九十二名がロシアの警官に逮捕され、日本の総領事に引きわたされた。しかしその多くは朝鮮の国籍を脱しているので、どうにもならなかった。  かくて桂の一行はペテルスブルグにむかったが、途中で明治天皇ご不例の報に接し、大急ぎで帰国し、大正元年十二月、西園寺公望《さいおんじきんもち》内閣のあとをうけて桂が三たび大命を拝し、後藤は逓相、若槻は蔵相となった。  桂は長州閥のホープで、第二の伊藤博文と見られ、有名な芸者「お鯉」を首相官邸に引き入れて、傍若無人にふるまったり、新しい政党をつくってその党首になろうとしたところまで博文に似ているが、危うく伊藤のあとを追って、ハルビン駅頭で命を失うところであった。  安重根、安明根の遺志をうけついで、日本国内でその目的を達しようとしたといわれているのが朴烈《ぼくれつ》である。大正十二年秋に挙行されることになっていた皇太子の婚儀にさいし、朴烈は日本人の妻|金子文子《かねこふみこ》とともに、天皇一家暗殺の計画を立てていたというので、関東大震災の日の翌日検挙され、死刑の判決をうけたが、恩赦で無期懲役となった。その後、金子は宇都宮刑務所で自殺したけれど、朴烈は第二次大戦後釈放され、北朝鮮にかえって活躍している。  安重根のむすこは、戦前、上海のハイアライの前で、大きな薬局を経営していた。戦後、京城放送局のかたわらに彼の銅像が建てられたが、彼の遺族は、南朝鮮にはオイと称するのがひとりいるだけで、それもあまり恵まれた生活をしていないときいた。かつて京城にあった「博文寺」は朝鮮神宮とともに、今はあとかたもない。  [#小見出し]大規模だった�万歳事件�  大正元年、明石元二郎は中将に昇進し、同三年第一次世界大戦がおこって、日本がドイツに宣戦を布告すると、参謀総長長谷川好道大将の下で次長として青島作戦に参画、翌四年第六師団長に補せられ、七年六月台湾総督となって大将に進んだが、八年十月死亡、男爵を授けられた。  この経歴を見てもわかるように、軍人としての彼の功績は、もっぱら諜報・謀略・警備の形においてなされたもので、実戦の経験はほとんどないし、隊付きになったのも十か月くらいしかない。日清戦争のさいには、近衛師団参謀として出征したが、途中で講和になった。これで大将にまで進んだというのはまったく珍しい例で、この種の勤務がいかに彼に適していたかがわかる。明石より二十二年前に台湾総督となって二年とつづかなかった乃木大将とは対照的にちがった型の軍人だったわけだ。乃木大将のもとに旅順攻囲戦に参加し、明治神宮宮司として晩年をおくった一戸兵衛《いちのへひようえ》陸軍大将は、 「明石ならなんでもできる。陸軍大臣でも総理大臣でも、りっぱにやってのけるだろう」 といった。それが植民地長官でおわったのは、長州とか、薩摩とかいったような背景をもたなかったからであろう。明石が青年将校で嘱望されていたころ、山県有朋についで日本の陸軍を背負って立つものと見られていた川上操六《かわかみそうろく》大将から、その娘をもらってくれといわれ、即座にことわったという話がのこっている。  明石のあとをついで朝鮮の警務総長となったのは立花小一郎中将(のち大将、福岡市長)であるが、その事務引きつぎにあたり、明石は朝鮮のおもな人物の個性、長所、短所、信頼度などについて、いちいち例をあげ、綿密な説明を加えたので、立花はびっくりしたという。  また明石の在任中、京城で暴動がおこったとき、その鎮圧策として、 「決して暴徒に武器をむけてはならぬ。そのかわり、ポンプで水をかけるがよい。それもなるべく足もとより上にはかけるな」 と命令した。部下がそのとおりにすると、暴徒はたちまち四散してしまった。これは明石がレーニンから教えられたもので、暴動をおこすほうも、これを取りしまる側も、武器を手にしてはならぬ。一方が武器をもつと、相手も必ずこれを用意するようになり、暴動は激化するばかりだというのだ。�血の日曜日�や�ポチョムキン号の反乱�などの経験に基づいているのであろう。  明石はまたレーニンの人柄について、 「彼は目的のために手段をえらばぬ人間のように思われているが、これはまちがいで、彼は珍しい至誠純忠の精神を身につけた人物だ。彼の眼中には主義と国家あるのみで、そのために私利私欲はいうまでもなく、生命をすてることさえなんとも思っていない。将来ロシアで革命の大事を達成するものが出るとすれば、それはレーニンをおいてほかにない」 と、いつも親友に語っていた。レーニンが当時の日本に生まれていたならば明石になり、明石が当時のロシアに生まれていたならばレーニンになったろうということにもなる。  さて、明石が朝鮮を去って五年後の大正八年三月一日、�万歳事件�と呼ばれている大暴動が朝鮮におこった。ロシアでソビエト政権ができたこと、アメリカのウィルソン大統領が�民族自決�の声明を出したことが、アメリカ、シナ、ロシアなどに亡命している朝鮮の独立運動家を強く刺激し、勇気づけていたところへ、李太王《りたいおう》が死んだのは日本人侍医によって毒殺されたのだという風説が流されて、内外の朝鮮人がいっせいにたちあがったのだ。二月八日、まず東京の留学生が独立大会を開いて宣言書を発表したのをキッカケに、朝鮮では三月一日を期して、なん万という民衆が京城の「パゴダ公園」にあつまり、口々に「万歳、万歳」を叫びながら、日本人官舎や商店を片っぱしから襲撃した。そしてこの暴動はたちまち朝鮮全土にひろがり、半年くらいもつづいた。  この事件で検挙されたものは、五万二千七百人、死者七千九百人、負傷者一万五千九百人と当局は発表しているが、この数字を見ても、いかにこの暴動が大規模であったかがわかる。  一方、朝鮮人たちは、連名でウィルソン大統領や日本の原敬首相あてに、�独立請願文�をおくった。当時の記録によると、この独立運動を助けるために、アメリカの兵隊が仁川に上陸したとか、近くウィルソンが飛行機でやってくるとかいうウワサが、まことしやかに伝えられたという。また当時パリで開かれていた国際連盟大会にも、呂運享《ろうんきよう》、金奎植《きんけいしよく》などを派遣し、各国代表にむかって大いに訴えようとしたけれど、これは成功するにいたらなかった。いずれにしても、アメリカの援助で独立するというのは、朝鮮人の長い夢であったのだ。  李承晩も、はじめは親日派であったが、アメリカに亡命、�万歳事件�後、上海に「大韓民国臨時政府」ができたとき、�臨時大統領�に就任し、朝鮮をアメリカの委任統治下におく運動をつづけているうちに、大金持ちとなり、日本の敗戦で、ついにほんものの大統領になったのである。  京城の「パゴダ公園」は、わたくしも行って見たが、ロンドンの「ハイド・パーク」と同じように、今でも政治思想宣伝の場となっている。 [#改ページ] [#中見出し]間島ソビエト探訪記   ——朝鮮の北部にできた知られざる�ソビエト地区�の実態——  [#小見出し]辺境に�抗日組織� �万歳事件�は、朝鮮側に多くの犠牲者を出しただけで、�独立�の目的を達することはできなかったが、日本国内では�大正デモクラシー�がさかんに唱え出されたころで、朝鮮の武断統治にたいする非難が集中し、ついに総督の更迭を見るにいたった。寺内正毅、長谷川好道のあとをうけて三代目総督にえらばれた斎藤実《さいとうまこと》海軍大将は、さっそく笞刑《ちけい》や文官の帯剣を廃止し、言論・出版を許可制とし、集会・結社の届け出制を実施した。  総督の任用も、陸海軍大将に限られていたのが、文官にまでひろげられ、憲兵と警察を分離し、警察権は地方長官がにぎることになった。  斎藤総督は、�徳化政治�を唱えて、のちに�朝鮮の父�とまでいわれた人である。それでも着任早々、すなわち、大正八年九月二日、京城の南大門駅に降り立ったとき、爆弾に見舞われた。そのさい、犯人は「天を仰ぎ瞑目《めいもく》して捕縛を待った」けれど、その場でこれを捕えるものはなかったという。幸いにして斎藤は、帯革を傷つけられたにすぎなかったが、それから十七年後の昭和十一年二月二十六日、軍部クーデターの犠牲となった。 �万歳事件�の指導者の一部は上海に亡命して�大韓民国臨時政府�をつくったことは前にのべたが、それより前、すでに日韓併合のおこなわれるころから、日本の治下に生きることをいさぎよしとしない朝鮮人の一部は、北朝鮮と満州の境界にある間島《かんとう》へ移住していた。そこでロシアについで早く、一種の�ソビエト地区�が形成されていたことを知っている日本人は少ない。 �間島�といっても島ではない。それは朝鮮|豆満《とまん》江の下流にできた中の島のようなところで、土地が比較的肥えているものだから、朝鮮の難民が古くからうつり住んでいた。一説によると、�間島�とは�墾島�のなまったものだという。むかしはオランカイといって、加藤清正《かとうきよまさ》が攻めこんできたところだが、所属がはっきりしなくて、満州人と朝鮮人が雑居していた。一つは、清国が中国本土を征服したさい、�満州八旗�を組織するために、このへんの壮丁をあつめて各地に派遣し、駐屯させたので、満州人の人口が希薄になったところへ、朝鮮人が長白山脈をこえて続々はいりこんだのだともいわれている。  明治二十年ごろ、清・韓両国の代表が派遣されて、国境問題の解決をはかったときには、韓人の移住者は十万人をこえていたのにたいし、シナ人・満州人は三万人程度であった。明治三十三年、「義和団事件」がおこると、そのすきに乗じて、ロシア人がのりこんできて、この地方を占領した。しかし、日露戦争で日本が勝って、韓国は日本の保護領となるとともに、清・露の勢力がここから駆逐された。  そこで、明治四十年八月、日本は韓国側の依頼をうけて、竜井村《りゆうせいそん》というところに「統監府臨時間島派出所」をもうけて、韓国人を保護することになった。その所長となった斎藤季治郎《さいとうすえじろう》中佐は、日露戦争では第三軍の参謀として旅順攻囲軍に参加した人で、のちに中将に進み、第十一師団長としてシベリア出征中死亡したが、生きておれば当然大将になっている人物だった。  その後、この国境紛争の解決は北京にうつされ、明治四十二年九月「間島協約」が結ばれた。その結果、この地方の領有権は清国にあるが、韓国人の裁判には日本側も立ちあうことになり、統監府の派出所を廃止し、そのかわりに総領事館をおいた。古くからこのへんいったいは�化外《かがい》の地�ということになっていて、山東人・韓国人などが、勝手に耕作したり、山の木をきったりして生活していた。むろん、戸籍などというものはないし、税金をとられることもなかった。ただ、ときどき土匪がやってきて、物資や人間を徴発して行くことが、税金といえば税金のようなものであった。いわば一種の�真空地帯�であった。こういうところに、�抗日パルチザン�が組織され、小型のソビエトが無数につくられたのである。 �万歳事件�後に上海に亡命して「大韓民国臨時政府」をつくったのは、主として民族主義的傾向の強い人々で、その多くはインテリもしくは上層階級出身者であった。このことは、貴族の家に生まれ、旧朝鮮王室の枢密顧問に任ぜられたこともある李承晩を�臨時大統領�に頂いたのを見ても明らかである。  これに反して、間島地方に脱れ出たものは、もともと土地を追われた朝鮮の貧農が大部分を占めていた。そこへ二年前にロシアでおこった革命の影響が、まずこの地方に、早く、強く、深く、直接に浸透してきたことは、想像するにかたくない。 「中国共産党」が上海で創立大会を開いたのは一九二一年(大正十年)七月で、そのときの党員は五十七名、あつまったのは湖南代表の毛沢東《もうたくとう》、湖北代表の董必武《とうひつぶ》以下、わずか十二名であった。それからちょうど一年後に日本共産党が東京で結成されたのであるが、これは思想団体の域を脱しないものであった。  ところが、間島の共産主義運動は、はじめからソビエトの形をとり、�解放地区�としてスタートしたのだ。  [#小見出し]間島ソビエトの勢力  ロシアばかりでなく、朝鮮と満州の境の�間島�というところにもソビエトができたということをわたくしは日本の新聞で見て、強い好奇心にかられ、なんとかして行ってみたいと思ったのは、大正の末か昭和のはじめごろだった。しかし、日本人はとてもよりつけそうもないときいてあきらめていた。  昭和十年、女房の着物をそっくり質屋へはこんで、なん回目かの大陸旅行に出たとき、できれば間島地方へ行ってみたいという希望を出あう人ごとにのべたところ、危険だけれど、最近は�共匪�(共産党員)の勢力がいくらか後退したので、行って行けないこともあるまいといわれて、出かける決心をした。 �満州国�が、国際連盟派遣のリットン調査団一行の到着に先立って成立を宣言したのは、昭和七年の三月一日で、間島地方は新たに独立の一省とされ、住民には朝鮮人が多いというので、省長にも朝鮮人が任命されていた。そのころの記録ではこの地方の�共匪�の総数は約二万と発表されているが、ほんとはもっと多かったにちがいない。�満州国�ができて大討伐をおこなった結果、大同(�満州国�の年号)二年九月現在、�間島ソビエト�の勢力分布は、ざっとつぎの通りであった。  所在地  地方ソビエト数  所属人数  延吉県     一三   一、五〇〇  琿春県      八   一、一〇〇  汪清県      四     八〇〇  合 計     二五   三、四〇〇  その構成の内訳はつぎのようになっている。  党  員       五八〇(別に満州人  二七)  共産青年同盟員    八三〇(別に満州人  一九)  児童(ピオニール)一、九五〇(別に満州人  一四)  反日会員    一八、八〇〇(別に満州人 三九〇)  遊撃隊        五六五(別に満州人  一六)  武 器     炸 爆   一、八〇〇     拳 銃     一二〇     長 銃     四四〇  これが間島ソビエト地区の総兵力である。どうせこの数字も推定にすぎないと思うが、この反日分子のなかで、朝鮮人の総計約二万二千七百人にたいし、満州人は六百人足らずで、二・五パーセントにすぎない。この地方には満州人の絶対数が少ないからでもあろうが、朝鮮人の反日意識がいかに強く、しかも単なる民族主義に基づく�独立運動�ではなく、ソ連式の共産主義のイデオロギーに基づいて、小型ながらも、多くのソビエトをつくっていたのだ。このことは当時日本人には、その内容が具体的には知らされていなかったけれど、実はわたくし自身も行って見てびっくりした次第である。  そのころ�満州国�内の旅行はきわめて危険であった。ハルビンの近くで、日本の企画院から派遣された調査団が�匪賊�におそわれ、拉致《らち》されていたとき、日本側の救出部隊がやってきたのを知って、そのなかの一人が匪賊から拳銃をノドもとにつきつけられながら、勇敢にも「日本人ここにあり」と叫んだ。そのために一同危地を脱することができたというので、新聞雑誌に大きく伝えられ、「日本人ここにあり」ということばが、一時流行語にまでなったものだ。これを叫んだのは、愛媛県今治市出身の村上条太郎(当時は退役の准尉、後に中尉)で、彼は�北満の義人�と呼ばれ、郷里に胸像がたてられた。この調査団に加わっていた藤沢威雄《ふじさわたけお》は、数学界の権威|藤沢利喜太郎《ふじさわりきたろう》博士の次男で、戦時中は科学動員協会理事長、現在は産業科学協会理事長となっている。もう一人の調査団員内田源兵衛は、わたくしの高等学校時代の同期生で、中華民国大使館参事官などを経て、現在は内閣の立法考査局専門委員をしている。  こういった状態にあったので、当時は列車の襲撃がひんぴんとしておこなわれ、とくに厳重に警備されている幹線をのぞいては、たいてい昼間だけしか運転しなかった。そういう時期に、わたくしはひとりでリュックを背負って、ソビエト地区の中心となっていた竜井村にひょっこりと出かけて行ったのである。そこでまず会った日本人は、石本恵吉男爵であった。というよりも、社会党の加藤勘十夫人で、参議院議員で、サンガー夫人の親友で、MRA(道徳再武装運動)の熱心なメンバーとして知られている加藤シヅエさんのもとの主人といったほうがわかりやすい。  石本恵吉は、第二次西園寺内閣の陸相(途中死亡して上原勇作《うえはらゆうさく》とかわる)石本新六中将の長男で、すでに男爵家をついでいた。華族社会ではかわりダネの新人として知られた人で、琿春《こんしゆん》鉄路股※[#「にんべん+分」、unicode4efd]有限公司(株式会社)の社長として現地にきていたのだが、初対面のわたくしに土地の事情についてザックバランに話してくれた。  この地域は、できたばかりの�満州国�のガンと見られ、日本軍が大部隊を出動させて、討伐に力をそそいだため、武装した�共産匪�すなわち�赤色パルチザン�は、ほとんど潰滅した、というよりも、もっと奥地に追いこまれ、竜井村の町やその周辺は、どうやら治安を保つことができるようになっていたが、長白山脈から鏡泊湖にかけての山間地帯は、まだ有力な共産軍の支配下にあるということだった。  当時のわたくしは、若くて冒険心にもえていたから、書物の上でしか知らないソビエトというものをちょっとでものぞいてみたいという考えをすてることができなかった。  [#小見出し]ひそかに成長していた独立朝鮮  昭和初期には、朝鮮人は日本人ということになっていた。そして朝鮮と満州の境界地帯が准日本領だったとすれば、�間島ソビエト�は、日本で最初の、そして唯一のソビエトということになる。  したがって、現在の「朝鮮民主主義人民共和国」は、日本の敗戦後、ソ連軍の侵入によって生まれたということになっているけれど、そのタネはずっと古くまかれ、日本国民のあまり知らないところで、気がつかないあいだに、相当成長していたのである。  わたくしが、間島地方を訪ねたころは、日本軍の大討伐のあとで、清郷工作が相当進んでいた。この工作は、八十間平方(約二・一町歩)を標準にして一つの部落をつくり、そこに百戸の農民を入れるのである。この点は唐の均田法、日本の大化改新後の�口分田《くぶんでん》�などとよく似ている。  しかし、この場合は、共産勢力という敵にそなえることが主たる目的だったから、どっちかというと、�屯田兵�の性格をそなえていた。この標準部落の周囲には、高さ八尺の土壁をめぐらし、四隅に望楼を兼ねた射塔をつくり、これには銃眼がついていて、そのなかに五人内外の射手がはいれるようになっていた。  入り口は四方にあるが、それは潜《くぐ》り戸式で、敵が騎馬で侵入してくるのをこれで防ぐのだ。門と門のあいだは、三間くらいの道路でつながっていて、その外側には一間幅の堀ができていた。わたくしが訪ねたころには、こういう部落が二十五くらいもつくられていて、すでに二千戸近くはいっているときいた。  その後、日華事変がおこり、わたくしは火野葦平《ひのあしへい》などとともに、広東の敵前上陸部隊に従軍したが、バイヤス湾から恵州に向かう途中、�海賊部落�というのにぶつかった。  そのころ、南シナ海には海賊が横行していて、あるアメリカの新聞記者が、その内情をさぐるため、わざと罪を犯して香港の刑務所にはいり、そこで親しくなった海賊の手引きでかれらの部落にのりこんだルポルタージュをたいへんおもしろく読んだことを思い出した。  偶然にも海賊部落を訪れることができてわかったことは、その構造が、間島の�清郷部落�と実によく似ているということだ。�清郷部落�とちがうところは、拉致してきた人質を入れておく場所ができていることである。古代ギリシャやアラビアの海賊、中世紀の北欧やエリザベス一世治下のイギリスのバイキング、日本の倭寇などについては古くから興味をもっていろいろと読んでいたが、二十世紀においても、南支ではそれが半ば公然たる職業として成立し、しかも�同業者�があつまって一つの部落を形成していたのである。わたくしは一部落しか見なかったが、この地方には、こんなのがあちこちにあって、互いに連絡をとり、必要に応じて共同戦線をはっていたらしい。日本でも、明治四十五年六月、瀬戸内海で�坊主船�という海賊船がつかまり、神戸地方裁判所で公判に付されたという記事が、『日本人』という雑誌に出ている。  日華事変が末期に近づいて、中国本土でも、大衆の抗日レジスタンスが活溌になってくると、日本軍のほうではもてあまし、揚子江沿岸その他に�清郷部落�をつくった。現在、南ベトナムでは、ベトコン(ベトナム共産軍)のゲリラに手をやいたアメリカ軍が、�平和部落�と称して、同じようなものをつくっている。  こういった特殊な目的をもってつくられた部落に共通した特色は、その構造・構成がよく似ていることである。目的が似ているから、そういうことになるのであろう。  ところで、わたくしが�間島ソビエト�を訪ねたころ、�北朝鮮のレーニン�で、現在「朝鮮民主主義人民共和国」首相の地位にある金日成は、どこでどうしていたであろうか。  ながいあいだ地下活動をつづけて、ついに共産主義的な国家体制の建設に成功し、その独裁者となった人物の�伝記�には、共通している点が多い。出生地、出生年月日、両親・兄弟その他の親類関係がはっきりしないこと、名前が多くてどれが本名だかわからないこと、経歴のなかに何をしていたかよくわからなくて空白になっている時期があること、公表されている�伝記�と一般に知られていることとのあいだにくいちがいがあること、がいして当人をめぐる�神話�的伝説が多いこと。なかには、たとえばユーゴのチトー大統領、ベトナムのホー・チ・ミン大統領のように、ニセモノ説まで流布されたものもある。  金日成は一九一二年(明治四十五年、すなわち日韓併合の翌々年)平安南道で、�革命的な家庭�に生まれ、十四歳のとき、父とともに満州へ亡命し、中学在学中に「共産主義青年同盟」にはいって学生運動の先頭に立ち、翌年捕えられて吉林監獄にはいった。二年後に釈放されると、「東満特別区共産主義青年団」の書記にえらばれた。やがて「抗日遊撃隊」ができると、その有力な指導者となって、長白山脈から松花江流域を根拠地に朝鮮・中国連合の�革命地方政権�をつくり、�人民革命軍�を組織した。さらに抗日民族統一戦線である�祖国光復会�をつくったのは、一九三五年(昭和十年)五月だということになっている。これが事実だとすれば、ちょうどわたくしがこの地方を訪れたときである。  [#小見出し]エネルギーのはけどころ  そのころの満州は、現在のアフリカに似ていた。旧ベルギー領コンゴやポルトガル領のアンゴラと同じように、いたるところで、準戦状態を現出していた。  満州では、治安をみだすものをおしなべて�匪賊�と呼んでいたが、そのなかには、単純な土匪もあれば、民族主義的もしくは共産主義的背景をもった�民族解放軍�もあって、そのほうがむしろ有力だった。これに日本、ソ連、中国(国民党と共産党の両派)がからんで、複雑怪奇な様相を呈していた。ひとくちにいって、大規模の�国際的内乱�というべきものであった。 �匪賊�は、当時の満州の最大の名物であったが、満州系はこれまでの�馬賊�もしくはこれに類するもので、�共匪�すなわち思想的背景をもっていたのは、ほとんど朝鮮系であった。  昭和十年のひと夏を、わたくしはほとんど満州と北支でくらしたのであるが、ハルビン駅の旅行案内所で、妙なケースにぶつかった。二人のアメリカ人が�匪賊�の出るところへ案内してくれといってきかないのである。かれらは大学生で、暑中休暇を利用して満州へきたのだが、なんとしても�匪賊�を見てかえりたいというのだ。生命の安全を保障できないといっても、そんなことはもとより承知の上だというわけで、満鉄職員はもてあました。  この応対をそばできいていて、わたくしはアメリカ人の民族的な若さとスタミナを感じた。死んだケネディ大統領は、世界の低開発地帯の開発を助けるために�平和部隊�を計画し育成したが、これまでのところ、あまり成績が上がっていないらしい。現地で排撃されるという事態も、あちこちでおこっている。かつては手弁当で、危険をおかしてわざわざ�匪賊�の出るところへ出かけていったのが、今ではアメリカの世界政策の一つとして、ジャングルのなかでも、電気冷蔵庫やクーラーをもちこまないとくらせないというのでは、現地で歓迎されないのも当然である。それだけアメリカのフロンティア精神がおとろえたのだといえよう。  日本人でも、明治・大正時代には、現状に不満をもっている若ものたちは、「満州に行って馬賊になる」といって親たちを困らせたものだ。現在、NHKの会長におさまっている阿部真之助も、若いころ、大連の新聞社につとめていて、土匪の頭目と親しくなり、しじゅう会っていたと自分で書いている。  正直なところ、わたくし自身にしても、学生時代にはマルクス・レーニン主義を多少かじっていたのであるが�共匪�というものについて、はっきりした観念をもっていなかった。むろん、その仲間に加わったり、特別の目的をもってこれを研究したりするつもりはなかった。今になって考えると、ただ探究心、好奇心といったようなものが、人いちばい強かっただけだ。  毛沢東にひきいられた�紅軍�(中国共産軍)が、一万キロに達する歴史的な大移動をおこなって陜西省北部の延安に到着、そこに新しい根拠地をつくったのは一九三五年、すなわち、ちょうどこの年にあたるのだが、わたくしも行く方法さえ見つかれば、延安にでも出かけて行ったかも知れない。当時、外国人でここを訪問したのは、のちに『中国の赤い星』を書いたアメリカ人エドガー・スノーくらいのものであるが、わたくしも行けばなんとかなるくらいに考えていた。現に中国評論家の藤枝丈夫のごときは、延安行きの具体的計画を立てて、わたくしのところへ相談にきたものだ。  そのころの日本人は、朝鮮・満州はもちろん、中国全土を自由に旅行することができた。旅券とか査証とかの必要がなく、そういうことを考えもしなかった。  その点で現在の若い人たちは不幸である。ジャズ、マンボ、野球、ボーリング、パチンコのようなものにしか、ありあまるエネルギーをむけることができないからだ。そこで『何でもみてやろう』の小田実とか、太平洋横断の堀江謙一とかいう新しい冒険家が出てくるのである。  わたくしたちよりずっと前には、明治二十五年単騎ベルリンを発し、ウラル山脈をこえ、シベリアを通ってウラジオストクについた福島安正少佐とか、千島からさらに南極の探検を企てた白瀬矗《しらせのぶ》中尉の�壮挙�とかが、若い日本人の血をわかせたものだ。これらに比べて、小田、堀江青年のばあいは、規模はずっと小さいが、いずれも個人の責任と負担においてなされた点がちがっている。それというのも、日本国そのものの性格がちがってきたからで、別に民族のスタミナが低下したわけではないとわたくしは見ている。  それはさておいて、わたくしも、満鮮国境のソビエト訪問という�冒険�にのり出すため、まず牡丹江に出かけた。ここはもと寧北といったところでハルビンから綏芬河《すいふんが》にいたる旧東支鉄道のちょうど中間にあたり、国境の図們《ともん》にいたる図寧線が開通、佳木斯《ちやむす》に行く新線の工事がはじまったばかりで大ブームを現出、人の出入りがはげしく、毎晩のように�匪賊�が襲撃してくるということだった。  [#小見出し]匪賊の銃声にあわてる  絶えず�危険�に身をさらしているものは、たいてい運命論者になる。その点で、戦場に出た軍人も、冒険好きの旅行者も、相場師も大してかわりはない。  一九三五年(昭和十年)といえば、ムッソリーニ独裁下のイタリアがエチオピアに侵入し、「国際連盟」の音頭とりで、各国から商品不買の制裁を加えられていたが、日本も�満州国�をつくったことによって、中国各地で排日デモがさかんにおこなわれていたときだ。その一方、この年の四月には満州国皇帝が正式に日本を訪問し、五月には�日満不可分関係�の詔諭が満州国皇帝の名によって出された。  こういう時期にわたくしは、建ったばかりで壁もまだよくかわいていないような牡丹江の安宿に泊まっていた。近くにカフェーがあるらしく、そのころはやった「国境の町」のレコードをかけて、陽気にさわいでいたが、これが耳について、なかなか寝つかれなかった。  そのうちに、すぐ近くで、すさまじい銃声がきこえた。ここではじめてわたくしは、匪賊の�謦咳《けいがい》�すなわち銃声に接することができたわけだ。寝る前には、匪賊がやってきた場合に、どこへ身をかくすとか、貴重品をどう処理するかというようなことを考えて、心がまえはできているつもりだったが、いざとなると、なに一つ実行できなかった。それでもしばらくすると、妙におちついてきて、ジタバタしたところでどうにもなるものでないという気持になった。そしていつのまにかまた寝入ってしまった。  明けがた近く、また銃声がきこえたけれど、こんどは夢うつつできいていた。  あくる朝、宿のポーターにきくと、昨夜おそわれたのは、すぐ近くの満州人の商店で、一人殺され、三人拉致されて行ったという。日本人に犠牲者が出ないかぎり、原則として日本の警官や軍隊は出動しないことになっているので、匪賊も安心して、大胆に、満州人の金持ちをねらうらしい。  大連の満鉄本社でもらった優待券で、図們行きの二等車にのりこむと、わたくしの向かいの座席に、ハデな人絹の着物をきた日本の女がのっていて、膝の上のテリヤをなめるように可愛がっていた。てっきり、料理屋の女将と見たが、自分では建築業者の細君だといった。彼女の家は東京城《とんきんじよう》にあって、ついせんだって匪賊におそわれたけれど、ピストルや日本刀をもって撃退した。そのさい、彼女自身も大いに奮戦したと語った。  東京城は、むかしの「渤海国《ぼつかいこく》」の首都になっていたところで、この国は西暦七世紀から十世紀にかけて大いに発展し、一時はその版図が日本海の対岸にまでのび、シナでは�海東の盛国�と呼んでいた。唐や新羅とはしばしば争ったが、日本へはときどき使節をおくって修好関係をつづけていた。古い雅楽に「渤海楽」というのがあって、いまはなくなっているけれど、孝謙天皇の天平勝宝元年(西暦七四九年)、日本に伝わったと『続《しょく》日本紀《にほんぎ》』に出ている。九二六年、「契丹《きつたん》」に攻めほろぼされたが、のちに加藤清正もこのへんまでは行ったらしい。  ところで、女将ふうの女がまもなく下車し、そのかわりに、土木の監督みたいな男がのりこんできて、わたくしの話相手になってくれた。少しはなれたところに、日本の青年将校が一人のっていて、わたくしたちの話に耳をかたむけているようすだったが、わたくしたちの近くへ席をうつし、わたくしの人相風態をジロジロとながめた。 「�共産匪�を見るにはどこへ行けばいいか」 といったわたくしのことばを耳にはさんで、わたくしに興味か疑問をいだきはじめたことは明らかである。いきなり、彼はわたくしにむかって、 「君は何者だ」 といった。  わたくしは、少々面くらって、 「新聞社のものです」 と答えた。そのころ、わたくしの名前は多少世間に知られていたが、「満州事変」以後は、筆をとる機会がだんだん少なくなり、筆をとっても、思うことが自由に書けなくなった。  すると、その青年将校は、急に興奮して、当時のジャーナリズムのありかたを口をきわめて罵倒しはじめた。わたくしのほうでも、こいつはおもしろいと思って、独特のジャーナリズム論を一席弁じたてた。  これをきいて彼は、別な意味でわたくしに興味を感じたらしく、 「君の名はなんというのだ」 と、改めてきいた。やむをえずわたくしは名刺を出した。それと同時に、彼の顔にどのような変化があらわれるかをすばやく見てとった。これは満州や北支の奥地旅行をつづけているうちに身についた習慣で、わたくしの名刺を見て別に反応を示さない場合は、わたくしについてなんの予備知識ももたないのだから、安心してつきあえるが、そうでない場合は、大いに警戒を要するということだ。  [#小見出し]軍人以外の初の日本人として  わたくしの名刺を見た青年将校の顔に、幾分緊張があらわれたように思われた。これはわたくしというものを知っているからで、興味を感じたらしく、つづけざまに質問をはじめた。あとで彼が告白したところによると、はじめは誰かがわたくしの名前をカタっているのだろうと考えて、バケの皮をはがすために、メンタル・テストをおこなったのだ。  新聞記者でも作家でもなければ、むろん普通の旅行者でもない、うす汚ない姿で二等車にのりこみ、こんな奥地を歩いているわたくしをうさんくさいと思ったのもムリはない。しかし、話しているうちに、本人だということがわかると、こんどは彼自身について語り出した。彼は中尉で後藤四郎といい、三年前におこった「五・一五事件」の関係者だった。自分ではっきりとそうはいわなかったが、裁判にかけられるほど深入りはしていなかったので、こういう奥地へ�追放�されたらしい。  わたくし自身は、日本の軍部がはじめておこなったこの本格的なクーデターとは別になんの関係もないのであるが、民間人でこれに参画した「愛郷塾」の橘孝三郎《たちばなこうざぶろう》とは、古くからの知りあいである。彼がはじめてわたくしの家に訪ねてきたのは関東大震災直後で、そのころの彼は熱烈なトルストイアンだった。武者小路ばりの長編小説の原稿をフロシキに包んで、わたくしに読んでくれといってもってきたのである。そのとき彼からもらったイチゴの苗が、長くわたくしの家の庭で育って毎年実を結んだ。  のちに中近東地方を旅行して気がついたことだが、日本に軍部クーデターの思想をもちこんだのは、第一次大戦中、軍部クーデターの本場ともいうべきトルコの駐在武官をしていた橋本|欣五郎《きんごろう》大佐で、その考えかたや方法に、エジプトのナセル現大統領と相通ずる点が多い。わたくしにいわせれば、ナセルは�成功した橋本�であり、橋本は�失敗したナセル�である。  それはさておいて、後藤中尉は、最近日本軍が占領したばかりの�間島ソビエト�の一つを守備しているのであるが、その日は寧安という町で開かれる剣道大会に出席するところで、この大会がおわれば、わたくしをそのソビエト地帯へ案内してもいいといった。新聞記者はもちろんのこと、軍人以外の日本人はまだ一人もはいっていないというから、わたくしにとっては、まったく願ったり、かなったりである。そこで、大いに感謝の意を表したものの、少々気味が悪かった。  汽車が寧安につくと、彼とともにわたくしも下車した。彼は中隊本部へ、わたくしは指定された宿におちついた。  夕方、中隊から迎えがきた。高いレンガ塀でかこまれた製粉工場が中隊本部になっていて、銃剣術の勇ましいかけごえがきこえてきた。  M中隊長以下、全将校がわたくしを歓迎して、�共産匪�の特色、その訓練ぶり、統率力、これを討伐する苦心談などをきかせてくれた。押取した品々、現場写真のアルバムなども見せてもらった。その内容は、これまで日本に伝えられていた�匪賊�という概念をぶちこわすもので、中国の奥地やシベリアの�解放地区�、すなわち初期のソビエトはこういうものだったろうということがわたくしによくわかったけれど、そのころの日本の新聞雑誌には、そういうことをありのままに書くことを許されていなかった。書いたらきっと、読者を驚かしたにちがいない。  中隊の将校たちにしても、まさかわたくしのようなものがこんなところへ姿をあらわすとは考えていなかったから、後藤中尉の報告をきいても、はじめは容易に信じなかったらしい。わたくしのほうでも、この人たちと話してみて、こんな奥地にいながら、新刊の書物や雑誌を実によく読んでいるのに感心した。それも思想にかんするものが主で、闘争の相手がありふれた�馬賊�とか�土匪�とかいうものとまったくちがっているだけに、ここの将校たちの関心事や勉強ぶりも、まったくちがっているのだ。  思想というものは、このような形で相互的な影響力をもつものだということがよくわかった。  大正初期から昭和初期にかけて、マルクス主義が日本の学生その他の青年層を席捲《せつけん》したが、その対立物として、青年将校のあいだに、強烈な皇室中心主義や右翼的な革命思想のもち主が多く出てきたというのも、決して偶然ではない。見方によっては、この二つは楯の両面に近いともいえるのだ。  それからわたくしたちは、いっしょにフロにはいり、中庭に大きなテーブルをすえて、夕食をごちそうになった。蚊はたいして気にならなかったが、ハエのほうはものすごいばかりで、サラに飯やサカナをもっても、たちまちハエにおおわれて、中身がみえなくなるくらいだった。  夕食後、将校たちとともに寧安の町に出かけた。日本軍の動静をさぐる�共産匪�の密偵が、うんとはいりこんでいるときいて、どんなようすだか見たいと思ったのだ。  [#小見出し]私娼窟にも諜報網  寧安の住人は、ほとんど朝鮮人か満州人で、日本人はあまり目につかなかった。  町ぜんたいがまっくらに近いが、いくらか明るいほうに歩いて行くと、私娼窟《ししようくつ》らしいところへ出た。主として日本の軍人を目あてに営業しているのだが、そのあいだに�共産匪�の諜報網《ちようほうもう》がはりめぐらされて、日本軍の移動は必ず事前にキャッチできるようになっているとのことだった。  私娼は、満州人と朝鮮人にわかれていた。満州人のほうは、関東大震災直後の亀戸や玉の井のようなバラック長屋になっているが、女はたいてい通いで、夜の十二時をすぎると、迎えにきた亭主とともに、自宅へかえって行くものが多いという。朝鮮人のほうは、ごくお粗末な小料理屋のような形になっていて、女たちはたいてい日本ふうの浴衣を日本ふうにきていた。日本人としか思えないようなのもまじっていた。  将校たちの話では、ここには日本の料亭もあって、少数ではあるが、�芸者�と名のつく日本の女もいるという。内地の酌婦や�やとな�と同じだが、このほうは高くついて、将校でもちょっと手が出せないそうだ。  日本人経営のカフェーも何軒かあった。ここでは日本の兵隊が大もてで、コーヒーを一杯注文して、数人で二時間くらい騒いだりしても、女給たちは決していやな顔をしない。というのは、女給も兵隊も絶えず生命の危険に身をさらしている点において同じで、お互いに�運命共同体�といったような意識を身につけているからだ。  そればかりではない。日本軍がここから奥地のソビエト討伐に出発するさいには、芸者も女給もおそろいで、例の白いエプロン姿に「国防婦人会」のタスキをかけて、停車場に見送りに出るのだが、内地のこういった組織がこういうところにまで徹底しているのには驚いた。  もっとも、ここにはこの種の女性以外に、日本の女性はいないからでもあろう。人からいやしまれる職業に従事しながらも、国防の第一線に立っているつもりでいるだけに、内地の女性よりもかえって国防意識に徹し、歓送迎の旗をふるにも熱をおびていた。  このように徹底し、普及した日本式忠誠心のあらわれは、日本軍の出動を公然と敵に通報するようなもので、戦略上きわめて不利であることはいうまでもない。�大東亜戦争�中、日本軍の占領下にあった南方諸地域においても、日本軍をのせた船が港を出ていくとすぐ、敵の潜水艦におそわれて沈められる場合が多かった。その原因はいろいろあるが、その一つは出動の前に、料亭でさかんな送別会を開いたりするから、情報が敵側につつぬけになるのだ。  わたくしの見るところでは、日本人くらい防諜精神に欠けている国民は珍しいと思う。それというのも、日本は島国で異民族と接する機会が少なかったこと、だいたい同一民族で構成されていること、三世紀近くも外国と戦争をした経験をもたないことなどに基づくのではあるまいか。防諜の規則や取りしまりは他の国々よりもきびしいけれど、実質的には、頭かくしてシリかくさずの場合が多かった。それでいて日本人が、外国人の目に、世界に類のない�スパイ民族�として映っていたことは前にのべた通りである。戦後、海外に出て、いちばんうれしいことは、「日本人を見ればスパイと思え」といった考えが、戦争放棄の�平和憲法�で完全に消え去らないまでも、すっかりうすらいだことである。  満州の�共産匪�は、「在満抗日満鮮連合軍」と名のっていたが、ソ連よりはむしろ、中国共産党につながっていた。関東軍の調査によると、これが十二軍団にわかれていて、そのうち第六軍団までは北満に、他は吉林方面、安東から大連へかけての三角地帯、その他全満に散在しているとのことだった�共産匪�のほかに�共農�と呼ばれているのがいて、そこから新しい�共産匪�を送りこみ、日本軍に追いつめられると、そのなかに逃げこみ、ただの農民にバケられるようになっていて、両者の区別をつけることがむずかしかった。  当時、満州�共産匪�の総司令は周保中《しゆうほちゆう》といった。その片腕といわれた占山好《せんざんこう》が寧安で日本軍につかまり、「中国紅軍総司令」の朱徳《しゆとく》の命をうけて活動していることがわかった。当時の朱徳は、軍事面では、毛沢東よりも上位にあったが、四川省の出身で、ドイツに留学、ベルリンで中国共産党に加盟したという。その後、わたくしは香港で中国側のニュース映画を見たが、そのなかで朱徳が彭徳懐《ほうとくかい》とともに、帽子からクツまですっかり日本兵の服装を身につけてあらわれたのを見た。帽子や外套をぬいで見せると、ちゃんと日本人の姓名、所属隊名が書いてあった。  占山好は、前にも一度捕えられて処刑されたはずなのが、また活動をはじめたので、つかまったのは替え玉か、それとも部下が襲名したか、どっちかだといわれた。当時の満州では、�何度も死んだ�馬占山《ばせんざん》のような人物は珍しくなかった。  そのころ、金日成《きんにつせい》は二十三歳で、まだ日本側にその存在を知られるほどの大物ではなかったのだ。  [#小見出し]白馬に乗つた美人頭目 �共産匪�の組織は、�軍�がもっとも大きく、その下に、師、団、営、連というふうにわかれていた。日本の軍隊でいうと、師は師団、団は連隊、営は大隊、連は中隊に相当するのであるが、規模はずっと小さい。一連の兵員はおよそ三、四十名で、普通五十名から百名くらいが一つの戦闘単位をなし、必要に応じてこれがいくつかあつまって一部隊を形成することになっていた。  土匪とちがっている最大の特色は、教育に熱心なことである。根拠地はたいてい密林のなかにあるが、そこでは兵舎とともに必ず学校をたてて、青少年ばかりでなく、成人をも教育していた。教科書は朝鮮の学校でつかっている日本の教科書の表紙をそのままつかい、中を開いてみると、 「共産農村第一課」  などという内容がもられていた。戦後、日本共産党の�山村工作隊�などで、「球根栽培法」といったような題名のものに、共産主義的イデオロギーをもった宣伝物を出したのも、同じ着想から出たものであろう。 �共産匪�のもう一つの特色は、衛生思想の普及に熱心なことである。かれらが移動する場合には、かついで歩く袋のなかに、食糧とともに必ず石鹸やハミガキを入れていることである。そのため、通行人の持ちものを調べて、石鹸やハミガキがはいっていた場合には、だいたい�共産匪�と認定してまちがいないと日本の将校はわたくしに語った。  さらに、農民出身の�共産匪�と、インテリ出の指導者とを区別する方法もある。それはまず相手の手を開かせ、これにさわってみて、やわらかくてどこにもタコができていなければ、身につけているものがどんなに見すぼらしくとも、これは偽装と見てよいというのだ。それだけの�証拠�で捕えられ、処刑されたものもあるときいた。  これに似た方法が戦後の日本で、新社員の採用試験に用いられた例がある。わたくしの知っているある中小企業の社長は、面接のさい、入社希望者の手をさわってみて、人差指と親指の内側にタコのできているものは、マージャンにこっているものだし、人差指と中指のあいだにタコのできているものは、ガリバン切りの熟練者、つまり�赤い�と認定していいというのだ。 �共産匪�で出している宣伝物は、第一に朝鮮語、つぎに満州語で書かれているが、日本語で書いたものもあるときいた。むろん、これは日本兵を目あてにつくられたもので、その内容は、そのころの日本の東北地方の窮乏状態などが、驚くほど精細に、具体的に書かれていた。  当時、東北地方の�冷害�は、国をあげての大問題となって、勅使まで派遣されたものだ。わたくしもある雑誌社の依頼で、現地視察に行ったことがあり、そのときの印象は、わたくしの頭にのこっていた、こういう資料をどこで入手したのか、それが�共産匪�の宣伝物に出ているのには驚いた。  日本兵あての宣伝物は、ほとんどガリバン刷りで、立ち木や岩や民家の壁、ときには日本軍の兵舎の壁にまではりつけるのだ。また道ばたに一定の間隔をおいてならべ、風に吹きとばされないように、石をのせておさえていることもあるという。  さて、剣道大会の翌日、わたくしは後藤中尉やその部下とともに、かれらが守備している部落、最近までソビエトになっていたところにむかって出発した。  この旅行中、匪賊の女頭目の話は、あちこちできいたが、ここからそう遠くない鏡泊湖付近に根拠地をもっている弘太々というのはとくに有名で、三十四、五歳だけれど、一見二十七、八歳にみえるすごい美人だそうだ。彼女が白馬にまたがって子分を指揮する姿はすばらしいものだなどという。また日本の女性で、十九歳のときにさらわれて匪首の妻となり、日本軍に捕えられても決して口をわらず、てこずったこともあると後藤中尉は語った。女ばかり四、五十人で独立の匪賊団を形成しているのもあるときいた。しかし、この種の匪賊はたいてい思想的な背景はもたないものである。  わたくしたちの目的地は、図們に近い小さな停車場から奥にはいったところで、途中まで迎えにきた鉄路局の頑丈なトラックにのりこんだ。これには食糧や弾薬がつみこまれ、その上にすえた機関銃は、不意にどこから射ちこんでこられても、すぐ応戦できるような態度をとっていた。 ただし、わたくしだけは、特別に優遇されて、屋根のついている運転台にのせられた。  このトラックは、両側からけわしい山がせまっている谷あいの道、というよりも、水の涸《か》れた川の底を大きくゆれながらすすんだ。  [#小見出し]夜の山に発光信号  ときどき、向こうから降りてくる満州人に出あった。かれらは材木をつんだ車を馬にひかせているが、その材木はすべてソビエト地区からきり出されてきたもので、一本について平均三十銭くらいを�税金�として払っているのだという。  ところどころで、トラックがとまった。そこには必ず新しい木の墓標が立っている。最近、守備隊員が戦死したところで、後藤中尉は下車してねんごろに敬礼する。  水の流れているところにぶつかると、道が変じて川となる。トラックは、そのなかの比較的浅そうなところを選び、水煙をあげて突進する。なかなか壮観であるが、運転台にのっているわたくしは、しばしば屋根に頭をぶつけて、目から火の出る思いをさせられる。  これに似た経験を、かつてわたくしは南アメリカのパラグァイでもったことがある。ラ・コルメナという日本人の移住地をたずねたとき、革命がおこっているかもしれぬというので、約束の小型飛行機が迎えにきてくれなくなり、ここと同じような道でない道をトラックで首都アスンションまで送りとどけてもらったのだ。そういえば、当時の満州は、ラテン・アメリカの国々と似ている点が多かった。ちがう点は、南米では匪賊のかわりに、革命・クーデターが多いということだ。革命・クーデターばかりでなく、いまだに山賊の大集団が出没するのはコロンビアである。  やがて、はるか彼方の谷間に、小さな部落がみえた。目的地の大北溝である。  トラックが大きな音を立てて近づいて行くと、まず部落のこどもたちが、ワーッと歓声をあげてあつまってきた。部落民も、残留していた守備隊員とともに、わたくしたちを出迎えた。  谷底だから、夏でも日のくれるのが早い。�家�などといえたものではなく、土と雑木でつくった土バチの巣のようなところから、白い煙が出ている。これらの�巣�の集団のちょうどまんなかに、井戸が一つあって、そのそばにむらがって夕食の支度をしている女たちの姿が、夕もやのなかから、うす黒く浮かび出た。いずれも、ひどく汚れた朝鮮服を身につけている。  それよりも異様な現象は、その井戸の近くのあき地で、泥んこになったこどもたちが、声をそろえて、「夕焼け、小焼け」という日本の童謡をうたっていることだった。  これだけ切りはなしてみると、きわめてのどかな風景である。だが、つい最近までここは、民族的、イデオロギー的闘争の最前線となっていて、その支配権をめぐり、大量の血が流されたのだ。  いま、わたくしたちの目の前で、「夕焼け、小焼け」をうたっているこどもたちにしても、つい一か月前には、�独立�と�革命�の歌をうたっていたにちがいないのである。  この部落は、戸数約八十というが、だれが見ても、せいぜい二、三十戸にしかみえない。  部落の中央、いくぶん山寄りに、二、三十人収容できるバラックが建っている。  日本軍の兵舎だ。これがこの小さなコンミュニティ(社会共同体)を支配する役所、裁判所、学校、警察、刑務所など、すべてを兼ねているのである。したがって、その最高責任者である後藤中尉は、これらすべての長官であり、生殺与奪の権をにぎっていることになる。  この兵舎の裏山には哨舎《しようしや》があり、昼夜交代で歩哨が立っていて、何かかわったことがあれば、すぐ合図するようになっている。食事などは、下からあきダルに入れて針金をつたって送る仕掛けができている。かんたんなケーブルだ。  この哨舎から見えるところだけが、この守備隊の領有地で、部落民の耕地も、その範囲内に限られている。ここから一歩でも外へふみ出すことは危険で、これだけの耕地が、八十戸の部落民に、公平に分配されているのだ。これはソ連のコルホーズや中国の人民公社のモデルであり、細胞である。しかも、しばしばクワのかわりに銃をもたせられるわけだ。のちに�満州拓殖公社�がつくられ、日本の農村の一部が分村して、主としてソ連国境地帯に配属された。そこへわたくしもたずねて行ったことがあるが、はじめはこういう形で、しかもこれまで�共産匪�の支配下にあった朝鮮人を中心にして�敵前耕作�がなされていたのだ。  見方によっては、これまた一つの小さなソビエトで、ソビエト群を相手にたたかう場合には、こちらもソビエトに似た形をとらざるをえないらしい。夕食後、後藤中尉に誘われて外に出た。空には大陸独特の大きな明るい星が輝いているが、下界はまっくらである。中尉に指さされて兵舎の向かい側の山を見ると、峰づたいに、小さな灯がいくつもチラチラ動いている。彼はいった。 「あそこに�共産匪�がいるのですよ。かれらの連絡や信号には、いまでもタイマツやノロシをつかっていますが、近ごろは懐中電灯を多く利用するようになりました」  [#小見出し]幼稚園もある最前線  その晩わたくしは、兵舎のなかで、隊長とマクラをならべて寝たが、一発の銃声もきこえなかった。いや、きこえたのかもしれないが、ぐっすり寝こんでいて、気がつかなかったのであろう。  兵隊たちの銃剣術のかけごえに目をさまし、戸外へ出て、明るい陽光のもとで、改めてこの部落をながめた。兵舎の前には、千坪ばかりのあき地があって、守備隊の練兵場、こどもたちの遊び場を兼ねている。  兵隊は、毎朝四時におきて、午前中は軍事教練、午後は隊長以下が一団となって野球などをする。夜はおもに将棋などをして楽しむのだ。  日本人の野球好きは、こういうところでもかわりはない。南米各地でも、野球場が目につけば、近くに必ず日本人部落があると見てよいことになっている。  日本の�娘子《じようし》軍�も、さすがにここまではきていない。朝鮮人や満州人の�慰安所�も見あたらない。  この守備隊は、軍事行動以外に、文化的な機能の遂行に重点をおいている。それは主として部落民の教育だが、実はこれが軍事行動の重要な部分になっているのだともいえる。  まず午前中に、部落のこどもたちをあつめて小学校が開かれる。校長は隊長で、通訳の朝鮮人や兵隊たちが、それぞれ得意の学課をうけもって教えるのだ。朝鮮人のこどもたちは、前に朝鮮人の普通学校で用いていた教科書をさがしてきて、これを共同でつかっている。朝鮮から移住してきた貧農のこどもで、すばらしくよくできるのがいるという。選ばれて守備隊の給仕につかわれているものもある。成績のよいこどもには、賞品として鉛筆やキャラメルが与えられる。  たそがれ近くなって、部落民が野良仕事からかえってきたころ、青年たちをあつめて教練がおこなわれる。場所が場所だけに、当時、日本の内地で実施されていた「青年訓練所」の場合よりは、はるかに真剣で、力がこもっているようにみうけられた。  かれらはすべて手製の木銃をもっていて、わたくしの前で分列行進をやってみせた。この訓練をはじめてまだまもないのだが、満州国の軍人よりはずっとうまいと後藤中尉は語った。ということは、日本軍のくる前に、�共産匪�の訓練をうけていたということにもなる。ただし、日本語はまだ不じゅうぶんとみえて、�番号�をかけさせると、まごつくものが多い。  それにしても、かれらはいったい、だれのために、なんの目的で、こういう訓練をうけているのか、という疑問をいだかないのであろうかという疑問が、わたくしの頭にわいてくる。  守備隊の歩哨とは別に、かれらも毎晩四人ずつ歩哨に立っている。十二時を境に、二人ずつ交代するのだ。守備隊が討伐に出るときには、いっしょに出動して、弾薬はこびなどをするのだが、りっぱに、勇敢にやってのけるそうだ。この�勇敢�のふるまいも、何にたいする�忠誠心�から生まれてくるのであろうか。�忠誠心�というものは、どんな場合にでも、ただ訓練のみによって、生まれてくるものであろうか。  さらに、午後から夕方にかけて、この広場の一隅が幼稚園にもなっている。保母は兵隊で、こどもたちはその周囲に円陣をつくり、彼の蛮声にあわせて、例の「夕焼け、小焼け」や「お手々つないで」をうたったりするのである。お手々をつなげない幼児は、兵隊にだっこされて、まわらぬ舌で、みんなといっしょにうたっている。  幼稚園がおわると、こんどは部落のおとな、といっても主として女たちをあつめ、蓄音器をきかせて、「君が代」や満州国の国歌を教える。これもはじめてからまだ幾日にもならないというが、なかなかうまいものである。いちばんうまいのは、部落長の若い満州人の細君で、わたしの前で、「君が代」の独唱をやってのけた。戦後の日本人がめったに口にすることのない日本の国歌が、かつてはこういうところで、こういう形でうたわれていたのだ。さすがに、この部落の家々には、「日の丸」はかかげてなかった。  このようにして、この部落の一日の行事がおわるのである。そのころになると、向こう側の山の上に、空気がよく澄んでいるので、日本では見られない大きな月がぽっかりと見えて、原始共産体を思わせるようなこの部落を明るい光で包んでしまう。ところが、山一つをへだてた向こう側はソビエト地帯で、毎日のように銃火をまじえているのだ。  これが�五族協和��王道楽土�とうたわれながら、日本にはあまり知られていなかった当時の�満州国�の実態であった。  後藤中尉の語るところによれば、せんだってのメーデーに、日本軍がこの近くにある朝鮮人を主体とする小さなソビエトを襲撃した。そのさい、かれらは手製の万国旗をかかげ、全員で「インターナショナル」をうたいながら、祝いの行事をおこなっていたという。  この小さなソビエトには、会議所、学校、裁判所から刑務所まで、ひと通りそろっていたそうだ。もっと奥地には、山塞のような形をなしていて、密偵を放っても容易につきとめることのできない、もっと小さなソビエトが、あちこちにできているらしい。 「占領してみてわかったことは、�共産匪�が予想外に善政をしいているということです。したがって、日本軍のほうでも、武力をもってかれらを打ち破るばかりでなく、あとにのこされた人民にたいし、それ以上の善政をしかないと、満州国はりっぱに育たないということに気がついて、ぼくたちは懸命の努力をつづけているところです。満州国がりっぱに育たなければ、�大東亜共栄圏�などといっても、絵にかいたモチのようなものです」 と、「五・一五事件」の残党であるこの青年将校は、理想にもえる目を輝かしながら、わたくしに語るのであった。  青少年に比べると、成人の教育は、骨のおれる割り合いに効果はあがらないけれど、それでも中尉は、あの手、この手と試みているようである。たとえば、衛生思想を鼓吹して、満州赤痢その他の伝染病をふせぐため、毎日�清潔デー�をもよおし、部落の家々をまわって歩いて、もっとも掃除の行きとどいている家には、一等から三等まで等級をつけて、栗を与え、一等賞をもらった家の屋根には、 「第一清潔の家」 と書いた白い旗をかかげることにしたといった。そしてその家をわたくしに指さした。前に、日本軍では通行人の荷物を調べて、石けんやハミガキのはいっているばあいは�共産匪�と認定するという話を思い出して、 「やっていることは、どっちもまるで同じじゃないですか」 と、わたくしがいうと、 「形は似ているが、精神はちがいますよ」 と、中尉は答えた。 [#改ページ] [#中見出し]二つの朝鮮の宿命   ——四十年も前からくすぶっていた朝鮮二分の悲しい必然性——  [#小見出し]ヒゼンだった吉田松陰  長州では、古くから朝鮮・満州・シベリア経略の思想をもつものが多く、これが「日韓併合」につながっていることは、前にのべたが、吉田松陰もその一人で、門下の久坂玄瑞に黒竜江をさぐらせようとした。松陰がアメリカに密航しようとしたのも、まずアメリカ、ついてロシアその他の国々をスパイすることが目的だったらしい。これが失敗したのは、たまたま松陰が下田でアメリカの軍艦にこぎつけて便乗をたのんだとき、ひどいヒゼンをわずらっていたため、ことわられたのだと、皮膚科の権威、土肥慶蔵《どひけいぞう》博士は語っている。しかし、当時、ペリーは、松陰ならびにその従者、金子重輔《かねこじゆうすけ》の人物、態度にすっかりほれこんで、幕府の役人に二人の命乞いまでしたという。もしも松陰たちがこの渡航に成功していたならば、明治維新前後の日本の局面はずいぶんかわっていたにちがいない。  ところで、�昭和維新�と呼ばれたころのスローガンとなっていた�局面打破�ということばも、実は松陰がつくった新語である。安政五年十月、肥後の勤皇の志士、|轟 《とどろき》武兵衛《ぶへえ》に松陰が出した手紙のなかで、 「近ごろ、正義派の人々は、おおむね観望持重の態度をとっているが、小生の考えでは、これは最大の下策です。もっと軽快拙速に、局面を打破し、有利な地位を占めたあとで、おもむろに布石したほうが有利ではないでしょうか」 と書いている。「局面」「布石」など、すべて囲碁から出たことばであることは明らかである。  ついでだが、第一次大戦後の日本の合いことばになった「現状維持」「現状打破」ということばは、近衛文麿の新造語である。大正八年、第一次大戦後の講和会議がパリで開かれたさい、西園寺八郎(公望《きんもち》の養嗣子で公一の父)、伊藤博文の一族真一などとともに、日本全権西園寺公望一行の随員の一人に加えられて近衛も参加したのであるが、その前年十二月の『日本及日本人』に、「英米本位の平和主義を排す」という論文を出した。  すると、日本全権一行をのせた日本郵船の「丹波丸」が、上海の港にはいったとき、『ミラード・レヴュー』という上海の排日新聞が近衛の論文を訳載した。その内容はつぎのようなものであった。 「国際的地位よりすれば、むしろドイツと同じく現状の打破を唱うべきはずの日本におりながら、英米本位の平和主義にかぶれ、国際連盟を天来の福音のごとく渇仰するの態度あるは、実に卑屈千万にして、正義人道より見て蛇蝎《だかつ》視すべきものなり」  これが問題になるとともに、「現状維持」「現状打破」が新しい流行語となって、のちに「満州事変」から国際連盟脱退にいたる原動力の一つともなったのだ。  [#小見出し]幕末すでに共栄圏思想  ペリーが�黒船�をひきいてやってきたとき、日本は国をあげてあわてふためいた。そして世論はけっきょく、開国派と攘夷派にわかれたのであるが、これら両派の考えかたにも、さまざまな変種があった。現在、ソ連や中国との国交、貿易について、いろいろな意見が出ているのと同じである。  たとえば、開国派の代表でその実行者と見られている井伊直弼の場合にしても、決して単純な開国、ただアメリカの威圧に屈したというだけではなかった。彼が大老に就任する前、つぎのような意見書を提出している。 「まず寛永の鎖国以前にかえって、ご朱印船を復活し、大坂・兵庫・堺などの豪商に命じて、外国貿易の株を与え、丈夫な軍艦や汽船をつくらせ、これに日本では必要でない品々をつみこみ、船長にはしばらくオランダ人を雇い、しっかりした日本人をいっしょにのりこませて、大砲のうちかた、大船の運転法などをおぼえさせ、表面は商船に仕立てているが、内実は海軍の調練を主とするのである。  このようにして追々船の数をふやし、技術を身につけ、日本人が自由自在に大洋をのりまわし、別にオランダ人から情報をえなくとも、自分で外国の実体をつかむとともに、国内では奢侈《しやし》浪費の弊風を一掃し、軍備をじゅうぶんにととのえ、勇威を海外にふるうことができるようになれば、内外充実、皇国安泰となるであろう」  直弼のこの主張は、積極的な�開国��出貿易論�ともいうべきものである。  同じ時代の人物でも、備中松山藩士で儒者として知られた山田方谷《やまだほうこく》となると、さらに積極的で、百年後の�大東亜戦争�を予言しているともいえる。彼の主張はざっとつぎのようなものだ。 「外国を攻略することは、内を守るために必要である。攻略すべき地域、わが藩屏《はんべい》となる国々を手に入れるべきだ。エゾはすでに日本のものになっているから、さしあたり、朝鮮出兵からはじめ、東北に転じて、満州・シベリアをとり、北エゾへつなげば、ロシアの進路をさえぎることができる。シナは必要な部分だけ攻略し、南西は台湾を併合、琉球といっしょにして守備兵をおけばよろしい。もっとも重要なことは、ニュージーランド、オーストラリアその他三つ四つの島々をとって南方の守りとすることで、これで八丈島以南の島々を外国にとられる心配がなくなる。こうなれば、ヨーロッパの国々が西南から、アメリカが東からやってきても大丈夫だ」  まったく�雄大�な構想というほかはない。これだけを切りはなして考えると、林房雄のいうとおり、�百年戦争�はすでに百年前にはじまっていた、少なくとも、その青写真はりっぱにできていたといえないこともない。  この日本民族の大きな夢は、ほんの短い期間ではあったが、�大東亜戦争�によってあるていど実現したのである。日清戦争で台湾、日露戦争でカラフトの南半分を手に入れ、朝鮮を併合した日本は、さらに満蒙に伸びようとした。ところが、「溝蒙は日本の生命線である」といい出したのは、日本人ではなくて、実はル・ジャンドル(一般にはリセンドルで通っている)というフランス生まれのアメリカ人である。  明治四年、岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸|孝允《たかよし》、伊藤博文、井上馨などの一行四十名が条約改正の打診その他の使命をおびて欧米各国に派遣された。当時、岩倉は右大臣で外務卿を兼ねていたが、彼の留守中、右大臣は三条実美がかわったけれど、外務卿のほうは適当な人物が見つからなくて、参議で外務省出仕の副島種臣《そえじまたねおみ》を起用した。その前の年、彼はカラフトの境界問題を解決してその手腕を認められたからである。ペルーの商船「マリア・ルイズ号」にのっていたシナ人奴隷を解放する厳命をくだして、国際的に大波紋をまきおこしたのは、翌五年のことである。リセンドル将軍が、外務省の顧問に迎えられたのはそのころだ。  リセンドルは、フランスの軍人だったが、一八六一年、アメリカに「南北戦争」がおこると、義勇軍として北軍に参加し、勇名をとどろかした。准将まで行ったが、負傷のため退役、アメリカに帰化して、アメリカの領事に任ぜられ、シナの厦門《アモイ》に駐在し、「李仙得」(李聖得とも書いた)というシナ風の名前を名のった。ラフカジオ・ハーンが「小泉八雲」という日本名を名のったようなものだ。詩人バイロンも、トルコから独立しようとするギリシャ軍に参加し、マラリアにかかって客死したが、この時代には、血の気が多すぎて、人生に退屈し、異国への情熱にかきたてられ、他国の革命や独立の手伝いに行くものが多かった。シナやフィリピンの革命や独立をたすけた日本の�浪人�についても同じようなことがいえよう。  リセンドルもそういう人物の一人で、これが偶然のことから、副島のブレーンとなり、美しい日本娘と結婚するにいたったのであるが、声楽家関屋敏子はこの孫にあたる。  [#小見出し]リセンドルの引きとめ工作  リセンドルは、外務卿副島種臣と�義兄弟�のちぎりを結ぶほど親しくなり、明治初年の日本の対外政策、国内の経済開発その他の面で、陰の助言者として重要な役割りを果たした人物であるが、厦門の領事をしていたとき、台湾の沿岸でアメリカ船が坐礁し、乗組員が台湾の原住民に殺されるという事件がおこった。  そこで、彼は台湾に出かけて行って、自分で軍隊を指揮したりして、事件を解決したのであるが、そのさい、台湾の資源の豊かなこと、軍事的にも重要な地点であることを知り、アメリカ政府に、台湾占領の有利なことを進言した。  しかし、そのころのアメリカ政府は、内政問題におわれ、そこまで手がとどかなかったことは、日本政府の場合と同じであった。  フィリピンは、一八九八年米西戦争後、スペインが二千万ドルでアメリカに売りわたしたものであるが、もしもリセンドルの献策をアメリカ政府が採用していたならば、フィリピンよりもずっと前に、台湾がアメリカ領となっていて、今ごろはフィリピンと同じように独立していたにちがいない。したがって�一つの中国��二つの中国��一つの中国と一つの台湾�といったような、ややこしい問題がおこらずにすんだかもしれない。このように、当時の台湾は、領土がはっきりしていなかったから、アメリカでとろうと思えば、かんたんにとれたのである。ドイツの�鉄血宰相�ビスマルクが、台湾に目をつけて、�学術探検�という名目で、学者・軍人の一団を台湾に派遣したのも、そのころのことである。  明治五年、リセンドルは解任されて帰国することになったが、その途中、観光を兼ねて日本に立ちよったところ、アメリカの日本駐在大使デ・ロングにすすめられて、副島外務卿と会った。そこで二人はたちまち意気投合し「外務省准二等出仕」ということで彼を迎えることになった。  さっそくリセンドルは、日本政府に、彼の東洋における多年の体験と見聞に基づく豊富な知識をかたむけて、長文の意見書を差し出した。そのなかに、つぎのような具体案が出ているのだ。 「日本は、北は朝鮮を領有して、ロシアの侵略をふせぎ、南は台湾を占領して、諸外国の進出を食いとめ、さらに満蒙を生命線とし、弦月型に大陸をおさえなければ、永遠の独立を保つことはむずかしい」  この説は、前にのべた山田方谷の案とだいたい似ているところが妙である。そのころの国際情勢に通じているものの頭には、日本としてはこれで行くほかはないという考えが、自然に浮かんでくるのであろう。  リセンドルとしては、アメリカ政府に訴えてとりあげられなかった自分の夢を日本にやらせようとして、熱心に説きつけたものと思われる。ながい鎖国からぬけ出したばかりの日本に、まさかそんな力があると信じていたとは思えないが、彼自身の夢の実現に急でありすぎたのか、それとも維新革命で若がえった日本民族のスタミナの異常な高さを認めたのか、どっちかであろう。  いずれにしても、その後西郷隆盛らが征韓論を強く主張して明治の新政府からはなれ去ったり、西郷|従道《つぐみち》らが台湾征伐を決行したりしたのも、もとをただせば、このリセンドルの意見に胚胎《はいたい》していると見られる面が多い。台湾征伐は、いちおう成功したようだけれど、「西南の役」は新政府を大きくゆすぶり、へたすると崩壊にみちびいて、第二次大戦後に独立したアジア・アフリカの新興国の場合と同じように、国内の統一をみだし、日本の近代化を数年、もしくは数十年おくらせるところであった。  副島は、大隈重信、江藤新平《えとうしんぺい》などとともに佐賀藩の出身だが、紀州藩出身の陸奥宗光《むつむねみつ》、幕臣の榎本武揚《えのもとたけあき》など、新政府の外交面を担当して、実力を発揮したものに、薩長閥以外から出たものが多いのは、国連の人気者に三流国出身者が多いのと比べて、興味のある現象である。  さて、副島は、リセンドルの人柄と見識にすっかりほれこんで、彼を長く日本にとどめておくには、どうすればいいかと考えた。外国人にあまり重要な地位を与えるわけにいかないし、といって彼は高給につられるような人物でもない。そこで、美しい日本の女性に彼を結びつけ、そのあいだにこどもをもうけさせて、夫婦愛と父子の情で、彼を日本につなぎとめることを思いついた。  その目的で、各方面を物色させた結果、見つけ出されたのが、池田糸子というみめうるわしい日本ムスメである。彼女の素性については、いろいろ説があるが、幕末屈指の名君の一人で、将軍|家茂《いえもち》の時代に、政事総裁職についたこともある越前福井藩主|松平慶永《まつだいらよしなが》(春嶽)の庶子だという説が有力である。これが事実だとすれば、まさに最高の斜陽族である。  [#小見出し]リセンドルの遺児が羽左衛門  リセンドルは、すでにアメリカの女性と結婚していて、彼が京城で急死したとき、彼の長男という人物がアメリカからやってきた。これが不良で、亡父の遺産をかっさらってかえって行ったりしたところを見ると、この夫婦関係はうまくいっていなかったらしい。それはさておいて、この池田糸子という娘を見つけてきたのは、副島の愛妾で、烏森の料亭「浜の家」の女将である。そしてこの女将が媒酌人となって、四十二歳のリセンドルに、十七歳の日本ムスメを結びつけたのである。彼女もおそらくは�お国のため�ということで説き伏せられたのであろう。  この点は、李王垠《りおうぎん》と|梨本宮 守正王《なしもとのみやもりまさおう》第一女|方子《まさこ》、満州国皇帝|溥儀《ふぎ》の弟|溥傑《ふけつ》(日本名清水次雄)と侯爵|嵯峨実勝《さがさねとう》の長女|浩《ひろ》(満州名愛新覚羅浩)の場合なども同じである。�天城山心中�で話題をよんだ愛新覚羅慧生《あいしんかくらえせい》は溥傑の娘だ。  ところで、リセンドルと糸子のあいだに、一男一女(一説によると二女)が生まれた。その男の子が終戦の年になくなった先々代市村羽左衛門(劇場世系および家系からいうと十五代)だといわれている。はじめこの説は否定され、この羽左衛門は本名録太郎といって、東京・上野池の端の箔屋の入り婿原田孝次郎を父とし、養女なおを母として生まれた純粋の日本人だということになっていた。 �アズマ・カブキ�の吾妻徳穂《あづまとくほ》は、この羽左衛門と舞踊家藤間政弥のあいだにできた娘であるが、このことについて、徳穂はつぎのように語っている。 「私は羽左衛門が自分の父であるという確信だけでいいのです。父は江戸っ子であると信じており、それから先のことはふれたくありません」  かつて里見※[#「弓+享」、unicode5f34]は、「羽左衛門伝説」という読み物を書き、羽左衛門の出生を�伝説�としてあつかってはいるが、そのあとで里見が�落穂�として書いた随筆では、羽左衛門がリセンドルのこどもであることにまちがいないことを認めている。その真相は、糸子が生んだばかりのこどもを原田夫婦がもらいうけ、三歳まで育てあげて、坂東家橘《ばんどうかきつ》(市村姓)へ養子にやったのが、のちに羽左衛門を襲名するにいたったのである。これが混血だというのでは、人気にかかわるとでも考えて、一時は伏せておいたのであろう。  さて、リセンドルと糸子のあいだにできた女の子は愛子といった。羽左衛門が明治七年生まれで、愛子が十四年生まれだから、年齢差が少し大きすぎる。この二人のあいだにもう一人いたのかもしれない。  愛子は、旧二本松藩士|関屋祐之介《せきやゆうのすけ》と結婚した。三浦環《みうらたまき》につぐ国際的声楽家として、イタリアの「スカラ座」やニューヨークの「タウン・ホール」の舞台にも立った関屋敏子はその長女である。関屋家は、朝鮮総督府学務局長、中枢院書記官長、宮内次官などを経て勅選議員となった関屋貞三郎の一族だ。関屋祐之介と愛子との縁談も、そういうところから出たのかもしれない。  敏子の結婚した相手は、子爵|柳生俊久《やぎゆうとしひさ》の弟五郎で、祐之介の養子に迎えられ、五郎は関屋姓を名のることになった。  大正三年、三浦環が洋行するさい、環のひきいる「銀鈴会」で、送別音楽会を開いた。そこで十歳の敏子がペリエの曲を歌うのをきいて、そのころ女流文壇の大姐御だった長谷川《はせがわ》時雨《しぐれ》は、 「この人にオペラをやらせたら、どんなにりっぱだろう」 といって、早くもその恵まれた素質を見ぬいた。その後、敏子は、お茶の水高女から東京音楽学校に進んだが、一年で退学してイタリアへ留学した。そこで彼女が師事したサルコリーは、 「日本にもこれほど豊かな声量をもった声楽家がいるのか」 と、舌をまいたという。かくして彼女は、日本には珍しいコロラチュラ・ソプラノ歌手として、いちやく声楽界の寵児《ちようじ》となったのである。  しかし、よく考えてみると、彼女の豊かな声量に、それほど驚くことはないともいえる。彼女の日本人ばなれした容貌、体格、ゼスチュアなど、ともに、それは純日本的なものではないからだ。このことは、市村羽左衛門や吾妻徳穂についても、ある程度いえることである。この一族のほかにも、藤原義江、佐藤美子《さとうよしこ》など、日本の楽壇で声楽家として成功しているものに、外国人の血が多少ともはいっている場合が多い。一般日本人との声量の差は、民族的な体質のちがいにつながっていることは明らかである。  さらに、混血の場合には、精神的、性格的な面でも、普通の日本人と多少ちがったものの出てくることが多い。かつて劇作家の松居松翁《まついしようおう》が羽左衛門のことを�恋の勇士�と呼んだが、同じことがここに名前をあげた混血芸能人の多くについてもいえそうである。  [#小見出し]尾崎秀実と敏子の宿縁  リセンドルは、はじめは文筆をもって世に立とうと志したという。  彼は外務省出仕をやめてからも、失業士族への授産、殖産興業、貴族制度採用、北海道開拓、カラフト買収、都市計画などについて、副島種臣や大隈重信などを通じ、明治の新政府にいろいろと進言しているが、その多くは著書となってのこっている。代表作は、第二次桂内閣の文相兼農商務相となった小松原英太郎によって翻訳され、『日本開進論』と題して明治十二年に出版されているが、谷干城《たにたてき》のごときは、 「わが日本人民たるものの必ず一読せずんばあるべからざるの著述なり」 と、大いに推奨している。アメリカ人でいて、日本に貴族制度の採用をすすめたりしたのは、もともと伝統好きのフランス人の血をうけているからであろう。  関屋敏子の祖母でリセンドルの妻となった糸子は、里見※[#「弓+享」、unicode5f34]の書いたものによると、「まれにみる女丈夫」で、大正二年、五十七歳で死んだときには、大隈が小石川|指《さし》ケ谷《や》町の家を訪ねて、ねんごろに弔問し、 「あなたは日本の大いなる功労者である。それはいうまでもなく、リ将軍を日本につなぎとめてくれたからで、われわれはあなたの功績に深く感謝する」 と、生ける人にいうがごとくのべたと伝えられている。  明治二十三年、リセンドルは、伊藤博文の乞いをいれて、韓国政府の外交顧問に迎えられ、日本とのあいだを調節する上に貢献したが、明治三十二年になくなった。  そのまえ、リセンドルは、日本政府から勲二等旭日章を与えられた。また明治天皇からは、大和錦《やまとにしき》十巻を下賜されているが、のちに敏子はこれで丸帯をつくった。  昭和十六年十一月二十三日、太平洋戦争をまえにして、三十七歳の歌姫敏子は、はなやかだった生涯の幕を自分の手でとじた。彼女の自殺の原因は、いまもナゾとされているが、一説によると、それからちょうど三年後の同じ月に、「ゾルゲ事件」の関係者として処刑された尾崎秀実とのつながりが、有力な因をなしていたともいわれている。尾崎が検挙される少しまえ、大連のヤマト・ホテルで、わたくしは偶然彼と会って食事をともにしてわかれたのがさいごとなった。尾崎もゾルゲも、羽左衛門と同じように、いずれおとらぬ�恋の勇士�であったことを考えると、尾崎と敏子との相当深いつながりは、ありえないことではないと思う。  それに、尾崎は岐阜県の生まれだが、台湾育ちで、のちに満鉄の東亜経済調査局につとめていて、植民地問題、大陸問題に精通していた。いちはやく台湾占領を日本政府に進言し、�満蒙生命線�の思想を日本人の頭にふきこんだリセンドル将軍の孫娘と尾崎が、こういう形でつながって、どっちも悲劇的なさいごをとげたということは、すこぶるロマンチックであり、宿縁のようなものを感じさせる。  敏子の従妹にあたる吾妻徳穂が、日本を去り、アメリカに住みつく目的で永住権をえたりしたことについても、同じことがいえそうである。  リセンドルの死後、韓国政府は、財政顧問として日本から目賀田種太郎、外交顧問としてスチーブンというアメリカ人を迎えたが、スチーブンは日本色が強すぎるというので、朝鮮人に暗殺された。目賀田はのちの男爵、枢密顧問官で、その夫人は勝海舟の娘である。ところで、朝鮮にかんするアメリカの世論は、はじめのうちはどっちかというと日本びいきであった。少なくとも公正であった。  当時の朝鮮は、「日本の心臓にピストルをつきつけているようなものであって、このピストルに空弾のはいっているあいだはいいが、これに実弾が装填されるとなると、日本たるもの、一日も安心しておれないのは当然である」といっている。また当時の朝鮮の状態は、「実に言語道断で、国をあげて、腐敗せしむるものと腐敗せしめられるもの以外に、朝鮮人というものは存在しないといってもいい」というくらいだった。韓国政府にいたっては、「世界の歴史あって以来、他に類のない極悪の政府だ」とのべている。  この韓国が日本の保護国になって、伊藤博文は「同情に富んだ忍耐力あるきわめて巧妙な政治をおこなったのであるが、その治績がようやくあがりかかったときに、彼は倒れてしまった」  そしてそのあとがよくなかった。 「日韓併合」断行は、アメリカの世論を一変させた。  これはいつも�アンダー・ドッグ(負け犬)�に同情をよせるアメリカ人の性情からくるものだ。それまで日本は、清国やロシアにたいして�負け犬�であったのが、こんどは日本統治下の朝鮮人が�負け犬�となったのである。とくに朝鮮にきているアメリカの宣教師たちは、陰に陽に、韓国の独立運動を援助し、日本の官憲に追われている朝鮮人をかくまったり、アメリカへ亡命させたりした。  まえにのべた�万歳事件�も、そこから生まれたと日本側では見て、しばしば抗議した。そのため、一時朝鮮人のあいだに�日米戦争説�が流布されたことがあるくらいである。  それでも、「日韓併合」後、ロシアは極東軍を五個師団もふやして、日本を威圧したけれど、アメリカのほうはそういった動きをぜんぜん見せなかった。  [#小見出し]静かな民衆の抵抗 �万歳事件�後に出たアメリカの雑誌『アトランティック・マンスリー』で、朝鮮における日本の武断統治ぶりを紹介しているが、今の日本人の頭では、事実としてうけとれないような面も多い。とくにキリスト教にたいする迫害がひどかったらしい。  たとえば、「さらばいさみて、すすみたまえ、かみのもののふ、主のつわものよ」といったような讃美歌は、朝鮮人のあいだに�軍国主義精神�をあおるものだというので、うたうことを禁止したという。 「かくのごときは、トルコのアブドウル・ハミットが、ダイナマイトと発音が似ているからという理由で、ダイナモの輸入を禁止したのと好一対だ」 といってからかっているが、アブドウル・ハミットは、オスマン・トルコ第三十四世のスルタンで、極端な専制政治をおこない、一九〇八年(明治四十一年)エンベル・パシャのひきいる「青年トルコ党」の革命によって、国外に追放されたものだ。  またある朝鮮人牧師は、説教中に�天国�のことを説いて逮捕された。その公判にあたり、裁判官から、 「そういう不謹慎なことばをつかってはならぬ。朝鮮人の信ずべき国はただ日本国あるのみだ」 と説諭されて、やっと放免になったという。  またもう一人の朝鮮人牧師は、幼年者がタバコをすう害を説いて、�反逆罪�に問われたが、その裁判は、つぎのような論理ですすめられて行った。  一、牧師キルは喫煙に反対した。  二、タバコの製造は政府の独占である。  三、ゆえに喫煙に反対するのは、政府の施策に反対することである。  四、政府の施策に反対するのは、とりもなおさず反逆罪である。  五、ゆえに、キルは反逆罪を犯したものと認める。  この論理で行くと、紙巻きタバコは肺ガンの原因になるなどという説を唱え出したものも、当然反逆罪に問われそうだ。これらの話は、うまくできすぎていて、どの程度まで事実だかわからないが、これに似たことがおこなわれていたことはまちがいないようである。  とくにひどかったのは、朝鮮人にたいする差別待遇で、�万歳事件�までは、朝鮮人に限り、笞刑がおこなわれていたし、電車にひき殺されても、慰謝料は内地人の半額であった。  これにたいして朝鮮人のレジスタンスは、どういう方法でなされたか。一部ではテロもおこなわれたが、ぜんたいとしては、きわめて平和的であったとアメリカ誌は報じている。 「第一に、日本の官憲がどんな乱暴なことをしても決して抵抗しないこと。  第二に、大正八年三月一日を期して全国の同志が蹶起し、京城では三千人が一隊となって、各官庁、外国公館におしかけ、朝鮮の国歌を合唱すること。  つまり、七百万人の朝鮮人民が平和的手段によって、自分たちはもはや日本の虐政に服することができないということを世界にむかって宣伝しようとしたのである。  さて、いよいよその日がくると、独立運動の指導者二十九名が、十年前に『日韓併合条約』の調印されたところに集合し、独立宣言書を朗読すると、すぐにその内容をパゴダ公園にあつまっている民衆に報告するとともに、警務長官に電話をかけ、自分たちのやったことをすっかりのべた上、自首して出て、希望通り監獄に投ぜられたのである」  同誌はまた、日本側について、つぎのような批判を下している。 「日本の官憲の独立運動を抑圧する手段は実に残酷をきわめたものであったが、これは決して日本国民の意思でも希望でもなかった。このことで責任を負うべきものは、少数の軍閥者流である。  かように日本の朝鮮統治には、非難すべき点が多いとしても、ぜんたいとしては、朝鮮がこれまで通り独立国として旧政府の治下にある場合よりも、はるかに幸福な状態にあると思われる。日本の官吏は、朝鮮および朝鮮人の生活を向上させるために、多くの場合、ずいぶん熱心に働いている。そのやりかたは、巧妙、同情、理解という点で、大いに欠ける点はあるが、成績をあげることにおいては、非常に高い能率を発揮している」  これについて、柳宗悦《やなぎむねよし》はつぎのようにのべている。 「朝鮮問題にかんする評論を余も多く読んだが、これほど誤りの少ない公明な批評に遭遇したことがない」  柳は民芸の権威で、とくに朝鮮文化に造詣の深い人だ。有名な声楽家柳兼子がその夫人であることは改めていうまでもない。  [#小見出し]祖国を追われて外地へ  日本の統治で、朝鮮人をもっとも苦しめたのは、「東洋拓殖」という特殊会社をつくり、巧妙な方法で、朝鮮人の祖先伝来の土地をつぎつぎにとりあげたことである。  その結果、生活の基礎を失った朝鮮人の多くは、祖国をはなれて、満州、沿海州方面に流れて行ったが、その数は�万歳事件�のころ、すでに百五十万人に達していたという。前にのべた間島地方の朝鮮系ソビエトも、実はこういう人々によってつくられたのである。満州や沿海州に直接つながる北朝鮮に「朝鮮民主主義人民共和国」ができたのも、決して偶然ではなく、その思想的、人間的基礎工事は、この時代にある程度すすんでいたと見るべきである。  ところで、先年わたくしが「ソビエト連邦」を構成している「ウズベク共和国」を訪れたとき、タシケント、サマルカンドなどという町に、朝鮮人があまりたくさんいるのに驚いた。これは昭和十三年の「張鼓峰事件」、翌年の「ノモンハン事件」などがつづけざまにおこって、日ソ関係が極度に緊張したとき、沿海州その他ソ連領内に住んでいた朝鮮系ソ連人を家族もろとも、ごっそりとこの地方へうつしたのだときいた。日ソ開戦となったばあいに、かれらが�第五列�の役割りを果たす恐れありと見たのであろう。  米作や野菜づくりにかけては、ロシア人よりは朝鮮人のほうがはるかにうまい。この地方の朝鮮人はすでに二世、三世の時代になっているが、この点でりっぱな成績をあげて、レーニン勲章などをもらっているものもあるときいた。サマルカンドの劇場の支配人は、朝鮮系の女性だったが、日本人であるわたくしに、少しも悪感情を示さなかったばかりでなく、フランス人、アメリカ人の旅行者が大勢いたなかで、とくにわたくしを選び出して、いちばん見やすい席へ案内してくれた。  それはさておいて、「朝鮮民主主義人民共和国」の首相|金日成《きんにちせい》の名が、一般朝鮮人のあいだで�抗日の英雄�としてとどろきわたったのは、いつごろのことか、はっきりしないけれど、すでに戦争中、日本人の知らないうちに、全朝鮮を通じての最大の人気者になっていたことは明らかである。  元京城大学教授|船田享二《ふなだきようじ》(芦田内閣の国務相、現衆議院議長船田|中《あたる》の弟)が書いたものによると、日本の降伏後、金日成が朝鮮にかえってくるという知らせがつたわると、京城でも凱旋《がいせん》将軍を迎えるような機運がみなぎっていたという。  京城には、日清戦争の前から四十年も住みついているフランス人がいた。エミル・マルテルといって、その夫人の父は「君が代」の作曲に参加したフランツ・フォン・エッケルトである。エッケルトは、明治十二年、軍楽長として日本に迎えられたドイツ人で、軍楽伝習所の教師から宮内省式部職雅楽部嘱託となった。「君が代」は明治三年、薩摩藩で�天皇にたいし奉る礼式曲�として選定し、同藩で迎えたイギリス人の軍楽教師フェントンに作曲させたが、できがよくなかったので普及しなかった。そこで、明治十三年、宮内省楽師|林広守《はやしひろもり》の作曲、エッケルト編曲の吹奏楽譜をそえて、同年十一月三日の天長節に、宮中の御宴で初演奏がなされたのである。  その後、エッケルトは、李王家の楽長に迎えられて、韓国の国歌を作曲した。明治天皇大葬のときの吹奏楽用葬送曲「哀しみの極み」も、彼の作品である。大正五年、彼は京城でなくなった。  あとにのこったマルテル一家が、船田と懇意になり、毎日のように往来していたところ、�太平洋戦争�のおこる直前、マルテルは日本の憲兵に検挙され、家族とともに朝鮮から追放された。  船田もそのとばっちりをくって、憲兵の取り調べをうけた。その理由はよくわからなかったが、その数日前、マルテルの家で、二、三人の朝鮮人とともに、金日成のウワサ話をしたことがたたったのだ。そのころの朝鮮における日本の官憲は、それほど神経質で、いたるところにスパイ網をはりめぐらしていたのである。  話はもとにもどるが、明治四十三年九月十五日号の『東洋経済新報』を見ると、「日韓併合」によって、朝鮮から安い労働力がどしどし日本に流れこんでくることを懸念した議論に、反駁《はんばく》を加えた論説が出ている。  それから十三年たった大正十二年五月号の『中央公論』に出ている論文のなかで、吉野作造《よしのさくぞう》は、日本内地における朝鮮人労働者の総数を二十五万ないし三十万と推定し、 「日本政府は、一つには内地産業における生産費を安くするため、また一つには、よってもって日本労働運動の鋒先《ほこさき》をにぶらすため、むしろ多数朝鮮労働者の来往をよろこび、否これを奨励せんとする傾きさえみえる。去年(大正十一年)十二月十五日の旅行証明制度の廃止のごときは、たしかにこの理由に基づくものと思う」 と書いている。  さらに、昭和十四年六月号の『文藝春秋』の座談会「事変下の朝鮮を語る」では、朝鮮から日本にきているものが七十万、朝鮮に住みついている日本人が六十万となっている。  日本の敗戦後、朝鮮にいた日本人はほとんど全部日本に追いかえされたが、日本の朝鮮人は大部分まだ日本にとどまっている。したがって、現在朝鮮人は北朝鮮とともに三つにわかれているわけで、この民族の最大の悲劇はそこにある。  [#小見出し]�大陸浪人�の活躍 「日韓併合」に率先協力して、幇間出身で伯爵になった|宋秉《そうへいしゆん》のことは前にのべたが、日本側で併合の強力な推進力となったのは、主として明石元二郎将軍の身辺にあつまった、杉山茂丸、内田良平、武田範之《たけだのりゆき》、葛生修亮《くずうしゆうりよう》、菊池謙譲、菊池忠三郎、井上藤三郎などという�大陸浪人�たちである。  杉山は、政界の黒幕の草分けともいうべき人物で、はじめは玄洋社の頭山満《とうやまみつる》と一心同体と見られていたが、のちには明治の元勲、大正政界の大物たちのあいだを特殊の軌道で泳ぎまわり、大きな事件には、たいてい裏で動いた。大隈重信が来島恒喜《きじまつねき》に爆弾を投げられたときにも、これに関係ありと見られて投獄された。南満州鉄道を創立して、その総裁に後藤新平をすえる案も、彼が児玉源太郎大将にたのまれて立てたものだ。日本興業銀行、台湾銀行の創立にも、陰の人物として動いているし、いちはやく関門海底鉄道の建設に目をつけて、政府に進言した。福岡の生まれでしかも生家が明石将軍の隣、生まれた日も、明石と五、六日しかちがわなかった。推理小説の先駆者|夢野久作《ゆめのきゆうさく》は本名を杉山泰道といって茂丸のむすこである。  アメリカ軍が日本に上陸したさいもっとも警戒を要する団体として指定された「ブラック・ドラゴン・ソサイエティ」(黒竜会)の創立者内田良平はあまりにも有名であるが、内田を西郷隆盛とすれば、隆盛と抱きあって薩摩湾に身を沈めた僧月照のような形で、内田と結びついていたのが僧|洪疇《こうじゆ》、俗名武田範之といって、越後高田在にある顕聖寺の住職である。 「日韓併合」は、寺内・明石両将軍の企画・演出によってぬきうち的におこなわれたのであるが、はじめからその密議に参画した武田は、東洋風の豪傑で、日清間の風雲急をつげたころから、朝鮮じゅうをかけずりまわり、宋秉のひきいる「一進会」をあやつり、「侍天教」を大成して、併合の膳立てをととのえ、これが実現すると、ふらりと顕聖寺にかえった。  やはり�大陸浪人�の宮崎滔天《みやざきとうてん》が、久しぶりで武田を訪ねてきたとき、滔天が長髪を頭に頂き、アゴヒゲをたくわえているのを見て、 「こんな煩悩を身につけているから、ロクなことはできないのだ。ドレ、おれが済度してやろう」 といって、その場ですっかりきりおとしてしまったという。明治以後、この種の僧侶が、満州・シナはもちろん、蒙古・チベット・インドシナ・タイ・ビルマ・インド・セイロンなど、ほとんどアジアの全域に足跡をのこしている。かれらはいずれも強烈な民族主義者、反白人主義者で、のちの�大東亜共栄圏�の構想は、まずかれらによってつくられ、最初の布石はかれらの手でなされたといってもいいすぎではない。  昭和十七年五月十五日、バンコクのシルパーコーン王立劇場で、「撃滅英帝国」のスローガンをかかげ、日本からはせ参じたラスビハリ・ボースを議長に、全東亜のインド人代表をあつめて、「インド独立大会」が開かれた。これには当時ベルリンにいたスバス・チャンドラ・ボースからも激励の祝電がよせられた。  この日、未明から会場の前に姿をあらわして、例のウチワ太鼓をたたいている日本人僧侶がいた。これが日本山妙法寺の丸山《まるやま》|行 遼《ぎようりよう》上人である。上人はその弟子たちとともに、現地日本軍の特務機関である光機関に配属され、特務工作と原住民の宣撫に従事していたのだ。  ビルマでも、開戦の数年前から、同じ日本山妙法寺の永井行慈《ながいぎようじ》上人が、やはりウチワ太鼓をたたきながら、貿易商や新聞記者にバケた日本の陸海軍将校の特殊任務を助けていた。今もビルマ人の偶像となっているオン・サン将軍以下三十人の若いビルマ人を日本に送り、日本式に訓練する計画に一役買ったのも、この上人である。  日本山妙法寺というのはアジア各地につくられたもので、インドではカルカッタに今ものこっている。先年、わたくしもこれを訪れたが、建立者は藤井日達《ふじいにつたつ》上人といって�伽藍仏教�に反対、身延山と正面衝突して、 「日本の仏教はもとのインドへもどるべきだ」 という日蓮の遺文に基づき、まず満州にわたり、ソ満国境のいたるところに、「南無妙法蓮華経」の碑を立てて歩いた。上海でも、夜となく昼となく、ウチワ太鼓をたたいてまわったが、これが「上海事変」のいとぐちになったともいわれている。  その後、彼はセイロンからインドにはいり、「国民会議派」と結びついて、ガンジーの口から「南無妙法蓮華経」を唱えさせた。戦時中もインドにがんばり、天井裏に無電機をかくしているというので、取り調べをうけたこともある。  戦後、帰国して熊本市郊外の花岡山に見ごとなパゴダを建てた。花岡山は、明治のはじめ、海老名弾正《えびなだんじよう》、宮川経輝《みやがわつねてる》、小崎弘道《おざきひろみち》、金森通倫《かなもりつうりん》、横井時雄《よこいときお》など、理想にもえる若いキリスト教徒があつまって、有名な�花岡山の誓い�を立てたところだ。  [#小見出し]日露さけられぬ戦いへ  一九五三年、三年余にわたる朝鮮戦争の停戦会談のおこなわれた板門店には、わたくしも行ってみた。ソウル・新義州間の街道筋にあたり、自動車だとソウルから一時間くらいで、美しいポプラ並木の道が坦々《たんたん》とつづいている。  ところで、朝鮮を緯度にしたがって二分する計画が立てられたのは、これがはじめてではない。明治三十六年すなわち日露戦争の前の年の十月、日本の小村寿太郎《こむらじゆたろう》外相と駐日ロシア公使ローゼンとが、東京で談判したとき、ロシア側の提案のなかに、つぎのような一項があった。 「韓国の領土中、北緯三九度以北の地方を中立地帯と見なし、両国いずれも軍隊を引きいれないこと」  この年六月、当時のロシアの陸相クロパトキンが、極東視察の名目で、実は日本をおどかし、開戦を断念させる使命をおびて、日本を訪れ、寺内正毅陸相と対談し、 「ロシアには三百万の常備兵がある。もしも日本から戦いをいどんでくれば、余はこの大軍をひきいて、ただちに東京に攻め入るであろう。しかし、余個人としては、戦争が双方に不利なことを痛感している」 とまじめに語ったという。これが彼の真意であったことは、のちに発表された彼の自伝にもはっきりと書かれている。  その前、彼は「セバストポール」「リューリック」「ワリヤーグ」の三艦をひきいて下関にのりつけ、前に日清講和談判のおこなわれた「春帆楼」で一泊したが、出迎えた下関要塞司令官に、日本陸軍の装備についていろいろと質問した。日本兵の軍服、軍靴、帯剣などをとりよせて見せると、彼はカラカラと笑い出し、 「こんな服装で、満州やシベリアで戦さができると思いますか。こんなペン先みたいな剣で殺すつもりですか」 と、あざわらった。そして仲居頭のお芳に、日本金で百円のチップをおいて横浜へむかったという。  クロパトキンが日本を去ったあと、六月二十三日の御前会議が開かれた。これには伊藤博文、山県有朋、松方正義《まつかたまさよし》、大山巌《おおやまいわお》、井上馨の諸元老のほか、首相桂太郎、外相小村寿太郎、陸相寺内正毅、海相山本権兵衛などが出席し、日本としては、韓国を断じて守るが、満州にかんしてはいくらかロシアにゆずってもよいという線で、さいごの決意を固めることになった。  ところが、そのころの伊藤は、元老の筆頭でいて、「政友会」という政党の総裁でもあった。そしてその党員のなかには政府攻撃をおこなうものもあり、これでは挙国一致の臨戦体制がとれないというので、桂首相は、伊藤が「政友会」から身を引くか、それとも自分が内閣をやめるか、どっちか一つを選ぶほかはないといい出した。  その結果、山県の発案で、伊藤は「政友会」総裁をやめて枢密院議長にまつりあげられ、山県、松方も枢密顧問官におさまって、臨戦体制ができあがり、ロシア側と最後的交渉の段階にはいることになったのである。そして前にあげた日本の大陸政策の基本的条件を決定し、ロシア側に通告したところ、先方は極東外交をアレクセーエフ総督の所管にうつしたばかりだった。そこで、小村外相とローゼン公使のあいだで、談判が開始され、これが決裂して、翌年二月六日、ついに日露の国交は断絶するにいたったのである。開戦後、アレクセーエフは、総督のまま、極東軍総司令官に任命されたが、作戦を誤ったというので、沙河の会戦後、クロパトキンにその地位をゆずった。  さて、北緯三九度以北を中立地帯にしようというロシア側の提案は、事実上韓国を二分し、平壌から元山にかけて一線を画し、それから北はロシアの支配下におこうとするものであることは明らかだった。これにたいして日本側は、 「第一、国と満州の境界に、両国側とも各五〇キロメートルにわたる中立地帯を設定し、右地帯には、いずれも相互の承諾なくして軍隊を引き入れないこと。  第二、満州が日本の特殊利益の範囲外にあることを日本が承認し、韓国がロシアの特殊利益の範囲外にあることをロシアが承認すること」 というところまで日本は譲歩したけれど、ロシア側では、日本は英米とくに英の支持をうけて、強気を見せているけれど、戦意も戦力もないと見てとって、つっぱねたのである。これに日本が屈服していたならば、日露開戦は一時さけることができたかもしれないが、二つの朝鮮は、四十年以上も前に実現していたことになる。  それから二十四年後の昭和二年、田中義一内閣のとき、後藤新平がヨッフェやカラハンを相手に、日ソ国交調整に努力し、そのお礼に、ソ連の革命記念日に国賓として招かれたが、いやしくも親任官待遇の高官が�赤い国�に招かれて行くとは何事ぞ、という反対論が出た。そこで、後藤のかわりに、田中首相と同郷の盟友で�怪物�の久原房之助が出かけて行った。そのときの収穫というのが、ソ連から沿海州、中国から満州、日本から朝鮮をそれぞれ供出して、中立の緩衝国家をつくるということである。  [#小見出し]久原の�アジア合衆国�案  幕末・明治の国学者で子爵になった福羽美静《ふくばよししず》からきいた話として、福本日南《ふくもとにちなん》が書いているところによると、明治政府成立直後、西郷隆盛は、福羽にむかって、 「�王政復古�というけれど、王政の昔、三韓は日本のものであった。あれをとらねばほんとうの復古にならんね」 といったという。このように、日本と朝鮮の関係は古くて深いというよりも、宿命的ともいうべきものなのだ。  ところで、アジアに一大中立国、つまり、�アジア合衆国�をつくるという久原房之助の案には、スターリンも原則的には賛成したと、戦後わたくしは久原自身の口からきいた。  この新しい中立国は、ソ連、中国、日本の共同管理下におかれ、いずれも、開発や投資は自由であるが、軍隊は絶対におかぬというたてまえである。  帰国後、久原はこの案をもって、熱心に、大まじめに各方面を説いてまわったけれど、本気に相手になるものはいなかった。もしもこの案が実現していたならば、今から四十年近くも前に、現在のラオスのような性格をもって、規模の大きな国がアジアにできていたわけだ。その結果、�満州事変��日華事変��太平洋戦争�などもおこらずにすんだとも考えられるし、逆にこの緩衝国が噴火口となり、現在のラオス以上の大混乱におちいって、第三次大戦はそこからおこるような事態が発生したかもしれない。  現在、朝鮮を二分している境界線は、四十余年前にロシアが提案したものよりも、緯度にして一度だけ南のほうに食いこんでいるだけで、大したかわりはない。今の中立地帯は、南北とも二キロで、白いテープのしかれている内側は、完全に無人の平和地帯になっている。したがって、ここは動物の天国で、年中各種の鳥がのどかにさえずっているが、トラやクマが出ることもあるという。  わたくしが板門店をたずねる少し前に、ちょっとした事件があって、南朝鮮側の大尉が一人殺されたそうだが、別に緊張した空気は感じられなかった。  それでも、道の両側には、国連軍のキャンプが多く、ジープの往復がさかんで、終戦直後の日本を思わせる。あちこちにヘリコプターやオートジャイロがならんでいる。こわれた橋は仮修理のままになっていて、そのそばで敵前渡河の演習がおこなわれている。  板門店につくと、�フリーダムズ・フロンティア�(自由の最前線)というスローガンが目につく。�国連軍�といっても、殆んどアメリカ軍で、ベビー・サイズの劇場・教会・プール・将校クラブから、PXまで、ひととおりそろっている。ソウルでは一本百ウォン(日本円で二百八十円)のビールが、ここでは三十五ウォンである。レストランもあって、訪問者でも、一人八十ウォンで食事ができる。  停戦委員会の会議がおこなわれた室も見たが、そこにはグリーンのクロスをかけたテーブルがおかれていて、そのクロスのまんなかが南北の接点になっているのだ。毎月一回、ここに南北の代表があつまり、その期間中におこった事件や問題が処理される。北朝鮮側の監視所は、そのすぐ前にあって、ソ連兵そっくりの服装をした北朝鮮兵が、わたくしたちのような毛色のかわった訪問者がくると、好奇心からか、報告する必要があるのか、外に出てこちらを見る。  会議のある日には、両側の新聞記者たちが、近くの林のなかでおちあって、議論したり、タバコ・酒・チョコレートなどを交換したりしたものだという。一九六〇年四月の革命のあと、南の学生がここにおしかけてきて、北の学生といっしょに「アリランの歌」を合唱したりしたという。今も南の学生が大勢バスをつらねて参観にきているが、北側のものと口をきくことはきびしく禁じられている。  見晴らし台のようなものができていて、その上に立つと、南北の姿を一望のもとにおさめることができる。一頭の子ジカが、ディズニー映画の一つのシーンのように、楽しそうにかけて行くのが目についた。ここでは動物たちが人間の迫害から解放されて、逆に人間どもが�イデオロギー�という名の二つの巨大な鉄のオリのなかに入れられて、互いに目をむき、キバを出し、ほえあっているのを見ているような錯覚をおこした。  ところが、フランスの左翼新聞『ユマニテ』の副主筆レイモン・ラビニュが、一九五八年五月、北朝鮮側の招待でここを訪れ、つぎのように書いている。 「人民軍の兵士たちがハトを飼っている。ハトの巣箱は、この国を二つにたちきって横たわっている軍事境界の標示杭にまでかけられている。兵士たちが、わたしたちに語ったところによると、ハトたちは、境界線をこえて行くことが禁止されていることを知っているという。境界線のすぐそばの監視区域でチューインガムをかみつつ、行ったりきたりしているアメリカのMPどもが、石つぶてでハトを追いちらしている。ハトたちは、朝鮮が二つにたちきられていること、境界線の標示杭の北側には自分らを愛している人々が住んでおり、南側へとんで行けば、石つぶてがとんでくる、ということをよく知っている」(平壌の「外国文版社」発行『朝鮮の印象』)  これで見ると、人間どものイデオロギーのたたかいに、�平和の象徴�となっているハトたちもまきこまれているようである。  [#小見出し]対立のまま�名所�になる  板門店を見てつくづく感ずることは、二つの勢力の争いの場が、対立のままで固定して、今や一種の観光地と化していることである。  朝鮮戦争についていえば、縁台将棋に名人がのり出してきたようなもので、ヘボならヘボ同士で将棋をさせば、かんたんに勝負がつくけれど、ヘボたちのうしろに名人がついて、負けそうになると助言をするというのでは、�千日手�のような形になる。そこへ国連というものがのり出してきて、�休戦�にもって行くことになると、火事が消えないままに凍結されたようなもので、火をふかない軍事的、政治的対立が半永久化してしまう。  かつてはげしく争った二つの勢力の接点が、こういう形でいちおう安全地帯に化すると、�見学�と称して、見物人が続々とやってくる。さらに、これが国際的ならびに国内的宣伝の場として利用される。時々小ぜりあいがおこって、それがニュースになったりすると、好奇心をそそり、いっそう見学意欲を刺激する。  板門店に似たところは、世界中にたくさんあるが、これを新しい観光資源として積極的に利用しているように思われたのは、ユダヤ人のつくったイスラエルである。アラブ諸国とイスラエルのあいだに休戦協定が成立し、境界線が定められたのは一九四九年であるが、それから十数年たっても準戦時状態がずっとつづいている。有名なダビテの墓のあるシオンの丘に立つと、�敵�すなわちアラブ側の動きが手にとるようにみえる。ユダヤ人のガイドは、アメリカの観光客に双眼鏡を貸しつけて、�戦況�を見る便宜を与えてくれるのである。  同じことが、最近とみに緊張の度を増したと伝えられる台湾の最前線、金門・馬祖の両島についてもいえる。ここの�戦争�は、今でも一日おきにおこなわれていて、偶数日は休戦日になっているが、アメリカや南方華僑の見学団が台湾から飛行機で続々はこばれてきて、さまざまな防禦施設や地下映画劇場などを見せられたうえ、敵側一キロのところにあるレストランで、国府軍の幹部将校と食事を共にし、名産の高梁酒で乾杯するのである。そのあと、国府軍では、大陸側へ流行歌を流したり、ゴム風船をとばしたりしてみせる。これで�敵の戦意を破砕�しようというのだが、見学者のためのアトラクションとしか思えない。こういう�戦争�が、ここでもずっとつづいているのである。  ベルリンの場合もこれに似ている。これまで東側の共産地区は、西側の観光客にとって、いささか危険とスリルをふくんだ見物の対象になっていた。とくに東から西への脱出が多かったときには、西側の見物人もワンサとおしよせたものだ。その後、東側でいかめしい障壁を築いて遮断してしまったが、昨年のクリスマスには、西側からの面会を許して人気を呼んだ。  これらの現象は、すべて�二つの世界�の�冷戦�が固着したことからおこったものであるが、今や共産主義陣営はソ連と中共にわかれ、資本主義陣営はアメリカとヨーロッパ、とくにフランスとの対立が正面に出てきたうえに、世界の関心は、東西関係から南北関係、すなわち先進国と低開発国の問題に重点がうつり、久しく二元化されていた世界は多元化の方向にむかいつつあるといわれているが、それでもひとたび生まれたきびしい対立は、対立のままで癒着《ゆちやく》し、切開手術をほどこすことがますます困難になってきている。  それどころか、コンゴのカタンガ地区、ラオス、南ベトナム、キプロスなどにおいても、国連、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国などの軍事的介入もしくは政治的、経済的干渉で、地域的な紛争が、いたるところで半永久化する傾向を示している。その結果、これらの紛争の接点が、新しい観光の対象になる公算も増大している。ヒロシマ、ナガサキも、これに類するものだ。現在の�世界平和�は、こういう形で維持されている。少なくとも第三次大戦がおこるのをくいとめているともいえよう。  日本の場合でも、明治のはじめ、北海道で榎本武揚その他の旧幕臣によって建設された共和国に、フランスその他外国の強力な援助が加わっていたならば、少なくともある期間、�二つの日本�が存続していたかもしれない。それよりも、日本の敗戦直後、ソ連軍が北海道に、国府軍もしくは中共軍が九州に進駐してくる可能性があった。それが実現していたならば、�三つの日本�になっていたろう。  そうなると、下関海峡の彦島が香港の役割りを果たし、下関が九竜《クーロン》半島のような形になっていたにちがいない。現に元治元年の「馬関戦争」のあと、イギリスは下関の開港とともに、彦島の割譲、もしくは租借を長藩に要求した。これをまぬかれたのは、フランスの反対もあったが、折衝にあたった高杉晋作《たかすぎしんさく》らが断乎としてこれをことわったからだ。それというのも、高杉は前に上海に行って、西欧帝国主義の手口をちゃんと見ぬいていた結果だといえよう。 [#地付き]〈炎は流れる三 了〉 [#改ページ] [#小見出し] あ と が き 「炎は流れる」も、第三巻が出た。  正直なところ、こんなに大きな反響があり、これほど多くの読者の支持をえるとは、予想していなかっただけに、少々面くらっている次第である。  今日の日本人にとって、民族としても、個人の場合でも、いちばん大切なものは、�平衡感覚�ともいうべきものだとわたくしは考えている。時代により、年齢により、環境によって、右に左に、大きくゆれるということそれ自体は、それほど悪いことではない。それはどっちかというと、生物学でいう�適者生存�の原則に基づく環境への適応であって、この原則にしたがわないものは、亡びていくほかはないのである。  徳川時代はさておいて、幕末以後の日本人の歩んできたあとをふりかえってみると、左右へのゆれかたが、あまりにもはげしかった。敗戦前後にも、幕末と同じような激震が日本の各界におこり、その後二十年近くなって、「もはや戦後ではない」といわれるようになった今でも、その余震はまだつづいている。  しかしながら、この現象は、わたくしにいわせると、決して悲観すべきことではない。むしろ、日本人の民族的年齢の若さ、そこからくるスタミナの高さを示すものだともいえよう。問題は、ゆれることが多いとか少ないとか、その振幅が大きいとか小さいとかいうことにあるのではない。適当な時期、手おくれにならない前に、平衡をとりもどす能力があるかないか、あるいはその能力の強弱にかかっている。  その点でも、日本民族は、公平に見て、それほど劣っていないというのが、世界のほとんど全部の国々をこの眼で見てきた上でのわたくしの結論である。とくにラテン系やスラヴ系の諸民族に比べて、この点では日本人のほうがずっとすぐれているとわたくしは考えている。  ただし、日本民族の最大の欠点ともいうべきものは、急激な事態の変北に直面したときに、希望的観測と悲観的観測が、ともに強く出すぎることである。どっちも盾の両面のようなもので、現実を正しく見て、冷静な判断を下すという習慣の欠除もしくは弱さからくるものだ。  この傾向は、日本内地においてよりも、外地で、すなわち日本人が海外に移住した場合に、より強くあらわれるようである。ブラジルのように多数の日本移民を送りこんでいる地域だけでなく、地理的にはもちろん、あらゆる点で日本ともっとも近いところにあるハワイにおいてさえも、日本の敗戦を信じないという�勝ち組�が多く発生したという事実がこれを証明している。  この事実は、日本人の精神構成、日本人的忠誠心の或る一面を端的に物語るものである。これは日本人にとって、大きな長所であるとともに、ときには�恥部�ともなるべきものだということを、日本人は率直に認めて反省しなければなるまい。  こういった精神構成は、日本民族特有のものではない。たとえば琉球人は、長期にわたって、日本人と血や伝統の上で、全面的もしくは部分的にかさなったり、交錯したりしながら今日にいたって、現在は政治的に日本本土から分断されているのであるが、琉球人の基本的性格のなかには、日本人以上に日本人的なものが多分に見出される。  かつてわたくしは、日本人移住地を片っぱしから巡歴して、�日本的なもの�が、いたるところで、日本内地におけるよりも、拡大強化された形で露呈している姿を見て驚いた。ところが、二回の琉球訪問と、さらに琉球の古い文献類を新しく見なおすことによって、この事実を再認識したのである。それは琉球人の�離島的性格�ともいうべきものであって、その点で日本本土の日本人よりも、琉球人のほうが徹底していることを知った。  同じことが韓国および韓国人についてもいえる。こんど二十年ぶりで、韓国に招かれて行って、その�解放�された姿を見たのであるが、正直にいって、新しい韓国の現実について筆をとる意欲をわたくしはほとんど感じなかった。それよりも、この機会に、この国と日本との古いつながり、韓国人の民族性、とくに日本人や琉球人との比較においてこれを再検討するということに、重点をおいた。  琉球人の基本的性格が�離島性�にあるとすれば、韓国人の場合は、大陸とはなれられない�半島性�にある。これらと日本を結びつけて、その三角関係を見るということが、第三巻の主たるテーマとなった。いわば�歴史のルポルタージュ�の見本みたいなつもりで、筆をすすめた次第である。   一九六四年六月 [#地付き]大 宅 壮 一  [#地付き](昭和三十九年七月、文藝春秋新社) 〈底 本〉文春文庫 昭和五十年十一月二十五日刊